第一部 貴方に、――3

 エリシャヴェーラ様がご病気になられた――


「ああ。その話なら俺も聞いている」


 お屋敷に帰宅した騎士ヴァイスは、真面目な顔でうなずきました。


「病状は俺もまだ知らん。あの姫は元々体の強いほうではないからな、風邪をこじらせたのかもしれん」


 ウォルダートさんに手伝ってもらいながら服を着替え、騎士は食卓につきました。今日は騎士の帰りが遅かったため、晩餐となります。


 最近はわたくしもこの家付きの料理人さんに教わって、騎士の好物も作れるようになってきました。お肉料理だけは相変わらずできないのですが――


 騎士は「うまい」と言いながら喜んで食べてくれます。食べっぷりのいい彼を見ていると、やはり嬉しいものです。


「しかしエリシャ姫が病気か。これはチャンスかもしれん」

 食事の最中、騎士はそんなことを言い出しました。「今なら、邪魔をされずに式を挙げられる」


 わたくしは眉を寄せました。


「人が苦しんでいるときに……いけませんよ、ヴァイス様」

「だが邪魔をされ続けるのは困るだろう? 千載一遇のチャンスと言ってもいいくらいだ」

「でも……」


 いえ、騎士の言いたいことは分かるのです。仮の儀の準備を進めていることをエリシャヴェーラ様は当然ご存じでしょうし、お元気ならばきっとこの先も全力で邪魔をしてくるのでしょう。

 儀式が延び延びになれば、いずれ騎士も諦めて出立を優先することになるかもしれません。


 ご病気ならばその間に。頭では分かるのですが――


「実は今日ヒューイの機嫌は最悪だった。何でも王宮から脅しが入ったらしい」


 え、とわたくしは顔を上げました。


「婚儀の準備をやめなければ、店を潰すと言われたそうだ。まったく、王宮は相変わらず姫に甘い」

「そ、それでヒューイ様は」

「逆にやる気になったようだ。あいつはひねくれているからな、人の嫌がることをやるのが大好きなんだ。だから姫の嫌がる婚儀を絶対成立させてやると」


 ……そんな理屈ありですか。


 わたくしは思わず苦笑しました。ヒューイ様とはドレスの採寸のときに一度お会いしましたが、そのときはひたすら無言で会話どころではありませんでした。それなのに、今はだんだん親しみが湧いてきています。


「礼服もドレスも即行で作ってやると言われたぞ。予定より早く婚儀ができるかもしれん」

 騎士の声は、こころなしか弾んでいました。「修道長も立会人の約束を快諾してくれたし、あとは衣装ができるのを待つだけだな」


 姫のいない今がチャンスだ――と彼は繰り返し言いました。

 わたくしは、罪悪感をぐっと呑み込みました。


「でも、姫様も、早くお元気になってほしいですね」

「そうだな。俺たちの婚儀が終わってからな」

「……お願いですから、そこはちゃんとご快復を願ってさしあげてください」

「アルテナは優しいなあ」


 そんな風に微笑まれては何も言えなくなるじゃないですか。本当に、困った人。わたくしはぷいとそっぽを向きました。


 その後、食事中の会話はラケシスになったり、シュヴァルツ殿下になったりしました。


「王太子は悪いやつではないと親父殿は言っていたぞ。頭はいいんだ。気が弱すぎるだけで、そこさえ鍛えればいいと。今回結婚宣言したことで一皮むけたかもしれんとも言っていた」


 気の弱さがそう簡単に直るとも思えませんが、何しろ未来の王です。何が何でもそこは直していただかないと。ラケシスのためにも。


 それから騎士はアレス様やクラリス様たちの話をしてくれました。


「魔王討伐への準備はもう万全だ。あいつらはいつでも出立できるな」


 それを思うと一抹の寂しさがわたくしを襲います。

 わたくしが返す言葉を失っていると、


「心配するな。殺しても死なんやつらばかりだからな。魔王討伐の旅五年間はだてじゃない」


 五年の旅……

 それはどれほど大変な旅だったのでしょう。思いをはせれば、気が遠くなるような話です。


 そう言えば昔……、まだ魔王討伐が成されていなかったころ。

 わたくしがただの町長の娘であった時分、勇者様のお噂が耳に入るたび、思ったものでした。


 ――何もかも彼らに任せてしまっているままで、いいのだろうか、と。


 正しく言えば、魔王の首を狙う討伐者ハンターは他にもいたのです。ちゃんと敵の大将を狙って旅をしているパーティは、アレス様たちばかりではありませんでした。

 その方たちを含めても……わたくしは自分の在り方に不安を感じたものでした。誰かに危険なことを任せて、自分はのうのうとしていていいの?


 もちろん、魔物と戦う力などわたくしにはありません。わたくしなど、仮に鍛えたところでたかが知れていたでしょう。

 人には向き不向きがあり、役目の違いがある。そう思ったのはそのころ。


『すべて、自分の心ひとつ』


 アンナ様のお言葉を、そのとき思い出したのです。

 そう、自分の心がすべてを決める。罪悪感を抱えながらただ漫然と日々を過ごすくらいならば、自ら自分のできることを見つけにいけばいい。


 そうして、わたくしは修道女を志しました。人のために生き、人のために祈る存在に。


「アルテナ?」


 呼ばれて我に返りました。


「あ……すみません。何のお話でしたか?」


 慌てて謝ると、「いや」と騎士はしげしげとわたくしを見、


「疲れているんじゃないか? 王城は緊張しただろう」

「カイ様がいらっしゃったのでそんなことは……あ、そう言えば」


 唐突に思い出しました。わたくしはカイ様に馬車の中で聞かれたことを、騎士にも話してみました。


「ヨーハン様とお会いになりませんでしたか? カイ様がさがしていらっしゃるんです」


 途端に騎士は、苦虫をかみつぶしたような顔になりました。


「……会ってない。カイもクラリスも、ヨーハンの力が必要だとか言うんだがな」


 ふんと不機嫌に鼻を鳴らし、食卓に頬杖をつきます。


「……あなたも会いたいのか? あの気弱でうかつ者のヨーハンに」

「ヴァイス様」

 わたくしは眉をつり上げました。「いけませんよ、元のお仲間をそのようにおっしゃっては」

「だがあいつが馬鹿なのは本当のことだ」

「人にはいつだって失敗がつきものです! そのような言い方は断じて容認できません!」

「………」


 騎士がむっつりとます。横を向き、「なぜそんなにヨーハンに入れ込んでいるんだ」とぼそぼそとした声。


「入れ込んで――いるわけでは」


 ヨーハン様のことは好きでした。でもそれは、友人としての『好き』でしかありません。

 友人をけなされたなら誰だって怒るでしょう。それに、


「……他ならぬあなたが、人をあしざまに言うことも悲しいのです、ヴァイス様」


 わたくしは切々とそう訴えました。


 そう、本当はそれが一番つらい。陽気な彼の口から、そんな言葉が出てくることが。


 騎士はわたくしの顔を見ました。

 わたくしはひたむきに彼を見つめ返しました。


「……すまん」


 騎士は消沈した様子でそう言いました。そして夕焼けの瞳を悲しげに揺らし、


「あなたの関心を他の男が占めていることが許せない。だから俺は」


 わたくしは目を丸くしました。そして――くすりと笑い、


「何を言っているんですか。……わたくしの一番はちゃんとあなたですよ?」


 騎士が目に見えて喜色を浮かべました。わたくしは照れて顔をそらしました。


 本当に。わたくしったらこんなことを言うまでになって。

 一度は修道女を志した女がこんなに浮かれていていいのでしょうか、アンナ様?


「ヨーハンか。王都に来ている噂は俺も聞いているが、会ってはいないな」


 騎士の声が機嫌を取り戻しています。わたくしはほっとして、「そうですか」とうなずきました。


「たしかになあ……あいつは魔物のスペシャリストだし、最近の魔物の活発化について詳しいだろうな――ああ、一度会っておくほうがいいのかもしれない」


 親父殿に協力を頼むか、と騎士は言いました。


「アレクサンドル様は顔がお広いのですか?」

「それはもう。王都中の情報屋のすべてを把握しているぞ。親父殿の知らないことなんかない」


 ……それはそれで恐ろしいのですが……


「よし、親父殿に依頼しておく。だから心配しないでくれ――ああそうだ、聞いてくれアルテナ」


 騎士は突然明るい声でわたくしを呼び、


「クラリスから、『胸が大きくなるための護り石』とやらを預かってきた。ぜひ今夜から枕の下に入れて寝て――」

「いりません!」


 反射的に頑としてそう答えてしまいましたが――


(……つ、使ってみようかしら?)


 実はこっそり思ったことは、秘密です。



 数日後、ラケシスから手紙が届きました。


 どうやら検閲された様子もありません。そこは王太子殿下のご威光なのでしょうか。

 封を切り、中をゆっくりと読んで――衝撃にわたくしはガタリと椅子を揺らしました。


『エリシャヴェーラ姫は魔物に取り憑かれた由。今王宮は姫から魔物を追い出すために必死』



 エリシャヴェーラ様が魔物に取り憑かれた。


 それも、どのような魔物なのか一切分からないと言うのです。ヨーハン様の受け売りですが、普通魔物に取り憑かれた人間は活発に動き回ります。そのため、弱点も見えてきやすいのだそう。魔王のような強すぎる存在はまた例外になりますが。


 しかし、エリシャヴェーラ様は活発になるどころか、寝込んでしまわれたというのです。


 一見、普通の病気のようでした。ですが宮廷魔術師たちの何人もが断言しました。『これは魔物だ』――と。


 ただひたすら眠るだけの魔物。そんなものは誰も見たことも聞いたこともありませんでした。だから――。


 王宮は集め始めたのです。魔物学の専門家を、山ほど……。

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