第二部 貴女に、――1

「アルテナアアアアアアア!!!」


 ヴァイスは迷わず崖から飛び降りようとした。


 それを止めたのは彼の仲間たちだった。アレスにカイ。道中疾走するアルテナとヴァイスを発見し、追いかけてきた彼ら。


「やめろヴァイス! いくらお前でも死ぬ……!」

「そんなこと構っていられるか! アルテナが、アルテナが!」


 体ごと掴みかかるアレスに全力で抵抗する。今の彼にとっては、アルテナが崖下に飛び込んだ、それがすべてだった。


 彼女の姿はすでに急流に呑み込まれ見えなくなっている。今から飛び降りても追いつけるかどうか――


 それでも、追わずにいられない。ヴァイスとはそういう男だった。


「落ち着いてヴァイス! おねえさ――アルテナ様はきっと生きてる!」


 突然そんなことを言い出したのはカイだった。

 ヴァイスは吠えた。


「なぜそんなことが言える! 生身の人間がこの崖から落ちて無事だった例があるか!」

「だから、生身の人間じゃないんだ! アルテナ様は魔物に取り憑かれている!」


 ――そのときヴァイスの頭の中で、パズルのピースが埋まるように何かが鮮明になった。


 ヴァイスはようやくアレスに抵抗するのを止めた。そしてカイを見た。


「それはたしかなのか?」


 カイは真顔でうなずいた。


「一目で分かった。アルテナ様から放たれるオーラが違った」

「―――」


 ヴァイスは思い返す。屋敷の部屋で、突然自分に迫ってきたアルテナ。

 口づけを求められたのに思わず反射的に突き飛ばしてしまうほど――彼女の雰囲気はおかしかった。


「魔物……魔物だと……?」

「今はやりの硬化魔物ではないんだな、カイ?」


 アレスがヴァイスから手を放し、問う。カイは沈痛な面持ちで長い前髪を揺らした。


「あれだけ平気で動き回っていたから、別口だと……。いったいどこでもらってきたのかは分からないけど」

「アルテナは公園で一人で眠っていたとか言っていなかったか?」


 と、これはヴァイスへの問いだ。

 ヴァイスは重苦しくうなずいた。


「そうだ。王都の北の端の公園で、一人で眠っていた……」

「アルテナ様の症状はどんなだったの? クラリスが治癒しようとしたんでしょう?」

「……頭が痛く体が重いと。熱もあるようだった。だから風邪かと――思ったのだが」


 クラリスの治癒魔法を拒否したんだと、ヴァイスは二人に伝える。


「クラリスの手を振り払った。反射的に見えた」

「じゃあやっぱり間違いない。魔物には治癒魔法は攻撃のようなものだから――だからクラリスは僕らに連絡をよこしたんだ」


 彼ら一行は離ればなれでもすぐに連絡が取れるように、カイの魔術によって作られた緊急連絡用の『鳥』を備えている。生み出すのにとても手のかかる術なのでカイもそうそう数が作れるわけではなく、一人ひとつしか備えていないのだが。


 クラリスがそれを、カイに飛ばした。カイはすぐさまアレスを呼び、二人でヴァイスの屋敷へと向かった――


 そのさなかに、この始末だ。本当は馬車で来たのだが、二人は馬車を乗り捨てて走ってきたのだ。


「くそっ。いったいどうして彼女に魔物が」


 ヴァイスは強く拳を握る。爪が食い込んで、血が出そうなほどに。


 アレスは崖下の下流を見ていた。


「この川の下流の、穏やかなあたりに流れ着けばいいんだが」

「至急人を手配して捜させる。魔物憑きなら、俺が追い出してやる」

「しかしヴァイス、魔物を追い出すには弱点が分からないと」

「分かっている。どの部分から魔物が入り込んだのかさえ分かれば何とかなるはずだ」


 実のところそれはすべて希望的観測だった。魔物憑きは人間の体をひどく消耗させる。長時間魔物を取り憑かせておけるかどうかは、本人の体力次第なのだ。


 残念ながらアルテナは女の身だ。シェーラの父親のときほどには、もたないだろう。


「急ぐぞ、二人とも!」


 三人は身を翻した。アルテナを捜索するための、人間を手配するために。



 アレス一行は全員顔が広い。場合によっては王宮さえ動かせるのが彼らである(まともな方法ではないが)。


 王宮の兵士をも駆り出して、彼らはアルテナをひたすら捜した。

 修道院の人間も協力してくれた。何より修道長のアンナがアルテナの身を案じたためだ。

 アンナはアルテナも魔物憑きになったと聞き、苦悩に満ちた顔をした。


「ああ、なぜそんな……シェーラだけでも大変なことですのに」


 しかしアルテナはシェーラと取り憑いた魔物が違う。エリシャヴェーラ王女とも違う。町で報告されているどの魔物とも違う。


 アルテナだけが違うのだ。


 ヴァイスもあの川の下流に沿って歩いていた。川にざぶざぶ入り込み、目を皿のようにして捜すが、アルテナの気配はない。


 カイもヴァイスについてきていた。アレスは別行動だ。


「王宮に集まった学者どもはなんて言ってる?」


 ヴァイスはカイにそう尋ねる。

 カイは重苦しい声で「実は」と口を開いた。


「彼らの様子を見るに……どうも学者は、こうなることが分かっていたみたいなんだ」

「なんだと?」

「と言っても、硬化魔物のほうの話だよ。彼らは、エリシャヴェーラ様に魔物が取り憑いたと聞いてお決まりの驚きかたをした。そして、その処置の手配が異様に早かった。姫はもうじき魔物から解放されるよ」


 それを聞いてヴァイスは舌打ちする。アルテナは窮地だというのに、あの姫は助かるのか。


「怪しいのは学者たちということか」

「……断言はできないけど」


 カイとしても下手なことは言えまい。さすがに、規模が大きすぎる――


「学者どもに至急町の取り憑かれた連中の処置をさせないとな。そのあとで締め上げる」

「うん……」


 気を吐くヴァイスに対して、カイは煮え切らない様子だった。


「どうした? 気になることでもあるのか?」


 川から上がったヴァイスが尋ねると、カイは一瞬、言葉に詰まったようだった。


「なんだ?」

「……その」


 ヨーハンさんが――と。若い魔術師はようやくその名を絞り出した。


「ヨーハンさんが、見つからない。王宮に招集されていてもおかしくないのに、いない。王都にいるはずなのに」

「あいつのことだ、どこかで魔物を追いかけてるんじゃないのか?」


 アルテナがからむとヨーハンに敵愾心てきがいしんを抱くヴァイスだったが、ヨーハン個人を嫌っているわけではない。

 むしろ一度は仲間だった相手だ。何か困ったことがあるなら助けてやりたいと思うていどには、親愛の情がある。


 カイは首を振った。


「まったく気配がないって、そのほうがおかしいでしょう? 最初こそ目撃証言があったけど、ぱったりなくなったんだ。まるで人を避けてるみたいに」

「………」

「ヴァイス! 何か見つかったか!」


 駆けてきたのはアレスだった。アレスは王宮の兵士たちに指示を飛ばす役割をしていたのだが、自分がいなくても大丈夫と判断したのだろう。


 ヴァイスはただ無言で、沈痛な表情だけで応えた。


「……そうか」


 アレスの声も自然と暗くなる。

 場の空気は雨の降る直前のどんよりとした曇り空のようだ。外はこんなにも晴れて明るいというのに。


「アルテナ様のことだから、人を傷つけるほうには走らないと思うんだけど」


 カイが空を見上げ、心配げにそんなことを言う。


 ヴァイスは黙っていた。アルテナは自分の首をしめようとした。彼女の中には、ある一定の殺意がある。

 それが無差別に他人に向けられるものかどうかは分からないが――


 新たな声が割って入ったのは、そのときだった。


「……アルテナさんの行動を予測してはどうかな」


「親父殿?」


 ヴァイスは驚いて、自分の父親を――否、ぞろぞろとやってきた父と妹たちを見る。

 父アレクサンドルにはたしかに人手を貸してくれと通達していた。しかし妹たちは別だ。


「なぜお前たちまで来たんだ……」

「人手は多いほうがいいじゃないか、兄貴」

「下手に増えられても邪魔なんだがな」

「失礼だなあ。ほらソラ、何とか言ってやりなよ」

「私のネズミで巫女を見つけてみせる!」


 山ほどのネズミを入れているらしい革袋を背負ったソラは、胸を張った。

 意外だった。ソラは家で泣いているかと思っていたのだが。

 まあそれはともかく。


「ネズミはやめとけ。川に入ったら全部壊れるだろう」

「川とは限らんだろう?」


 と、そう言ったのは父のほうだった。


「アレクサンドル様、それはどういった……?」


 カイが慎重にヴァイスの父に尋ねる。

 いついかなるときもひょうひょうとした父は、あごを撫でて言った。


「もう川から上がっている可能性のほうが高いという話さ。何せヴァイスが追いつけんほどの脚力をも備えたのだろう。運動能力が跳ね上がっていると思って間違いない。そうなれば、長々と川にいるとは思えん」

「………!」


 それは盲点だった。もう川から上がっている?

 だとしたら――アルテナはどこへ?


「彼女の行きそうなところを想像するんだよ。まず第一にヴァイスの元へ帰ってくることだが……どうやら今のところその気配はないな」

「いやしかし、俺のところに戻ってくるなら……屋敷かもしれない」


 屋敷に遣いを出してたしかめよう。ヴァイスがそう決心したそばで、アレクサンドルはさらに続ける。


「第二に、修道院。第三に、実家。手配はしてあるかね?」

「修道院はしてある。ご実家は……まだだ」


 このていたらくをあの町長一家に伝えるのは忍ばれた。余計な心配を生みかねない。ただでさえあの一家は今ラケシスのことで手がいっぱいなのだ。


 しかし。アルテナが行く先として有力候補なのはたしかだった。


「……ご実家に連絡しよう。急ぎの馬を出す」

「そうしなさい。さて、ヴァイス」


 かつて天才と謳われた父は、のんびりとした顔で息子を見やる。


「もうひとつの可能性を考えてはいるかね」

「もうひとつの……? それは何だ、親父殿?」

「アルテナさんの意識が『正常に』残っている場合……それを考えてはいるかね」

「―――」

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