第一章 月が照らす影

1

 衝撃で高鳴る鼓動に呼吸のリズムが合わないでいる月影は、後ずさりしようにも部屋の壁に阻まれどうしようもなかった。


 今しがた月影が寝ていた布団の上は、屋根の瓦や天井の木片が散らかっていた。もう少し起きるのが遅ければ、直に衝撃を受けてとんでもないことになっていただろう。無論、そう思うことすらできなかったかもしれないが。


 舞い上がっていた埃は、鎮静していく。ほこりの中で蠢く黒い影は、次第に正体を現していく。


「た す け て く れ」


 まだ若い青年が最後の力を振り絞ったように言った言葉を月影は確かに聞いた。青年の体全体から黒い光がゆっくりと水のように溢れ出ていた。


 ――悪夢に取り憑かれているのか。それでも悪夢に抗って自分の意識で助けを請うとは……。


 月影はその姿を見て、毛布をぎゅっと握りしめ、左右に首を振った。二度とドリームストリームに包まれた人を見ないと心に決めてこの部屋に居座ったはずなのに、どうしてまたそれが私の元へやってきた……。複雑な感情しか持たない人と関わりたくない。どこかに消えて欲しい。


「た す け て」


 青年はすっと手を月影に向けて腕をのばして言った。


 ――他をあたれ。私は人が好きではない。私に何も求めるな。


「無理だ。私は呪われている。もう人の夢を見て苦しみたくない」


 久しぶりに声を出した相手が、顔も知らない男。


「なら、……おれが……その……呪いから救ってやる」


「!」


 男はそう言って、後ろに倒れた――。


「お、おい!」


 男はぴくりとも動かない。ただ体全体から黒いドリームストリームが溢れ出て、床を這って行く。


「るーいー」


 部屋戸の向こうから子供の声と月影の部屋に走ってくる足音が聞こえてきた。そして、


「! 何事だ?」


 そう言って月影の部屋の戸を開けたのは、初老の烏丸ミチル。烏丸神社の神主だ。


 月影は四年前からこの烏丸神社の離れの部屋に住まわせてもらっていた。


 就寝にはまだ早く、ミチルはまだ法衣姿だった。そして、ミチルの横に小学生半ばのかおるが寝間着姿で心配そうな表情で月影を見ていた。


「るーい、大丈夫? 怪我してない?」


 馨は神主ミチルの法衣を握った。すぐに部屋の中で倒れている男が目に入った。


「わ、わたしは……だいじょうぶ」


 月影は荒い呼吸を落ち着かせながら答えた。


「これは一体……。るい、この少年は……」


 ミチルがゆっくり黒い光を発する男のそばへと近づいて行く。


「落ちてきたのか、屋根を突き抜けて。ドリームストリーム……この少年は悪夢に取り憑かれているのか」


「神主様……。この黒い光、とても嫌な感じがします」


 馨はミチルの後ろから怯えるように言った。


「馨もそう感じるのか。とてつもなく強い悪夢のようだな。このままでは悪夢が具現化してしまう。すぐに対処しよう」


 ミチルは法衣の懐からチョークのような白いものを取り出し、床に線を書き出した。すーっと、線をさらに引っぱり始めたその時、男の黒い光はダムが決壊したかのように体からいっきに溢れ出した。


「くっ。遅かったか!」


 ミチルはすぐに馨をかばう。


 月影は、腰を床に着けたまま足を前に蹴り出して、背中が壁にぶつかる。それ以上、下がることは許されなかった。


「イヤ―」


 月影は、目の前の光景に悲鳴を上げた。


 男の黒い光ドリームストリームの中から、巨大で気味の悪い真っ赤な目玉が出て来た。


「! こっ、これが取り憑いていた悪夢か。何ともおぞましい。馨、部屋から出ていないさい」


 馨は何も言わずに部屋を出て、廊下からそうっと中の様子をうかがう。


 その目玉、赤い瞳は部屋の中をぐるりと見回し、月影の前で動きを止めた。月影はギロッと赤い瞳に睨みつけられた。月影は恐怖で声も上げられず、小刻みに震えている。


 すると、赤い瞳の中心に光が集まり始めた。


 ミチルは手に持っていたチョークを素早く四つに折った。そして、赤い瞳を四点で囲むように四つのチョークを宙に投げた。パンと両手を胸の前で合わせ、合掌する。


 赤い瞳の中心に集まった光は、月影に向けてレーザー光線のごとく放たれた。


「神通力・第四の行・地点転地の業!」


 ミチルがそう言い放つと、先に投げ飛ばした四つのチョークの内側の空間が歪み、レーザー光線もろとも赤い瞳を飲み込んだ。倒れていた男もその場から消えていた。


「泪。大丈夫か?」


 ミチルがいつもの優しい笑顔で声をかけた。


「るーいー」


 すぐに馨も月影の元へ駆け寄ってきた。馨は毛布の上から月影を抱きしめた。


 ――久しぶりに人に触れられた。これが人の温もりか。


 寒いからだろうか、人の温かさをより感じることができた。ミチルの微笑ましい表情にも温もりを感じた。


 ほとんど部屋から出ない私に何か言ってくる訳でもない。こんな怪奇な状況に陥ってでさえも笑顔を向けてくれる。


 月影の目から涙がこぼれた。


「怖かったな。もう大丈夫だ。あとは、私が対処するから。泪はここで待ってなさい。馨は泪を見ていて下さい」


「うん、わかった。泪とここにいる」


 馨はまたぎゅっと月影を抱きしめた。


「頼みましたよ」


 ミチルはまた微笑んで足早に部屋を出て行った。


「るーい。大丈夫? 俺がついてるから、大丈夫だよ」


 馨は精一杯の笑顔を月影に見せた。


「だめ……」


「えっ?」


「ダメ」


「僕じゃ力不足?」


「違う。ミチルさん……」


「神主様? あの悪夢は神主様に任せておけば大丈夫だよ、るーい」


 子供ながらに気をきかせた馨の言葉に、月影は首を振った。


「あの悪夢は神通師のミチルさんでは倒せない」


「そ、そんなことないよ」


 馨は無理矢理笑顔で答えた。きっと馨もわかっているはず。九才という年齢でもこの子はれっきとした神通師だ。私なんかよりこの状況をずっと深く理解しているはずだ。


 ――でなければ、悪夢は倒せないと。


 しかし、また私が夢見ゆめみをすれば、苦しむのは私だ。ここで私が何もしなければ、ミチルさんはあの悪夢に取り憑かれ、あの男も一生目を覚ますことなく夢の中に閉じ込められるだろう……。


 ――別の形で、苦しみがまた私や馨を襲ってくる。


 月影は立ち上がろうとして、ふと下に目線を向けると、畳の上に黄色の玉がついたかんざしが落ちていた。月影はそれを拾い上げた。普段なら化粧台の上に置いてあるが、男が屋根を突き破った衝撃でここまで飛んできてしまったようだ。


 結局、夢見としての宿命は私から離れてくれることはないようだ。四年前と同じ惨事をまた目の当たりにするのか……。それだけは嫌だ。


 それにあの男の言葉。なんの根拠があって言ったのだろうか。あれほどの悪夢に抗う力が男の中にあるのだとしたら……。



 おれが……その……呪いから救ってやる――。



 月影の心の闇に一点に小さな光が灯った。そして、月影は玉かんざしをぐっと握り、立ち上がった。月影の肩から毛布が落ちると、浴衣姿で腰までまっすぐに伸びる黒い髪が現れた。


「るーい?」


 馨が心配そうに聞いた。


「……」


 月影は目をつぶり、一つ深呼吸をした。そして、パッと目を開け、一歩踏み出した。

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