2

 烏丸神社本殿。板張りの床が広がった空間の中心で、初老の神主・烏丸ミチルが念を唱えながら、赤い瞳と対峙している。その赤い瞳を等間隔に囲む黄緑色の炎は、まるでミチルの唱える念に呼応しているかのように揺らいでいた。


 しかし、黒いドリームストリームは止まることを知らず、この広い空間を飲み込む勢いだ。


 ミチルは焦り始める。


 まずい、具現化した悪夢を早く押さえ込まなければ、私まで夢の中へ引きづり込まれてしまう。


 黄緑色の炎は、ドリームストリームの勢いに押されて小さくなり、消えてしまうところもあった。


 くっ、やはり夢見でなければ悪夢と相対することはできぬか……。


「ミチルさん。あとは私が……」


 ミチルは横を見ると、浴衣姿の月影が自分の背丈以上もある長く大きなかんざしを持って立っていた。


「泪……。対象は、単に悪夢に侵されているだけじゃなさそうだ。私でさえ、悪夢の侵攻を押さえるのが手一杯。いや、完全に押されてしまっている」


 ミチルは、月影が部屋から出て来たことをそれほど気にかけることはしなかった。


「もうここは夢の中と一緒です。すぐにドリームストリームの外へ出て下さい。長くいたら危険です。きっと馨もすぐに私の後を追ってここへやってきます。外にいてください」


 ミチルは月影の目を見つめた。部屋の中にいた時の目とは違っていた。今、自分が何をすべきか、力強さを感じさせる。


「……そうか、わかった。そうしよう。頼んだよ」


 ミチルは笑顔を見せてその場から下がった。


 ギロッと赤い瞳が月影を睨みつける。月影は目線をそらすように赤い瞳の下で横たわっている男を見た。まったく意識もなくぴくりとも動かない。


 この男、一体どうしてこんな悪夢に取り憑かれたのだ。それほど心を揺さぶられることがあったとでも言うのか。


 月影は深呼吸を一つし、ピッと胸の前で指を立てた。


「夢へと通ず闇の路を照らせ、篝火かがりび!」


 本殿の各柱に備えつけられている篝火用の薪に火がついた。いくつかは火を灯すことができたが、半分以上くすぶりを見せるだけで、火は灯らなかった。


「そんなはずはない」


 どんなに間が空こうと、私が手違いをするなんてあり得ない。


 考えている間にも男からどんどんドリームストリームが出てくる。その溢れ方は尋常じゃない。


 ――夢見の私が夢の中に入ろうとしているのを拒んでいるのか?


 もし、そうなら篝火が灯らないのも納得はできる。でも、こんなことあり得るのか? ……私は一体誰に聞いているんだ。ここに夢見は私、ただ一人……。


 月影は動揺していた。過去、夢見をしていた頃に、こんなことはなかった。


 そうこうしているうちに男の体からいっきにドリームストリームが溢れ出す。男は、泣いていた。泣きたいのは私の方だ、と月影は胸がいたくなった。


 さらに一面に広がったドリームストリームの上に男が夢見ている情景が描かれる。空を飛んでいる旅客帆船の甲板に倒れた人々と泣き崩れているその男。船の舳先には赤い瞳が宙に浮いていた。このままこの男を泣き殺そうとしているのか……。


 月影はその瞳に見つめられて動けない。寒いはずのなのに、額から汗を流していた。


 これが恐怖……まるで部屋に閉じこもっている時みたいに孤独を感じさせる瞳だ。


 時に悪夢は、現実世界に具現化する。それは強靭な力を持つ悪夢である証拠である。逆に言えば、夢を見ている対象―悪夢に取り憑かれた男が危険な状態である証拠だ。


 すると、甲板の上の男は、左耳の刀を模した耳飾りを外すと、それが実物大の刀に変化する。そして、赤い瞳に向かって走り出す。


「悪夢を絶つ。俺は、夢絶ゆめたち陽向ひむかいてらすだ」


 その男・陽向照は、赤い瞳の眼球ど真ん中に刀を突き刺そうとした。


 が、赤い瞳は向かってくる陽向に焦点を合わせるとまんまるの大きな瞳孔がキュッと縮まる。赤い瞳から衝撃波が生まれ、陽向はそれに抵抗しきれず吹き飛び、甲板に叩きつけられた。


「グァー」


 この男は、夢絶だったのか! だから、あの時、悪夢に抵抗して言葉を発することができたのか。しかし、夢絶は普通、対象の夢の中に入ることができる夢見と一緒のはずだ。共に行動はしていないのか……。夢絶単独で行動するなんて聞いたことない。


 月影は陽向の具現化された夢を見入っている。


「くたばれ! 赤い瞳!」


 陽向はやっとのことで立ち上がった。すると陽向の持つ刀が発光し、辺り一面に真っ白な光が広がる。まぶたのない赤い瞳は、その光をもろにくらい、焦点が定まらない様子だ。


 陽向と名乗る男は、天才なのか本当の馬鹿なのか? 刀で刺して目をつぶす。それが駄目なら、光で目を眩ます。しかし、その光は弱まって行く。


「くそ。俺の力が足らないか……」


 陽向はその場に倒れた。すかさず赤い瞳は衝撃波を発生させた。陽向は甲板を転がりながら、空の海へと落ちて行った。そこで、甲板の情景が消え、黒いドリームストリームの海へと変わった。


 月影は、見入っていた陽向の夢から我に返った。こいつは一直線に立ち向かうことしか知らないのか。宙に浮いた悪夢を直接攻撃するとは単純すぎる。私はこんな男を助けようとしているのか……。夢絶と名乗る者なら、もう少し悪夢への立ち振る舞いを知っていてもらいたいものだ。


「ふん!」


 月影は、巨大化した月の玉かんざしを構える。


「月光・六弥太格子ろくやたごうし!」


 かんざしの玉がついた方でぐるりと円を描くと青白い円の光が出来上がる。そして、かんざしを横に振ると光の円は、円盤のように飛び赤い瞳の真下へと滑り込んだ。月影はトンとかんざしで床を叩いた。


 すると、青白い光の円から正方形の四隅それぞれが鎖のごとく連続して交差した光の牢が赤い瞳を包み込んだ。


 赤い瞳はその牢から出ようとするが、格子状の牢は硬くびくともしない。


「三日月乱波!」


 さらに月影は、かんざしを一振り。月の玉からいくつも三日月の衝撃波が赤い瞳めがけて飛んで行く。その衝撃波は光の牢を突き破り赤い瞳にぶつかって行く。


 赤い瞳は目にゴミでも入ったかのように瞳が潤み出した。


「あの小さな体に、こんな力があったのか……。四年もの間が空いているというのに」


 戦況を見ていたミチルは、いつの間にかやって来ていた馨をかばうようにして言った。


 私は、あれを喰うのか。喰えるのか。喰ったら相当の呪いの作用が考えられる。いや、迷っている暇はない。篝火をまともに灯せない状況で、対象の夢の中に閉じ込められたら最悪。現実世界に戻れなくなる。やっぱり、今……。


 月影はひと呼吸間を置いた。


「月光邪口じゃぐち!」


 月影の持つ巨大なかんざしについた月の玉が満月のごとく明るくなり、色濃く広がった月影の影に一筋の線が入ると、パカッと上下に口が開く。すると、口の開いた月影の影がもぞもぞっと揺らめき出した。


 月影はかんざしを振り回すと、月影の影が足下から離れ、床からはがれ、宙に浮いた。光と影の関係の如く、明るく輝く玉かんざしを動かすと影はそれと逆に動く。しかし、影は水を得た魚のごとく広間の空間を動き回っている。それ自体に、意思があり自由に動いているようにも見える。


「狂気の世に重ねて錯乱せしめる悪夢よ、喰う!」


 月影の影―邪口がお腹を空かせた竜のごとくさらに大きく口を開き、素早い動きで赤い瞳を包み込む。しかし、邪口は赤い瞳を口に含んだ状態で、完全に呑み込めずにいる。次第に口は開いて行き、赤い瞳が飛び出て来た。


「はぁ……はぁ……」


 喰いきれなかった――。


 ブランクがあったから、私の力は弱くなっていた? 復帰戦にしては、相手が悪すぎる。赤い瞳。こんな悪夢、私は知らない。


 泣きたい。


 赤い瞳は、月影を見つめていた。


 透き通るその瞳に自分の姿が映る。


 月影は、恐怖で動けない。


 赤い瞳から視線をはずすこともできない。


 一瞬、赤い瞳が瞬きをしたように思えた。


 その瞬間は、私にとってすごく長く感じた。


 私の最後か。


 痛みを感じずにはじけ飛ぶのか、燃えるように熱く溶けていくのか。私はどんな死に方をするのだろうか。


 赤い瞳の瞳孔が縮まり、光線が私の横を通過して行く。間髪入れずに次々と光線が放たれて行く。月影は必死に避ける。月影の呼吸はさらに荒くなり、動くこと自体が辛く感じている。すでに足は言うことをきかず、震えているのがわかる。


 痛い――!


 目を覚ます痛みを指に感じた。光線が薬指をかすめた。傷口から血が垂れ落ち、ずきずきとうずいた。


 しかしそれ以上、光線は向かって来なかった。そして、赤い瞳は宙を舞って消えた。


「どうして……」


「るーいー」


 馨が月影のもとにやって来たが、月影は赤い瞳が姿を消した天井をずっと見ていた。


「私が私であるために。運命は動き始めた」


 赤い瞳にそう言われた……気がした。


 赤い瞳は人の夢に取り憑いた悪夢だったけど、私のことを見透かしていた感じだった。


 冷静に考えれば、私はあの部屋から出た。そして、夢見としてまた悪夢を喰おうとした。


 この宿命から逃れることの出来ない運命。苦しみに立ち向かえというのか。それとも苦しみから逃げず、死ぬまで苦しみ続けろと言いたいのか。


 陽向という男から悪夢は消えた。ドリームストリームも出なくなった。無事だろうか……。


 もし、彼が生きているのなら、実行してもらうとするか。もしかして、もしかすると、それを覆せるかもしれない。陽向という男の言葉を信じてみてもいいのかもしれない。望みは薄いだろうが……。


 月影は急に睡魔におそわれ、その場で力つき、倒れた。

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