第一部 貴方に、――6
「……体におかしいところは? 痛いところは?」
クラリス様はゆっくりと、わたくしから容態を聞き出していきます。
おかしいところ。頭が割れるように痛い。体が重い。まるで石を呑み込んだよう。
「……それだけ?」
喉は痛いかと聞かれました。
言われて気づきました。喉に、何か引っかかるようなものがある。
痛いのではありません。大いなる違和感――とでも申しましょうか。
それを聞いたクラリス様は沈黙しました。改めてわたくしの体を頭の先から足の先まで眺め、それからふっと息を吐き、
「……とにかく、治癒魔法をかけてみましょう……」
彼女は思いの外強い力でわたくしを寝かしつけます。
わたくしの手を通してかけるという治癒魔法。たしか、人の自己回復能力をアップさせる効果があるのだと聞きました。
真正面から怪我や病気そのものを〝治す〟術もあるそうですが、それを行うと、時間が経ったのち被術者の体に反動がくるのだとか。なので、魔物との戦いのような緊急の場合を除いて、そういう術はほどこされないのだそうです。
「じっとしていて……」
クラリス様は長いまつげを伏せ気味に、わたくしの手から力を注ぎ込みます。
――光が、わたくしの体に広がっていく――
わたくしは。
思い切り、彼女の手を振り払いました。
お腹の中で何かが反発したような、何かが爆ぜるような、そんな感覚がありました。
何よりも、
――気持ちが悪い――
淡い光が体の中を進んでくることが、どうしようもなく嫌だと、そう感じたのです。
「アルテナ……?」
クラリス様が柳眉を寄せます。わたくしは罪悪感で、彼女から顔をそらしました。
「ごめんなさい……術は、いりません」
大丈夫。ただの風邪なのだから自力で治せる。治癒魔法など必要ない。
「アルテナ」
騎士がわたくしを覗き込みます。わたくしは、何とか笑ってみせました。
「しばらくじっとしていたら……治りますから」
「そうか? あなたは無理しいだからな、治癒魔法は絶対に必要だぞ」
「いいえ。――いいえ」
今と同じ感覚を味わいたくなかった。わたくしは異常なほどの頑固さで首を振りました。頭を動かすたびに痛みましたが、それも構わないほど嫌でした。
「……そう」
クラリス様が長い髪をさらりと後ろへ流し、冷ややかな声で言いました。
「本人がそう言うなら仕方がない……ヴァイス、私はおりる」
「クラリス! 頼む――」
「本人が嫌がっている」
騎士とクラリス様の押し問答を、わたくしは耳の痛い思いで聞いていました。
――ここから逃げてしまいたい。
わたくしは何と失礼なことをしてしまったのでしょう。せっかくわたくしの身を案じてクラリス様は来てくださっているのに。
ああ――
「ク、クラリス様、また――落ち着いたら、もう一度……」
やっとの思いでそれだけを言いました。
クラリス様は揺らがぬ翠の瞳で、わたくしを見つめました。
「……いいわ。私もしばらくこの屋敷に滞在する……また挑戦しましょう」
良かった、怒っていない。安堵の思いでわたくしは「ありがとうございます」と彼女に礼を言いました。
*
クラリス様が一階に戻り――
騎士だけが、わたくしの傍らに残りました。
「カイやアレスも来たがっていたんだがな。容態が落ち着くまで来るなと言っておいた」
ベッドの端に腰かけ、もう一度わたくしの額に手を当てます。
「……熱いな」
そうなのでしょうか。
体は重いばかりで、熱さは感じません。でも……何気なく重い手を自分の頬に当ててみると、たしかに燃えるように熱いのです。
「まだ頭は痛いか? 体は重いか?」
騎士は心配そうに尋ねてきます。
わたくしは小さく首を振り、
「……お願いです。喋ると……痛むのです」
すると騎士は目を見張り、「すまん!」と頭を下げました。
「俺は病気にはなったことがないものだから――すまん、喋るのはつらいのだな」
実を言うと騎士の声の大きさも頭に響いてつらいのですが、それは我慢しました。
彼の声が聞けなくなるのは寂しいと――思いました。
彼のほうも、喋っていないと落ち着かないのでしょう。わたくしの手を握りながら、せわしなく口を開きます。
「しかしどうしてあんな公園にいたのだろうな。あそこはたしかに静かで人気もなくてあなた好みだろうが……
「………」
「眠っていたというのは、やはり最近疲れていたからだろうな。シェーラ殿のことで気遣いもあっただろう。今のうちによく眠るといい」
「………」
「そうだ」
騎士は手をぽんと打ち、「以前カイからもらったリリン草がまだ下にあるはずだ。よし、あれを煎じて持ってこよう。ちょっと待っていろ」
ベッドから立ち上がると、すたすたとドアのほうへと行ってしまおうとします。
「――待って」
わたくしは呼び止めました。
そしてそのことに、自分で驚きました。
騎士が当然のように振り向きます。「どうした?」そう尋ねる彼の顔に、不審がる様子はまったくありません。
わたくしは――
おもむろに、重い石のような体を起こそうとし――
「アルテナ! だからまだ体を起こしては」
騎士が慌ててベッドに戻ってきます。しかしそれにも構わず、わたくしは起き上がりました。
まるで内側にある力が、勝手にこの体を動かしているかのように。
「アルテナ――!」
とうとうベッドから降り、わたくしは騎士の前に立ちました。
「だ、大丈夫なのか立ち上がったりして!? 体は!?」
ひたすらわたくしの心配をしてくれる彼。大きすぎる彼の声は頭を直接攻撃し、頭痛はガンガンと鳴り響きます。
けれどそれでも――
止まらない衝動が、わたくしを突き動かしていました。
唇が、熱い。
「ヴァイス様……」
わたくしは彼の胸にすがりつきました。
甘えるように頬をすりつけ、上目遣いで彼を見上げます。
「ヴァイス様。どうかわたくしを……あなたのものにして」
――いったい何を言っているのか――
頭の中は白いかすみでいっぱいになっていました。彼の背中に両腕を回し、背伸びをして顔を近づけます。
――ああ、唇が熱い。
どうかこの熱を取り払って。あなたの力で――
けれど、騎士は真顔でわたくしを見返すばかりでした。
「どうしたんだ。様子がおかしいぞ、アルテナ」
――どうしてそんなことを言うの。わたくしを求めてくれていたのは、あなたのほうのはずなのに。
それとも、すべて偽りだったの――
「ねえ……お願いです。体が熱い……あなたの力で、おさめて」
熱がようやく自分で理解できるほどに体に回ってきました。重い石が、鍛冶場で熱されたように全身が熱い。
重くて――熱い。
口づけを求めて彼の頬に顔を近づけると、彼はわたくしをおし放しました。
「本当にどうしたんだ。熱か? 熱のせいなのか?」
彼はわたくしを横抱きにしようとしました。「クラリスを呼んでくる。大人しくベッドで横になっていてくれ」
――どうして? せっかくあなたのものになろうとしているのに。
なぜわたくしを求めてくれないの?
意識は霧がかかったようにあいまい。ただ、目の前にいるのは愛しい人だけ。
彼に愛される、その甘美な誘惑だけがわたくしの脳裏にある。
彼のものになって――
彼の子を
ああ、何て素晴らしいこと――
――それなのに、あなたがそれを叶えてくれないというのなら。
あなたの思いがすべて、偽りだというのなら。
「アルテナ!」
わたくしは力一杯体をひねり、彼の腕から逃れました。
そして両腕を伸ばしました。――彼の首へ――
ああ、何と言うことなのか。そのときわたくしはたしかに、騎士ヴァイスの首をしめようとしたのです。
異常なまでに熱くなった両手で、
「――!!」
騎士はわたくしを突き飛ばしました。それは攻撃に対する反射的な行動だったのでしょう。
ベッドに倒れ伏す重い体。騎士が慌てて、「すまん! 大丈夫か」と身を案じます。
わたくしは。
重さをもろともせず再び起き上がり。
ベッドのすぐそばにある窓へと向かいました。
窓を押し開けば、冷たい冬の風。けれど今は熱いばかり。
体が熱い、熱い、熱い、ああ――
わたくしはおかしくなったのだと、頭の片隅、ほんの小さな部分がそれを察していました。
騎士を愛したい。騎士に愛されたい。
けれど愛が嘘ならば騎士を殺したい。ないまぜの思いが胸を焦がす。これはなに、これはなに――
――彼を試してみよう。胸の奥、邪悪な響きの声がとどろきました。
「アルテナ!」
彼の呼ぶ声を最後に、わたくしは、
二階の窓から、思い切り飛び降りたのです――
*
「待て! 行くな、アルテナ!」
二階を飛び降りるなど、異常に身体能力の発達した騎士にとっても朝飯前のこと。
彼はすぐに追ってきました。外套を着ることもないまま。
けれどわたくしは逃げました。全力で逃げました。
ふしぎなことに、運動不足ですぐに疲れるはずのわたくしの足は、羽が生えたように軽やかに前に進みました。
二階から飛び降りても平気で着地できたことといい。体に、たしかに変化が起こっている。
全身が石のように重かったはずなのに、それがなじんできているのです。重いのに軽い。重いのが当たり前と思えるようになれば、体はいつものように動く。
いえ、いつも以上に動く。足が軽い。重いはずなのによく動く。軽い。
騎士は同じ速度で走っているようでした。近くもならなければ、遠くもならない。
――遠くならないように、わたくしのほうが加減している?
ふふ、と唇から笑みがこぼれました。
何と楽しいことでしょう。彼が追いかけてくる。わたくしを求めて追いかけてくる。
このまま掴まらなければ――彼はどうするの?
知りたくてたまらなかった。彼はわたくしを愛してくれている? 愛してくれているなら――
これからすることにも、ついてきてくれるのかしら?
「ヴァイス! アルテナ!」
「おねえさん……!」
横から別の声が聞こえてきます。見知った声のような気もしますが、今のわたくしにはどうでもよい声でした。
わたくしがほしいのはただ、彼の声だけ。
「アルテナ! どこへ行くんだ……!」
ほら、彼が呼んでくれている。わたくしは笑みを浮かべたまま走る。追いつかれないぎりぎりの距離を保ったまま。
道を右へ左へ。遊ぶように移動しながら、わたくしは進みました。
「まてアルテナ! そっちは……!」
彼の焦る声が聞こえます。それはそうでしょう、これから向かう場所は。
切り立った崖――
彼はどうするのでしょう? わたくしは楽しくて仕方がありませんでした。ああ、愛をたしかかめるとはこういうことなのね。初めて分かった気がします。
「行くな! アルテナ!」
何度も何度も彼はわたくしを呼びました。
わたくしは少し速度を遅めました。彼が追いつけるようにと。
そうして――
崖の縁までたどりつき、後ろを振り返ります。
そこに騎士がいました。なぜか、もう二人増えていました。アレス様とカイ様だと、わたくしはようやく認識しました。頭の片隅で何かが大声を上げていましたが、わたくしは無視しました。
「おねえさん! あなたはまさか――!」
叫ぶのはカイ様。小さな体でよくついてきてくれたことです。それも魔術なのでしょうか。
「アルテナ!」
けれどわたくしに必要なのはたった一人。柔らかい金の髪に、夕焼け色の瞳をした人。
「そのまま動くな、動くと落ちる……!」
騎士はわたくしにじりじりとにに近づきながら、うなるようにそう言いました。
わたくしは笑っていました。後ろには高すぎる崖。人が落ちれば、まず助からない。
人が、落ちれば――
――わたくしが落ちたら、彼はどうする?
「―――!!!」
わたくしは後ろ向きのまま、崖から身を投げました。
体中にかかる落下の浮遊感。「アルテナアアアアアアアア!」叫ぶ彼の声の何と心地よいことか。
崖の下は、流れが早く深い川です。わたくしはそこへ背中から飛び込みました。
冬の冷たすぎる水が――わたくしを受け止めました。
そのとき。熱に浮かされていたわたくしの意識がほんの少しだけ目覚めたのです。
――ああ、わたくしは狂ってしまったのだと。
彼の愛情を試すために、なんて。何というとんでもないことを。沈み行く体の中で、心だけが冷静になっていく。
体の中の重みが生き物のようにうごめいているのを感じました。手足の先まで、わたくしとは違う誰かに動かされているような感覚。
直感しました。わたくしの体の中には、魔物がいる――
わたくしは魔物に取り憑かれたのです。
(……ああ、ヴァイス様)
急流に呑み込まれながら、ようやく目覚めた一部分だけの自分が、泣きそうな声を上げました。
許して。わたくしは理性をなくして、ただのけだものの女に成り下がった――
――魔物に取り憑かれた者は欲に忠実になるのだと。
そう教えてくれたのは誰だったか――
いえ、今はそんなことはどうでもよいのです。わたくしは……
わたくしは。
ごぼごぼと体の中の空気が奪われていきます。苦しい。このまま死ぬのでしょうか?
いえ。わたくしの体の中でうごめくものはまだ生きている。おそらくわたくしは――わたくしの体を借りた何かは生き延びる。
そうして、再び騎士にすがるのでしょうか。娼婦のように。そして思いが叶わなければ牙をむく。彼を傷つけることをいとわずに。
それがわたくしの望みなのかどうか、それはもう分からない。ただひとつだけ思うのは、
この体を自由にするのを、許してはならない――
(わたくしは生き延びられる?)
息はすでに止まっている。けれど苦しさがおさまった。わたくしは人ではないものになりつつある。
体の中で始まっている、別の存在の胎動。
――自由にはさせない。決して。
いつだったか教わった。魔物に勝つ最大の方法は、
生への執着。――
それは憑依型の魔物でも同じはず。そう、諦めてはいけない。決して諦めてはいけない。
ああ、ヴァイス様――
(叶うことなら、もう一度あなたに、会いたい)
星の神よ、どうかわたくしに力を。
澄んだ急流は冬の光を浴びて美しく輝いていました。きらきら、きらきらと、胸に迫るほどに輝かしく。
その中に沈み行きながら――
わたくしは、最後の意識を閉じました。
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