第二部 貴女に、――3
「あの、もう大丈夫なので、その子をおろしてあげてくれますか?」
と、その修道女は言った。
優しいしゃべり方をする女だった。丁寧で、嫌みがない。
ヴァイスは肩で暴れている子どもを
「おろしたら大人しくこの人の言うことを聞くか?」
「き、聞く! 聞くから放せー!」
「……反省が足りんな。もっと丁寧に言え」
子どもはしつけが大切だ。ヴァイスは厳しくそう言った。
目の前の修道女が驚いたように目を丸くする。そんなことは構わず肩の子どもの背中をばしんとてのひらで一発。
「痛い! 馬鹿力の化物女!」
「―――」
その言葉がふいにヴァイスの胸にささったトゲを刺激する。
ヴァイスはそれを押し隠した。今はそんなことはどうでもいい。どうでもいいんだ。
「言うことを聞くのか、聞かんのか。はっきりしろ」
「聞くってばー!」
「約束だな?」
「約束する!」
そこにきてようやくヴァイスはゆっくり子どもを肩から下ろした。
子どもは泣きべそをかいて、修道女にすがりついた。
「このねーちゃん恐い。恐いよー」
ふん、とヴァイスは腕組みをして鼻を鳴らす。
「この程度で恐がっていて、将来いい男になれるものか」
――半分はやけくそで言っているのだ。分かってる。
子どもは修道女のスカートの後ろに隠れ、顔だけ出して「あかんべ」をしてくる。
「反省が足りんな……」
ヴァイスは一歩踏み込んだ。
びくりと子どもが修道女のスカートを掴んだ。
「あの……待ってください」
口を挟んだのは、件の修道女だった。
ヴァイスに向かって、なぜか深々と頭を下げ、
「この子が言ったことはお詫びします。後でわたくしがよく言って聞かせますので……どうか」
これ以上は責めないであげて――。
「………」
ヴァイスは口をつぐんだ。
何だか背中がむずがゆい。手の届かないところにあるかゆさだ。言いたいことがある気がするのに、何も言葉が出てこない。
「……そうか」
それだけ言って、身をひるがえそうとした。もうここに用はない。
そのとき、あろうことか腹がぐるると鳴った。
(……なんてこった。そう言えば昼飯を食べていない……)
女の姿で歩き回るのが楽しすぎて忘れていた。途中の酒場で飲んでは来たが……食べてはいない。
くす、と笑う声が聞こえた。例の修道女の。
「……軽く食べていかれますか。少しは蓄えがございますので……」
「孤児院に蓄え?」
「先日勇者アレス様にいただきました。だから、お気にせずに」
アレスのやつめ、こんなところでポイントを稼いでいたのか。
と言いつつも、ヴァイスも孤児院に寄付をするのは好きなほうだ。気が向かない限りはしないのだが。
「さあ、どうぞこちらへ」
黒眼の修道女はにこやかにヴァイスを孤児院へ案内する。
――腹が減っていたのはたしかだ。だが金には困っていないのだから、食うだけなら町の中心部に戻ればもっとうまいものが山ほど食える。
それなのに、この修道女の言うことを聞いてしまったのはなぜだったのか――
修道院はごく普通の平屋だった。ただ建物の広さのわりに、子どもがごくわずかしかいないようだ。
ここに修道院があることは昔から知っていたが、記憶より規模が小さくなったような気がする。
「この修道院は、経営がうまくいっていないのか?」
まどろっこしいことの嫌いなヴァイスは直球で聞いた。
すると煮込みスープを運んできた修道女は、困ったように笑った。
「……先代様がお亡くなりになりまして。少し寄付が減ったのです」
「……そうか」
だからアレスが手助けをしようとしたのか。ヴァイスは納得した。
「こちらをどうぞ。お口に合えばいいのですが」
修道女はヴァイスの前にスープを置く。量は普段ヴァイスが食べている量の半分もなかった。ヴァイスは遠慮なく「少ないな」と言った。
修道女は慌てた顔をして、
「申し訳ございません、女性のかたにはこれくらいかと……す、すぐ別のものをお出ししますね」
「いや、待て。今のは嘘だ」
そう言えば自分は今女だった。その上ここは孤児院なのだから、そうそう大量に出てくるわけがない。
「これで十分腹はふくれる。気にするな」
今さら言っても遅いが。ヴァイスは昔からしばしばこうして他人の顔色をおかしくしてしまう。
案の定、修道女はしょぼんと肩を落とした。
黒い瞳が伏せられて、よく見えなくなった。それをなぜか残念に思ったヴァイスは、
「あんたは――」
とスプーンを握りながら修道女を見上げた。「修道院から、出向してきているのか」
「出向というほどのことではありません。今日は、この施設の順番だったので」
話が変わったことに安心したのか、彼女は顔を上げ、にっこりと微笑んだ。「修道院の者はあらゆる孤児院や救貧院に行くのが使命です」
「修道女とは暇なものなのだなあ」
そう言って、スープを一口含み
……嫌みのつもりで言ったのではない。単に素直にそう思ってしまっただけだ。
目の前の、黒眼の修道女は迷ったように視線を揺らし、
「元々、それがわたくしたちのお役目ですので」
「役目? 修道女は星の巫女になるために修行するのだろう? ――ああ、こうして施しをするのも修行の一環だとかアレスが言っていたか」
自分で言って自分で納得していると、修道女は目をぱちくりさせた。
「アレス様をご存じなのですか?」
「ご存じもなにも俺は――」
言いかけて口をつぐんだ。
……女の姿で正体をさらしても、信じてはもらえまい。
「ええと、アレスとは旧知でな」
そう言うと、女は嬉しげに両手を組み合わせ、
「まあ。素晴らしいことですね――アレス様に、本当にご立派なことを成されましたとぜひお伝えくださいませ」
「………」
ヴァイスはふしぎに思って女を見上げる。
「伝えるも何も、今ならいくらでもアレスに声をかけられるぞ? 毎日凱旋パレードをしているだろう」
そう、そのおかげで律儀にパレードに出席しているアレスやカイなどは疲れ果てている。ヴァイスやヒューイやクラリスやもう一人などは、適当にさぼってたまにしか参加しないのだが。
魔王討伐が成され、王都に戻って早々王宮で行われた凱旋式――王から名誉と褒美を与えられた式。
そしてその後、毎日行われている凱旋パレード。
もう二週間ほどになるが、町はいまだお祭り騒ぎだ。
黒眼の女は微笑んだ。
「実は先ほど逃げだそうとした子は、パレードを見に行こうとしたのですよ」
「なんだ。見せてやれば良かったのに」
「孤児院の子は全員揃って決まった時間に行くことにしています。抜け駆けはいけません――今の町の状態では、迷子になりますし」
それはたしかだ。町はいつも以上に人でごった返している。
「なるほどなあ」
またスープをひとすくい。味は薄いが、具材が豊富でなかなか悪くない。肉が入っていないのが物足りないが。
「それじゃああんたは? あんたはパレードを見に行かないのか」
「………」
「ああ、それとももう散々行って見飽きたか?」
すでに二週間経っているのだから、騒ぐのに飽きた人間も当然いるだろう。町の騒ぎかたを見ているととてもそうは思えないが。
黒眼の修道女は、じっとヴァイスがスープをすくうのを見ていた。
やがて、どことなく申し訳なさそうに、言った。
「いえ……パレードは見ておりません。子どもたちを連れて行ったことはありますが、子どもの世話で手がいっぱいで、ちゃんと見ていたとは……」
「個人では一度も?」
「はい」
驚いた。体が悪くて外に出られないわけでもないのに、そんな人間がこの王都にいたのか。
ヴァイスは、自分で言うのも何だが今の自分たちが星の神以上にあがめ
ヴァイスに限っては他に王女のこともあったので、正直最近色んな意味で
「勇者が嫌いなのか?」
思いついて言ってみた。
だが、女は首を横に振った。
「いいえ。素晴らしい方々だと思っております」
「じゃあどうして」
「………」
修道女は視線を揺らす。言いたくないのか、いや、言葉が見つからないのか――
ヴァイスは何となく、待つ気になった。
この地味すぎる女が何を言うのかが気になった。
スープはあっという間にヴァイスの腹の中におさまり、ほんの少しではあるが空腹もごまかせたようだ。
「もう少し……何かお持ちしますね。たしか氷菓子があったはず……」
女が行こうとするのを、ヴァイスは引き留めた。
「それより、あんたと話がしたい」
「え?」
そのときだった。
立て付けの悪いドアの隙間から、廊下にいる子どもたちの声が聞こえてきた。
「だからさ、すっげー馬鹿力の女なんだって! あれ化けもんだよ絶対!」
「嘘だあ。そんな女いるなら見てみてえもん」
「近づいちゃ駄目だって! 捕まったら握りつぶされるぞ!」
「………」
隠す様子もなく騒いでいるから丸聞こえだ。ヴァイスは深くため息をついた。
「あの、申し訳ございません。本当によく言って聞かせますから」
修道女が頭を下げるのを、「いい」と手を払ってやめさせる。
「俺はよく子どもに恐がられるんだ。この間も」
――思い出したら、また胃にちくりと痛み。ああ、苦い何かがおりてきては、腹の底にたまっていく。
「この間も……?」
「この間も、子どもの目の前で魔物を斬った。そうしたら大泣きされた。恐い恐いと逃げられた」
それは凱旋式でのできごと。
魔王の残党が急襲して、ヴァイスはそれを一人ですべて斬り払った。アレスたちの手を借りるまでもない、自分がやれば十分だと思ったからそうしたのだ。
パーティの場に、子どもが多く来ているのは知っていた。だからといって、手加減なんてできるわけがないだろう?
むしろ子どもを含めて誰一人怪我をさせないためにやったのだ。後悔はしていない。
していない、が……
「………」
それ以上の言葉がつかえて出てこない。今でも耳の奥に、大泣きする子どもの声がこだまする。
子どもは大好きだった。泣かせたくなんかなかった。
自分が――子どもを泣かせるような存在なのだということを、あのとき自分は初めて知ったのだ。
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