第二部 貴女に、――4
「子どもは、自分の感覚に正直ですからね」
ふわりと、修道女は笑った。
ヴァイスの隣に椅子を引き、自分も腰かけながら。
「大人なら隠してしまう気持ちを、包み隠さず披露してしまう。それが子どもですから」
ヴァイスはむうとうなった。
「それはつまり、大人も本当は俺のような
いや、それは聞くまでもない。
ハンターを毛嫌いしている人種がいることなら、さすがのヴァイスも知っている。
女は寂しげに笑い、
「かく言うわたくしも、目の前で魔物を倒すあなたを見たら、恐い――と思ってしまうのかもしれません」
「………」
「でも」
彼女の手が伸びた。ヴァイスの手に。
今のヴァイスは女の手をしているが、それでもハンターの手だ。ごつごつして、大きい。
「――この手は、ご立派なことをしている手です。その事実の前では、わたくしがあなたを恐いと思うかどうかなんて、どうでもよいことなんです」
どういう意味だ――?
女が何を言いたいのかが、よく分からない。
ただ、剣を持つ右手を両手で包み込んで……まるで愛撫するように、彼女は優しく手をさする。
語りかける口調が穏やかなのは、普段
「わたくしは勇者様が魔物を討伐なさったと聞いたとき、真っ先に思いました。ああ、わたくしも自分にできることをしなくては、と」
「自分に、できること……?」
「勇者様はまさしく『自分にしかできないこと』を成し遂げなさったのです。勇者様を称える気持ちはもちろんございましたが、わたくしはそれよりも一刻も早く自分の成すべきことを成したかった」
それこそが勇者様へのお礼になると思ったのです。
温和な声はそう言った。
「礼?」
「はい。わたくしたちは勇者様に生かされた。だったらこの生を、無駄にしてはいけないと思ったのです」
「―――」
ヴァイスは思い出す。
旅に出るきっかけは、ヴァイスの母が魔物に殺されたことだった。ヴァイスの母を自分の母のように親しんでいたアレスは、泣きながら宣言した。『もう二度と死ぬ者のないよう。悲しむ者のないよう』――。
さしもの『無神経』ヴァイスも、その言葉には感銘を受けたのだ。
ただ――五年の歳月のうちに、初心を忘れていった気がする。目的はただ魔王を倒すことにすり替わり、そのことで精一杯で。
魔王さえ倒せれば国は救える――
では、『救う』とは何だ?
目の前の女の言う通り。国民一人一人の『生』を、守るということではないのか?
女はヴァイスの手を柔らかく握ったまま、やや控えめに言葉を紡ぐ。頬がピンク色に染まっている。
愛らしい顔だと――思った。
「……ですから、パレードにも行きませんでした。その間にもわたくしにできることはあると思って。現実に、孤児院も救貧院も人手不足のままですし」
そして、彼女はヴァイスを見てにこりと微笑んだ。
「勇者様に感謝しているんです。わたくしに、まだ何かを成すチャンスを残してくださったことを」
「―――」
ヴァイスはまっすぐに女を見つめ返す。
地味すぎる黒眼の奥に見える星。それは彼女の心のかけらだろうか。
ぎゅ、とヴァイスの手を握って、女は優しい笑顔をたたえた。
「あなたの手は、ちゃんとご自分の役割を果たしていらっしゃる手です。例え誰かが批判しようとも……ご立派な手です」
「役割」
「はい」
――自分の行っていることを、自分の『役割』だと思ったことなどなかった――
自分はただ、欲望のおもむくままに生きてきただけだ。剣を振るのが好きだった。魔物を倒すのも嫌いじゃない。
アレスが泣いて宣言して。自分も魔物を許せないと思って。だから旅立った。頭目が魔王だと分かっから、倒すのにやっきになっただけ。
そんなだったから、自分が行ったことが崇高なことだとは、まったく思えなかったのだ。だから凱旋式もパレードも馬鹿馬鹿しくて――
そこに『役割』なんてものがあったのか?
たしかに……ハンターとして名をあげるたび、「お前は天才だと」誰もが言った。
『力』を与えられたこと。それに意味があったというのか?
天は俺に、『その役目』を授けたというのか?
そして目の前の女は。
その『役目』のために自分が子どもをどれだけ泣かせようとも。
ひょっとしたら彼女自身さえ恐れるかもしれなくても。
この手は立派だと、優しく受け止めて、
そして、感謝してくれるのか。『勇者様のおかげで、わたくしにも何かを成すチャンスが残された」。
ああ、そうなのか。
俺たちがしたことは、そういうことなのか。
生を守った。生活を守った。そして……誰かが何かを成す機会を守った。
「……あんた」
我知らず、ヴァイスは尋ねていた。
「あんた、名前は」
聞いてはみたものの、考えてみればまず自分が名乗っていない。とは言え女の身で何と名乗ればいいのかとっさに思いつかず、ヴァイスは困ってしまった。
しかし目の前の女はそれを無礼に思った様子もなく、軽く小首をかしげた。
「わたくしですか? わたくしは――」
「えーーーーーい!」
突然バタン! と扉が開かれ、
「出て行け、この化物め!」
先ほど廊下で聞こえていた声の主が飛び込んできた。ヴァイスが肩にかついでしまった子だ。
仲間を引き連れ、木の枝を剣に見立てて構え、ヴァイスをにらみつける。
「この孤児院のみんなに何かしたら、許さないからな!」
「こら! いい加減にしなさいあなたたち、この方はね、」
「いや、いい」
ヴァイスは修道女を制して立ち上がった。
女が当惑した顔をする。それににやりと笑ってみせて、
「化物に対抗しようという子どもたちだ。将来が楽しみだと思うぞ」
「お客さま……」
「俺はもう帰る。邪魔して本当に悪かった」
自分にしては殊勝な態度で謝意を表したと思う。
修道女は本気で申し訳なさそうに肩を縮めて、
「申し訳ありません……」
「すぐ謝るのはあんたの癖かな。直しておいたほうがいいぞ」
「え――」
「また、会えるといいな」
――そう、また会いたい。
自分の気づいていないこと、多分自分のまま生きていたなら知るよしもなかったこと。
それを教えてくれたこの地味な女と、心から再会を願った。
黒眼の奥に、星をたたえたこの女と――
*
ヴァイスが凱旋パレードにちゃんと出席するようになったのはその後のことである。
何となく、集まる人々の顔が見たくなった。自分たちが守ったのは誰なのかと、知りたくなった。
パレードの他の祝賀会にも参加するようになった。王女から逃げるのも含め、ヴァイスは一気に忙しくなった。
その合間合間にあの修道女の情報を探そうとしたのだが、うまくいかなかった。歯がゆい思いのまま時は経ち――
*
夏の終わりの星祭りが行われたのは、それからしばらくのことだ。
いつもなら興味なしで、ただお祭り騒ぎをするためだけに出席するヴァイスだったが、その夜は来賓席を陣取った。
そこからなら、星の託宣を受け取る『巫女』の顔が見られるから。
――あの女に会えるかもしれない。
それは根拠のない勘だった。だが、ヴァイスはこの手の勘には妙に自信があった。
星の巫女本人とは限らない。その周りの世話をする修道女にでも、彼女はいるかもしれない。
一目でいい。会いたかった。
名前を知りたかった。
そして自分の名前を――今度こそ教えたかった。
祭壇に今回の『星の巫女』がしずしずとあがる。
ヴァイスの胸が昂揚する。あの大人しげなたたずまい。地味で、だが凜とした背中。
『星の巫女』は顔を観客へは向けず、ただ夜空へ向ける。当たり前だ、彼女は星の神に祈りに来たのだ。
こちらなど見るはずがない。
それでも、顔が見えた。『星の巫女』の装束は修道服より飾りが多く、雰囲気が少しだけ変わる。神聖な顔つき。ただ国民のためだけに心を捧げる巫女。
――いや、変わらない。彼女は普段からそういう人なのだとヴァイスは知っている気がした。
『星の巫女』の名など、儀式の中では明瞭にされない。必要がないからだ。
ただ、気になって仕方がなかったから隣のカイに聞いた。カイならそういう情報には詳しい。
そうしたら、カイは元々知り合いなのだと言った。何だかむかついた。なぜ俺に報せないと、無茶なことを思った。
アルテナ・リリーフォンス――
やっと、名前が分かった。胸が躍りすぎて息が苦しくなるほどだ。
託宣は? 彼女は何をこの国にもたらす?
『騎士ヴァイス・フォーライク、巫女アルテナ・リリーフォンスの間に生まれし子は、国の救世主となるだろう』
ああ――
やっと。名を呼んでもらえた。
あの穏やかな声で。優しい声で。
その上――
歓喜のあまり、立ち上がり叫んでいた。
「やっと俺の子を孕む相手が現われたぞ!」
――そう、ようやく見つけた。本当の意味で、俺の子を産んでほしい人に。
「あなたが俺の運命の人か!」
そう思うともう止まらなかった。祭壇を駆け上がり、彼女を抱き寄せ、そして――
*
(我ながらはしゃぎすぎたものだな)
回想から戻ってきたヴァイスは、しみじみとそう思う。
あのときアルテナに対して行った行為――他人は暴挙と呼ぶが――について、彼は全く後悔していない。
彼女への愛しさが爆発していた。止まれるはずがなかったのだ。
(……最初は、散々嫌がられたなあ)
モップで何度も追い払われたことを思い出す。ヴァイスにしてみればちょっとしたじゃれ合いだったのだが。
彼女と結ばれることを、あの当時は疑っていなかった。
託宣を信じたというよりは、『彼女の口から出た言葉だったから信じた』のだ。
最初は、己が思うがままにふるまった。
だが――あまりにも拒否を続けられ、どうにかして彼女の心を掴みたいと悩んでいるうちに――
彼女に優しくする方法をアレスやカイやクラリスに聞いて、少しずつ少しずつ。
今では、『優しくする』ことの意味も分かりかけている気がする。彼女の意思を大切にすること。それを、理解できた気がする。
だから。
彼女がその気になってくれるまで待とうと、思えるまでになったのだ。
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