第三部 伝えたいこと――5
洞窟を出て最初におとずれたのは騎士ヴァイスの元でした。
「アルテナ……?」
様子がすっかり変わったわたくしに、アレス様が呆然とした声を出します。「ヨーハン! 彼女に何をした?」
わたくしはそっと勇者を手で制しました。穏やかな微笑みとともに。
そして、ベッドに横たわる騎士の傍らに立ちました。
騎士の両手足が真っ青に血の気を失っているのが分かりました。顔色も悪く、脂汗をかき、苦悶の表情をしています。特に口元の変色が著しい。
それでも、暴れてはいない。さすがの精神力ということでしょうか。ヨーハン様のタリスマンも効いているようです。
「ヴァイス様……」
わたくしは騎士に顔を近づけ、囁きました。
「ヴァイス様、今お助けします……」
そうして片手を騎士の胸元に、片手を騎士の口元にかざします。
手が、穏やかな光に包まれました。夜の星空の輝きでした。
騎士の胸が、びくんと跳ねました。
わたくしの手から放たれた光は、騎士の口の中へと注がれ、騎士の体へと広がり、彼の体を輝かせていきます。
ああ――
英雄よ。あなたに相応しい光です。
やがて騎士の口から、何かがころりと出てきました。
それは小さな石でした。――魔物は星の神の欠片が石に宿ったものだと、言ったのはヨーハン様だった――
わたくしはそれを手に握りました。しゅうしゅうと煙を立てて、それは静かに消滅しました。
それを境に、騎士の顔や手足の血色の悪さが抜けていきました。
健康的な、いつもの騎士の容貌へ。
呼吸がすう、すうと正常に動き出します。
代わりにわたくしの体に、ずんとした重みを感じました。
どうやらこれが……神の力を人間の身で行うことの代償のよう。
それでもわたくしは、歓喜のあまり涙を流していました。つうと頬に伝う涙は、とても心地よく、とても幸福なもの。
そして――
そのうちに、自然と。
人目もはばからず、わたくしは騎士に口づけをしていました。
血色の戻ったあたたかな唇。ああ、わたくしの知っている彼の唇です。
口づけに、ありったけの思いをこめました。どうかこの素晴らしき英雄の体に祝福を。
一刻も早く、あなたが快復しますように――
*
それからわたくしは、魔物に憑依されている人々の元へ順番に回っていきました。
硬化型魔物の治癒も、騎士に対して行ったものと大差ありませんでした。神の言う通り手から憑依する魔物だったようで、わたくしは何人もの病人の手を握って力を注ぎました。
黒ずみ、固くなっていた体が正常に戻っていく――
町の人々は「奇跡だ」と喜びます。たしかに、奇跡以外の何物にも見えなかったでしょう。
おまけにどうやら今のわたくしは、まさしく『神』のごとく神々しさを放っているようで、誰もがわたくしを拝みました。
わたくしは誓いました。元に戻ったら、すべては星の神の成されたことだと、必ず説明しよう――と。
神の力を行使するたびわたくしの体は重くなっていきます。それでも、心は喜びでいっぱいでした。
特にシェーラの体を癒やせたときの喜びときたら。騎士にも匹敵するものです。目はまだ覚ましてくれませんが、きっとまたいつもの笑顔でわたくしに笑いかけてくれる――そう思うと、鼻の奥からつんとこみあげてくるものがあります。
そのまま、都合十四人ほどの町人を治癒したでしょうか――
他にもいないかと心配したのですが、途中再会したアレクサンドル様が、「残りはあと一人だね」と請け合ってくれました。
最後の一人――エリシャヴェーラ様。
そのころにはもう、わたくしの体は限界に近くなっていました。呼吸をするのも苦しいほどで、事情を知り、最初からついてきてくれていたアレス様に支えられていなければ、とても前に進めません。
ともに同行してくれていたヨーハン様が言いました。
「姫は自業自得です。無理して癒やさなくてもいいんですよ」
わたくしは首を振りました。
「姫とて失われてはならない命です。見て見ぬ振りはできません」
それは偽りなき、わたくし個人としての言葉――
わたくしは尋ねました。なぜ姫の憑依型魔物は、学者さんたちの予定通りに倒すことができなかったのか?
ヨーハン様は苦笑しました。
「簡単です。憑依型魔物を倒すために作った薬が、失敗作だったんですよ」
つまり憑依型魔物を、『弱点』への攻撃なしに対処することはいまだ無理ということ――
「僕たち学者の計算違いです。……僕も、少しは期待していたんですけどね」
恥ずかしそうにそう言うヨーハン様。
けれど誰だって新たな可能性には期待するもの。わたくしはヨーハン様に、微笑みを返しました。
王宮へは、アレス様とカイ様、何より学者のヨーハン様がいることで簡単に入れてもらうことができました。ヨーハン様が、姫の魔物憑依を解く方法を見つけたと強く訴えたからです。
王宮は上を下への大騒ぎとなりました。
そしてわたくしは寝込んだ姫様と対峙しました。
意外というか当然と言うべきか、国王陛下と王妃様もお姿を現しました。シュヴァルツ殿下もご一緒です。
「もしも嘘だったならば詐欺師としてお主の妹とともに斬首ぞ!」
王妃様はヒステリックに叫びました。それほどに、姫様が心配なのでしょう。
心配だからといって簡単に人を斬首にされても困るのですが。しかもラケシスもともにだなんて!
王宮の闇を一目で見た気がしますが、今はそれどころではありません。
*
順番で言えば、最初に魔物に憑依されてしまったのは姫様です。そのため、硬化が一番進んでいるのも姫様でした。夜着で巧みに隠されていますが、首元まで真っ黒に変色しています。呼吸はすでにひゅうひゅうとしたか細い隙間風のよう。
こうして改めて姫を見ると、様々な思いが去来します。
この人には本当に苦労させられました。
元気になったら再び騎士との婚儀を邪魔されるのだろうかと考えれば、一抹のうんざりとした思いも湧き上がります。
でも――
命まで取られていいはずはありません。
彼女の妨害とこれとは、まったく別問題なのです。
魔物が入り込んだのはやはり『手』。姫の手を握っている間、わたくしは祈りを捧げ続けました。
体がどんどんと重くなっていく。アレス様に支えられていてさえ、椅子に座っていてさえ、気を抜けば倒れてしまいそうになる。けれどわたくしは凜と背筋を伸ばしていました。
だって神の力をお借りしているのです。情けない姿など、見せられないでしょう?
姫のお体はどんどんと明るい色になり――
こうしてみると、本当に美しい姫様でした。飾り立てなくても十分に。
わたくしは淡く微笑みます。この人は恋敵――でも。
相手が美しい人だからって、もう負ける気はありません。地味な女であっても、わたくしにはわたくしにできることで、騎士を愛してみせますから。
姫の容態が明らかに快復したのを見て、王宮の喜びは最高潮に達しました。
国王はすぐさま侍医に指示を飛ばし、姫様の容態を安定させる方向へ執心しました。
「ありがとう、巫女よ。あなたのおかげで妹の命が助かった」
まっさきにお礼を言ってくださったのはシュヴァルツ殿下。彼は本心からほっとしたような顔で、にっこりとわたくしに微笑んでみせます。
良かった……やっぱりラケシスの選んだ人は、優しい人だったみたい。わたくしは心から安堵しました。
そして――
王妃様は――
「そなたは神じゃ! 星の巫女は、神の力を受けるものなのじゃ……!」
そう言って、とんでもないことにわたくしに対してひざまずいたのです。
「今までの無礼を深くお詫びする。もう、お主の託宣に文句は言うまい――」
「……でも、姫様が」
「姫にもよく言ってきかせよう。騎士ヴァイスは姫の手の届くところにいる人間ではないのだと。何しろ神を妻にする男じゃ」
それは言い過ぎだと思うのですが。
わたくしは苦笑して、それからつけたしました。
「いくつかお約束ください」
「なんじゃ?」
「もう、魔物の売買や怪しい研究はやめてくださること。それから……魔物学者の方々を、正しい役割に戻してさしあげること」
「――!」
知っておったのかとさすがに苦い顔をする王妃様。
わたくしはにっこりと笑って言いました。
「星の神は何でもお見通しです。悪いことはできないのですよ、王妃様?」
「……そのようじゃな」
王妃はうなだれるようにこうべを垂れました。
それを確かめ、わたくしはもう一度微笑みました。そして――
どうやら、それが最後の力だったようでした。
わたくしの体はそのまま、糸が切れるようにその場に崩れ落ちてしまったのです。
*
熱が十日間続きました。目覚めることもありませんでした。
神の言うとおり、力を使いすぎることはいけないことだった――
おまけに、考えてみればわたくしはヴェルジュ山に行くため、元々弱っていた体を治癒魔法で無理やり回復させていたのです。その反動も重なり、かなり
けれど。
夢の中に、わたくしの助けた人々が次々と現われては、わたくしを励ましていってくれて。
彼らがわたくしの手を取るたび、わたくしの体に力が満ちる――。
中にはエリシャヴェーラ様がいて、
『競争相手がそんなではつまらないわ』
そんなことを言って、つんとそっぽを向き消えていく。
(……ふふ。そうですね)
あなたと戦うためにはもう一度元気にならなくては。
そう思ったそのとき、誰よりも来てほしい人が夢の中に姿を現しました。
『アルテナーーーーー!!!』
なぜか大きなイノシシをかついでいます。『やはり肉は食べるべきだ! アルテナ、元気になったらもっと精のつくものを食べさせてやるからな!』
わたくしはぷっと噴き出しました。ああ、懐かしい騎士の大声。もはや耳に心地よくさえある。
早く目覚めなくてはと、心から思いました。
わたくしの居るべき場所は夢の中じゃない。現実の、騎士の隣――
そして、数えることちょうど十一日目。
わたくしは、瞼を上げました。
騎士がいました。アレス様がいました。カイ様もクラリス様も、ヨーハン様も。
シェーラがいました。ソラさんもいました。ラケシスまでもがいました。
全員が、涙を流して喜んでくれました。
「ああ――よく戻ってきてくれた」
騎士がわたくしの手を強く握り、語りかけてくれました。
騎士が涙を流すところを、わたくしは初めて見ました。
まだ重い手を伸ばし、そっと騎士の涙を指先で拭う。騎士はははっと笑ってから、今度は彼の手でわたくしの目元を拭いました。
気がつけばわたくしも泣いていたようです。
みんなと、同じように。
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