第二部 貴女に、――2
それは、どういう意味だ。
魔物に取り憑かれた人間は、時が経つにつれて意識を完全に魔物に乗っ取られる。本人の意識が正常に残ることなど稀だ。
そして魔物は、取り憑いた人間の意識をトレースして、それを装いながら……彼らの欲を成す。
ヴァイスに迫ったアルテナは明らかに彼女自身ではなかった。ということは、すでに意識は乗っ取られているはずだ。
『正常に』思考が残っている場合のことなど……考えていなかった。
「ありえぬことではないのだよ、ヴァイス」
アレクサンドルはゆったりと言い聞かせるように息子に告げる。
「特にアルテナさんは
なぜそこまでこの父が知っているのか不明だが、すべて事実だった。
(――抵抗しているのか? アルテナ――)
ヴァイスの胸にかすかな希望がよみがえる。しかしそれは同時に、絶望でもあった。
(――自分が魔物になったことを自覚してしまったなら――彼女は――)
そうか。それで『もうひとつの可能性』が生まれるのだ。
「アルテナが自殺するというのかッ!」
ヴァイスは激昂した。父の胸ぐらを掴み、燃えるような夕焼けの瞳でにらみつける。
「冗談じゃない、彼女は死なせやしない、絶対にだ!」
「落ち着け、ヴァイス」
はっとして、慌てて周りを見やれば、ソラが今にも泣き出しそうに涙をためていた。モラも気まずそうに顔を背けているし、双子は……いつも通り妖しい笑みで、
「うふふ、ヴァイス兄ったらせっかちさん」
「うふふ、お父様の言うことをちゃんと最後まで聞いたらいいのに」
「親父殿……?」
父の胸ぐらを放すと、アレクサンドルは胸元を整えながらのんびりと言った。
「――魔物学を学んだなら、彼女は絶望が一番よくないことを知っているだろう。そう簡単に死ぬ道など選ばん。そうは思わんかね?」
「………」
そう言えば……
ヴァイスは一瞬だけ、あの巨大スライムを目の前にしたときのアルテナを見ている。
強い視線でスライムをにらみ返していた。諦めずに、生きようとしていた。
魔物が一番嫌うのが、生への執着だと知っている目だった。
(ヨーハンが教えたのか……)
それを思うと少し胃がむかむかしたが、ここは感謝しておくところだろう。
「とにかく、川の捜索から別の場所へ手を広げたほうがよい。ヴァイス」
アレクサンドルに言われ、「ああ」とヴァイスはうなずいた。
「兵士をこきつかってやる。こんなときぐらい役に立て、くそ王宮」
*
アルテナの捜索は三日三晩休みなく行われた。
「お前は少し休んだほうがいい」
アレスにそう言われ、ヴァイスはもちろん嫌がった。アルテナが危険なこのときに、悠長に休んでいられるわけがない。
「そのまま活動を続けたらお前、さすがに倒れるぞ」
そもそも三日三晩眠らずにあちこち動き回って過ごしている時点で驚異的なのだ。アレスやカイはちゃんと休みを取っている。
「アルテナが見つかったときに、お前が倒れていたら元も子もないだろう?」
そう言われ、ヴァイスはしぶしぶ中央公園のベンチで休むことにした。
中央公園では今、アレス像に花輪を備えるという珍妙な催し物が流行っている。それは今でも変わらず、下手くそな造りのアレス像の足下にはうずたかく花輪が積まれている。
『勇者様ご一行に力を』
そんな思いで捧げられている花輪だという。平素ならば「任せろ!」と元気百倍に気持ちを受け取ったであろうヴァイスだったが、今はただただ滑稽だった。
(俺は……愛した
今日は一段と冷える日だ。外套の前を合わせながら、「アルテナは今ごろ寒がっていないだろうか」と思いをはせる。
彼女は寝間着のまま外に飛び出して、川に落ちて、そのまま行方知れずなのだ。魔物憑きでなければ間違いなく凍えるか溺れるかで死んでいる。
クラリスが用意してくれたハーブティーを手に、ぼんやりと公園を眺める。
子どもが多かった。公園だから当たり前だ。
一応アルテナ捜索は公にはしていないのだが、知っている者は当然多く、ヴァイスの顔を見ると神妙な顔つきで頭を下げてくる。慰めているつもりだろうか。
(早く婚儀を挙げて……魔王討伐に出るつもりだったのに)
人々が行き交うのを見ているのも苦痛だった。彼は顔を伏せた。
温かいハーブティーの湯気が、鼻に当たった。
「うふふ、ヴァイス兄」
双子たちが愉快そうにまとわりついてきて、兄の沈痛な顔を覗く。
「うふふ、あのときみたいね。凱旋式で失敗したときの」
「……お前たち、あっちへ行ってろ」
「うふふ。らしくなく落ち込んでいるのもあのときそっくり」
「うふふ。何ならあのときみたいにカイに頼んで女性に変身する?」
「あっちへ行け!」
らしくもない怒鳴り声が出た。双子はこたえた様子もなく、きゃっきゃと言いながら逃げていく。
(――俺らしくないだと?)
ああそうだ、たしかにらしくない。
だが――自分にだって落ち込む時くらいあるのだ。誰もが自分を、感情が鋼鉄でできた鎧人間か何かのように言うが、そんなことはまったくないのだ。
(――あのときと同じ、か)
そうだな、とハーブティーの波紋を眺めながら思う。
自然と笑みがこぼれた。〝あのとき〟のことを思うとき――それは彼にとって、最大の落ち込み期でありながら、同時に最大の『大切な思い出』を残した時期でもあったから。
『本当に覚えていないんだな、あなたは――』
ようやく、顔を上げることができた。ヴァイスは空を見上げた。
雲が悠々と空を渡る。平和そのものの空。〝あのとき〟と、同じ空――
*
(うむ。これはこれで面白い)
そのときヴァイスは人生で一番愉快な経験をしていたと言っていい。
カイに変装術をかけてくれと頼んだ。そうしたら女になった。とんでもない術の失敗だ。だが楽しいことこの上ない。
(この姿なら、姫にも確実に見つからんな)
それが何よりの安心材料だった。今ヴァイスは、この国の第一王女エリシャヴェーラから逃げるのに必死の毎日だったのだ。
凱旋式で見初められて以来、あの姫のしつこさと言ったら、腹をすかした野獣が餌を求めるよりももっと激しかった。毎日毎日使者がくる。時には本人が来る。そして無理難題を言う。結婚しろと、そればかりを。
(冗談じゃない。俺はまだ結婚する気はない)
というより、ヴァイスには結婚願望がないのだ。男ならず女とも、適度に楽しく友人をやれていればそれが一番楽しかった。死ぬとき一人きりならそれはそれで自分らしい。
結婚制度を否定する気は毛頭ないが、人には人の生き方がある。
まあそもそもヴァイスは女に殴られることはあっても、友人関係以上に好かれたことはない。
唯一の例外はマリアンヌだが、彼女に関しても、どうしても友人以上には見られない。
(まあ、子どもだけは欲しいがなあ)
そんなことを考えながら、女の姿で町を
結婚するなら……はて、どっちの女がいいのか。
とりとめのないことを考えながら、彼はなじみきった王都をあちこち歩き回る。
快晴の、いい日だった。雲さえもまぶしいほどに白く空を渡っていく。
本当は。
エリシャヴェーラ王女に追いかけられる困難にぶち当たっていることに、少し感謝していたのだ。
――あのことを、考えずに済むから。
時は夏真っ盛り。さらに人が多くて暑さも倍増している気がする。
やがて王都の中心部に飽きて、郊外を歩いた。こういうところは若い頃アレスと二人でよく冒険に来たものだ。「王都の人間たる者王都のすべてを知るべし」とかなんとか理屈をつけて、アレスを振り回したのをよく覚えている。
アレスも大概お人好しがすぎる。まあアレスも色々あって、本当の親友はヴァイスぐらいしか作れなかったので、利害の一致とでもいうべきだろうか。
それにしてもこの辺りに来るのは久しぶりだった。ここにはたしか――
孤児院があったはず。
孤児院。それを思い出して、ヴァイスの足は止まった。
「………」
逡巡し、やっぱりやめようとくるりと来た道を戻ろうとする。
が、
「こら! 待ちなさい……!」
ふと――
女の声が聞こえて、ヴァイスは振り返った。
少し離れたところにある孤児院の敷地から、元気よく飛び出してきた子どもがいた。男の子だ。腕白を絵に描いたような子で、弾けんばかりの明るさを総身から発散させながら、勢いよく走ってくる。
ちょうど、ヴァイスのいる方向に。
「待ちなさい!」
追いかけているのは修道女のようだった。服装が修道服だ。髪も隠し、顔しか見えない状態の女は、どうやら足が遅いらしい。幼い子どもにさえ追いつけそうで追いつけていない。まあそもそも修道服というのは走るのには向いていないだろうが。
それについて何を思ったわけでもなかった。
ただ、孤児院の子どもが勝手に孤児院から離れるのはよくないと思っただけだ。
だからヴァイスは――
ひょい、とその子どもを受け止め軽々持ち上げた。
「わ! 誰だよねーちゃん! 放せよ! 放せ!」
……ふむ。今の俺はねーちゃんと呼ばれるのか。新鮮だ。
そんなことを思いながらも暴れる少年を肩に抱え上げる。女になったからと言って、腕力まで衰えたわけではないようだ。カイの術は妙なところでしっかりしている。この分ならこの体のまま魔王討伐できるのではないだろうか。
……なんてことを考えていたら、修道女が追いついた。
「す、すみません……! 止めてくださってありがとうございます!」
ヴァイスはその修道女を見下ろした。今のヴァイスも背は高いので、女と身長差があった。
髪の色はよく分からないが、顔は見える。いかにも地味で、まるで全身で『私は修道女です』と宣言しているかのような。
おまけに瞳の色は黒だ。味も素っ気もない。
普段クラリスやマリアンヌや、その他王都を華やがせる美人たちをよく知っている身とすれば、正直目の前の女は町ですれ違っても気づかないレベルの女だ。
なのに――
ヴァイスはその女を見つめずにはいられなかった。
女の黒眼の奥に、星が見えた気がした。
――彼の知らない何かがそこにある。ヴァイスはそのとき、直感していたのだ。
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