第三部 伝えたいこと――4

 幾条もの光が湖面に差し、その合間を縫って空の星の影がゆらゆら揺らめいています。

 わたくしは迷わず泉の中央へと進みました。


 冷たい水でした。けれど、ふしぎと寒さは感じません。まるで春に水浴びに入る川のようです。冷たいのに、優しい。


 本当にわたくしの祈りで神は降りてくださるのでしょうか……

 信じられませんでした。でも、信じなくてはいけません。


『星の巫女は神を疑ってはならない』


 それは修道女として真っ先に学ぶ事柄です。


 それに――何よりも。

 今このときも、苦しんでいる人たちのことを思えば。



 胸の前で手を組み合わせ、目を閉じました。


 瞼の裏に映るのは星ではなく、助けたい人々の姿でした。


 ヴァイス様、シェーラ、エリシャヴェーラ姫、町の人々……


 彼らを守る力を分けてくださるのなら、わたくしは何だってする。


 命を削って行わなければならないのなら、それでも構わない。


 星の神よ、だから、どうか。

 そのお力をお分けください――


 一心に、一心に。

 彼らを助けたいと。彼らに生を、と。それだけを。


 いったいどれほどの間、禊ぎの水に浸かっていたのか……

 ふいに、世界が明るくなったのを感じました。朝になったのでしょうか――?


 瞼をあげようとしてもあがらない。それにこの明るさは、朝の明るさとは少し違う。

 まるで、そう、先ほどまで見ていた幾条もの星の光のような――



 気がつくと、見知らぬ場所にわたくしはいました。


 それは夜空の『上』に思えました。足下に、ちりばめられた星が無数にあります。


 さらに下を見れば遙か遠くに、きれいな色の球体が見えます。あれは――なに?


 驚いてわたくしが足を動かすたび、星はちらちらとまたたきました。楽しげに――戯れるように。


 ここはどこ……?


 いつの間にか開いていた目をまたたきながら辺りを見渡すと、奥に光を見ました。


 光――人一人分の大きさの光。


 中に誰かいるようです。けれどまぶしすぎて、見ることができません。


 すう、すう、と。誰かの呼吸が間近に聞こえました。

 まるで、この空間自体が息をしているようでした。そのたびに星屑が明滅します。


 ――光の人物は、この夜空そのもの――?


『優しく勇気ある巫女よ。そなたを歓迎しよう』


 力強い女性の声。聞いただけで心が震え、畏怖いふ心にわたくしは膝を折り低頭します。


「神よ――」


 ふふ、と空気を揺らして相手は笑いました。

 しかし光は、わたくしに近づいてきてはくれません。


「神よ、どうかお力をお貸しください。今国では苦しんでいる者がいるのです。わたくしはその人たちを救いたい」


 どうなっても構わないから、どうかこの体をお使いください。

 すると神はため息をつくように息を吐き、


『せっかく助けられた体をすぐに捨てると言うか。自己犠牲は美しいが、それは無責任とは言わないのか』

「―――」

『そも、そなたはなぜそうして人を救おうとする? 自分さえ生き延びられればそれでよい。人とはそういうもの』

「いいえ!」


 わたくしは即座に応答しました。大きく首を振って。


「自分さえよければよい者のほうがこの世には少ない。誰しもなくせば悲しい相手がおります。愛しい人がおります」

『それはそなたの理想であろう。自分の生のみを望む者を、他人を見捨てる者を、我は何度も見てきた』

「―――」


 喉が嫌な音を立てるのを感じました。

 相手は――わたくしよりはるかに世界のことを知っている人。本来ならば言葉さえ交わす資格などなく、ただただ平伏ひれふすしかない存在。


 それでも……わたくしのこの内に、告げなければならないたしかな思いがある。


「……おっしゃる通り、これはわたくしの願望なのかもしれません。たとえ、あなたのおっしゃることが世界の真理であったとしても」


 わたくしは――


「人が苦しむ姿を、『わたくしが』見たくないのです。神よ、わたくしは利己的なのです」

『………』

「そして今、わたくしの目の前にその苦しむ人々を救えるかもしれない方法がある。ならば全力ですがりたい。それが間違いだとおっしゃいますか?」

『間違いではないな。ただ、幼稚だ』

「それならばわたくしは幼稚で構わないのです」


 星屑がまたたきました。相手が忍び笑う気配。


『そなたは愚かで幼稚だよ。自分を犠牲にして人を救っても、救われた者は案外簡単にそれを忘れるものだ。感謝など、ほんの一瞬のこと』

「感謝されるために成したいわけではございません」


 たしかに――

 孤児院や救貧院でわたくしに向けられる敬愛の目は、心地よい。

 けれど時にはそれがほんのひとときのことであることも知っている。


 ――同時に、知っている。感謝を長きに渡り忘れない人々もいることを。


「我が神よ、人の心はたくさんの紋を描きます。たくさんの色を放ちます。この世にひとつたりとも同じ色形の石がないのと同じように……。大勢の人間を見ている者こそ、きっとそのことに気づきます。そうではありませんか?」


 あっはっは、と今度はとても人間らしい笑い声が聞こえました。


『我よりはるかに短い生き様の人間にそんなことを言われるとはな! これは愉快』


 手が、だんだんと震え始めていました。

 神は――力をお貸しくださらないかもしれない。そう思えてきたのです。

 そのお考えを真っ向から否定する、そんな巫女には、その資格がないのかもしれない。


(……たとえそうであっても)


 わたくしが簡単に諦める理由には、ならない。


『……ふふ。そなたは面白い。凡庸な自分に成せることを求めて今まで生きてきたのだな』

「……はい」

『周囲に華やかな者が多い身では、惨めで、寂しい人生であったろうな、それは』

「―――」


 手の震えが止まりました。

 声が、凜とした響きを宿らせるのを、わたくしは自分で感じました。


「いいえ。このような生き方に満足しております」


 何もできないと思っていた、あまりに平凡な自分。

 けれど手を出してみれば、少しはできることがあって……

 わたくしの行いで、喜んでくれる人がいて。


 それで十分だったのです。わたくしには、それで十分。


 そして今も。

 わたくしにできるかもしれないことがある。


「神よ。どうかわたくしの体をお使いください。そして、人々をお救いください」


 星のまたたきはちらちらと、まるでわたくしの動向を観察しているかのように。


『……ふむ』


 光は今、どんな表情をしているのでしょうか。

 分からない。けれど――どこか、優しい。


『他の星の神どもが言っていた通り、そなたは面白い。我を宿らせる資格を有する、今時珍しい女だ』


 そして、星の神は言いました。

 もしも――

 我がそなたの体に宿れば、そなたは死ぬだろう。


「―――」


 わたくしは押し黙りました。改めて言われると、にわかにどうしていいか分からなくなる。


『星の神は数多あまたいる。我はその中でももっとも人間に近しい者だ。それゆえ人に宿ることができるのだが……それでたくさんの巫女を死なせてきた』

「………」

『先ほどあの学者の小僧が何やら言っていたようだが……あの小僧の解釈は少し違うな。もうやめてくれと修道院に懇願されたのは事実。だが、やめたのは我の意思だ。我は二度と巫女を死なせん。そう誓った』

「神よ、それでは――」


 助けては、くれないのですか。

 それを告げるために、お姿をあらわされたのですか。わたくしたちにはもう手がないことを告げるために。


『手がない? 魔物の憑依は弱点をつけば解ける。口から入ったなら口を。他の硬化魔物の者たちは手だな。手を潰してしまえば魔物は死ぬ』

「それはできませぬ!」


 思わず力がこもりました。


 口を潰す? 手を潰す? そんな残酷な方法でしか、彼らを救うことはできないのなら。

 はたしてそれは、救うと呼べるの?


『贅沢だな』


 ふふ、と空気がゆらめく。

 愉快そうに、わたくしの反応を楽しむように。


『……そなたは優しい。我の見込んだ通りに』


 それでこそ、相応しい。


 光が。まぶしすぎてまっすぐ見ることも難しかった光が、ひざまずいたわたくしにだんだんと近づいてきます。


 近づくにつれて、人の形になってゆきました。まばゆく輝いたまま。


 くらくらする。目を焼かれてしまいそう。けれどわたくしは瞳をそらしませんでした。星との対話から――顔をそらしてはいけない。


 立て。そう言われ、わたくしはそっと立ち上がりました。


 真正面に立てばなおさら、輝きはわたくしから視界という視界を奪いました。それでも……恐れを感じなかったのは、その力に圧倒的な強さを感じたからでしょうか。


 人は、次元の違いすぎる力の前ではもう不安を感じることもできない。わたくしはそれを身をもって知りました。


『……これを、そなたに』


 神の『手』が、何かを差し出します。

 それは星の粒を集めたような、きらきらとした小さな輝きの塊でした。


『これをその身に宿すとよい。我の力の欠片だ……だが、欠片だからと言って甘くみるなよ。そなたの体に負担になることに相違はない』

「―――!」

『力には限度がある。無理に使えば、やはりそなたの身は壊れるだろう。気をつけて使うことだ……』


 わたくしの手に、星の粒の輝きが渡されました。

 触れた瞬間に、すうとそれらはてのひらから吸収されていきました。


 何かがわたくしの体に満ちあふれる――それは夜空にまたたく輝きの色。

 浸食してくる。けれど魔物のときのような心地悪さはない。同化していくにつれて、自分が浄化されていく気さえする。


 悟りました。

 この力ならば――みんなを救える。


 人の形をした光が、笑ったような気配がしました。


『そなたの役目を果たせよ、勇気ある巫女よ』


 夜空の上のようだった世界がぐらぐらと揺らぎ始める。

 足下にあった無数の星が舞い上がり、わたくしの周囲を踊り始める。ちらちらとまたたきながら、跳ねるように、遊ぶように。

 ああ、なんて心地よい世界。


 わたくしは再びひざまずきました。そして、両手を強く祈りの形にしました。


「感謝致します……我が敬愛する神よ」


 光がだんだんと遠くなります。世界が暗転していきます。無数の星影が、遠くへと消えていきます。

 それらすべての気配が消えるまで――

 わたくしは祈りを捧げました。いつまでも、いつまでも。



「おねえさん!」

「アルテナ様」


 泉からあがってきたわたくしを迎えたのは心配げな二人の表情。


「大丈夫です」


 わたくしは微笑みました。ヨーハン様はわたくしの手元を指さし、


「その光は?」

「………」


 わたくしは己の手を見下ろしました。

 両手がほのかに輝いていました。自分の手ではないかのようです。


(いただいた力の影響……? ……そうだ)


「カイ様、先ほど怪我をされた腕を見せてください」

「え?」


 当惑するカイ様をよそに、わたくしは手早くカイ様の腕に巻かれた布を外します。


 見えたのは痛々しい裂傷。まだ血が完全に止まりきっていません。彼の痛みに思いをはせながら、わたくしは傷口に両手をかざしました。


 ふわりとしたほのかな輝きが、傷口に注がれていきました。そして――

 みるみるうちに血は止まり、傷がふさがっていったのです。


「アルテナ様! その力は」

「――神はわたくしの体に宿る代わりに、力を貸し与えてくれました」


 わたくしは二人の前で、微笑みとともにうなずきました。


「この力があれば、魔物に憑依された人たちを救うことができるはずです」


 力には限度があると、神は言いました。使いすぎてはわたくしの体に支障があると。

 けれどわたくしは、強く決心していました。今魔物に苦しんでいる人々すべてを救ってみせると。

 たとえこの体にどれほどの負担がかかろうとも、きっとやりきってみせる。


「ところで……あのーアルテナ様」


 ヨーハン様が頭をかきながら、横を向きます。


「そろそろ服を着られたほうがいいかと……」


 横を向いたまま彼が差し出したのは体を拭くための布。

 そのときわたくしはようやく自分が全裸であることを思い出したのです。


 真っ赤になったカイ様。気まずそうなヨーハン様。そして、


「きゃああああああ!」


 洞窟にこだましたわたくしの絶叫……

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