第一部 貴方に、――4
ラケシスのこともエリシャヴェーラ様のことも解決しないまま日は行き過ぎ……
ある日、わたくしは修道院を訪れていました。
「いらっしゃい、アルテナ」
迎えてくださったアンナ様と軽い抱擁。それから、アンナ様はわたくしを修道院の裏の建物へと案内してくれました。
そこは禊ぎの施設でした。
修道院で婚儀を行う場合、花嫁がドレスを着る前に入る場所です。
十字に建てられた建物の中央に、丸くくりぬかれた禊ぎの場。近くの山から汲んでくる聖なる水がなみなみと湛えられています。
ここに浸かることで――
花嫁は、己の純潔を神に証明するのです。
「ドレスはもうすぐできそうなんですってね?」
アンナ様が悪戯っぽくそう言って、わたくしはぽっと頬を染めました。
ヒューイ様は一度本気になるととんでもない力を発揮するようで、騎士の礼服もわたくしのドレスも、予定よりずっと早く出来上がりそうだとのこと。
一度、サイズを確認するためヒューイ様に会いにいきました。
ただでさえ不健康そうな顔つきをしたヒューイ様は、いったい何晩眠っていないのか、目の下は真っ黒、顔色は真っ白。それなのに目だけはらんらんと輝いていて、「俺の邪魔をするな邪魔をするやつはコロス」とその目つきが雄弁に物語っていました。
「ヒューイ・グロース様……有名な仕立て屋さんですね。気が向かなければ決して仕事をしないそうですから、あの方に作っていただけるなんて、幸運と思わなくてはなりませんよ、アルテナ」
「そ、そんな方だったのですか……」
わたくしたちの婚儀の衣装を作るのを嫌がっていたのは騎士を嫌ってのことだと思っていたのですが、そうでもないようです。
アンナ様はくすくす笑い、それからわたくしの手を取りました。
「あなたは周りから祝福されて結婚するのです。よきことと思わなければね」
「……はい」
禊ぎの間から修道院に戻ると、なぜか場が騒然となっていました。
「いったいどうしたの」
アンナ様が率先して、近場の修道女を捕まえます。
「あ、アンナ様。実はシェーラが――」
「シェーラが?」
久しぶりの親友の名にわたくしは息を呑みました。
そして。事態は最悪の方向へと転がり出したのです――
*
「シェーラ殿にも魔物が取り憑いただと……!?」
騎士が呆然とわたくしの言葉を繰り返しました。「馬鹿な、なぜシェーラ殿に!」
「……分からないのです。シェーラは眠り込んでしまっていて……」
魔物に取り憑かれたのだと判断したのは、アンナ様の知己の魔術師様でした。おそらく間違いではありません。
わたくしも眠るシェーラを見ました。顔色は白く、本当にただ眠っているだけのようで、けれど――その両手両足が真っ黒に黒ずんでいました。
黒ずんでいる部分に触ると、石のように固かったのです。まるでシェーラの体が石化していっているかのように。
それは、ラケシスの手紙にあったエリシャヴェーラ様の症状と同じでした。
その日のシェーラの行動を調べてみたところ、外出したのはたしかのようです。シェーラには、護衛という名の王宮からの監視がついています。
その監視人たちが、はっきり見ていたのです。
シェーラがいかにもスラム街に住んでいそうな、みすぼらしい姿の男と話していたところを。
そして、その男と離れたころ――突然倒れ、そのまま昏睡してしまったと。
監視人の一人はすかさずそのみすぼらしい男を追ったそうです。ですが、男はどこの道を見ても見つからず、煙のように消えてしまったとか。
ひょっとしたらあれこそが魔物憑きの人間だったのかもしれない――と、監視人は言いました。
魔物憑きが魔物憑きを増やしているのかもしれないと。
「でもシェーラは眠り込んでいるだけで動かないのです。エリシャヴェーラ様と同じように……仲間を増やすにしては、おかしいではないですか」
わたくしが騎士に訴えると、騎士は難しい顔でうなずきました。
「その通りだな。何か別の理由があるのかもしれない――とにかく、町に他にも同じ症状で寝込んでいる者がいないかどうかを調べなくては」
「アンナ様が手配してくださっています。情報は、わたくし――というよりヴァイス様に伝わるようにしてくださると、約束してくださいました」
「それはありがたい。俺は親父殿と知り合いの連中に頼むかな」
顔が広いのはアレクサンドル様だけではないのでした。騎士は騎士で相当な顔の広さを誇ります。
数日もしないうちに、同じ状態で寝込んでいる一般人が少なくとも数人いることが分かりました。
被害者に共通項はありません。老若男女問わず、寝込んでいるそうです。みんな手足が石のように冷たく、固くなっていっているとか。
彼らのうち数人は、昏睡する直前に見知らぬ人間と話していたという目撃情報がありました。ただしそれはシェーラのときのようなみすぼらしい男ではなく、若い女であるときもあれば、体格のいい男であるときもあったそうです。
わたくしは毎日のようにシェーラのお見舞いに行きました。
シェーラの手足の黒ずみは、だんだん範囲を広げているように思えました。このまま胸に広がり、やがて顔まで達するのでしょうか。そう思うとぞっと心の臓が震えました。
(ああ、どうして)
昏睡する親友をなすすべもなく見つめながら、わたくしは必死で神に祈りました。
(どうしてなのですか。どうしてこんなことが……どうか、救いの手を)
そして脳裏に一人の人物の顔を思い浮かべました。ヨーハン・グリッツェン様――私の知る限り最高の魔物学の学者さん。
(ヨーハン様がいれば、この事態の原因も分かるのかしら)
今日もシェーラに何もしてあげることができないまま、とぼとぼと修道院から帰途につきました。
騎士に、移動には馬車を使うように言われています。ですがその日は何となく馬車に乗る気になれず、一人歩いてお屋敷への方角へと向かいました。歩けば相当な距離があるのは分かっていますが――
「アルテナ様」
呼びかけられたのは、まさにそのとき。
わたくしはゆるゆると鈍い反応で振り向きました。
そして――目を見開きました。
「ヨーハン様!」
「あはは~お久しぶりです~。お元気でしたかアルテナ様」
ヨーハン・グリッツェン様。まさにその人が、以前と同じようにへらっとした笑顔でそこにいました。
わたくしたちは人気のない公園へと移動しました。ヨーハン様が、「こんなところ誰かに見られたら僕がヴァイス様に殺されちゃう」とおっしゃったからでした。
「ヴァイス様もヨーハン様に会いたがっていましたよ……?」
「魔物の情報のために、でしょう? 僕自身のことは割とどうでもいいはずですよ~」
気のせいか、ヨーハン様の言動にどこかとげとげしいものを感じます。
わたくしたちは木陰のベンチに座りました。
常緑樹の公園です。木漏れ日が、わたくしたちの足下に輝かしい丸い光をたくさん落としていました。シェーラの病状を見た直後でなければ、見とれてしまえる美しさだったのですが……
わたくしは隣に座るヨーハン様をじっと見つめました。
「あの、ヨーハン様」
「――町で蔓延している、魔物化の話でしょう?」
ヨーハン様はわたくしを見ていませんでした。足下の木漏れ日を、ひとつひとつ目に焼き付けるようにして見ています。
彼の言う通りだったので、わたくしは息を呑んで言葉の続きを待ちました。
「実はあれ、王都が最初じゃないんですよ~。別の町で始まって……そっちも大混乱になってます~」
「……!? そんな話は聞こえてきていませんでしたが……」
「そりゃあそうでしょうねえ」
意味深に、ヨーハン様は唇を歪めました。そして、
「対処法はまだ見つかってません~。いや……見つかってるっていうのかな? ただ、実行ができません~」
「ど、どういうことですか?」
「治す方法が極めて困難なんですー。魔物の弱点が見えない状態ですから。普通魔物は、弱点を潰せば消滅するんですけどねえ」
「弱点……」
例えばシェーラのお父様に憑いた魔物の場合は爪でした。爪を切ってさえしまえば魔物は消滅したのです。
「あるいは、弱点の部分から引きずり出すこともできるんですよ~。って、教えましたっけね」
「はい。例えば目から入った魔物は目から引きずり出せるんでしたよね?」
現実問題、目から引きずり出すところを想像するとぞっとするのですが、できないことではないそうです。
ただ実際には、目を潰してさっさと魔物を消滅させる手を取ることのほうが多いそうで……被害者の目は、もちろん悲惨なことになるのです。
それでもその手を取られることのほうが多いほどに、取り憑いた魔物を『引きずり出す』のは難しいこと。
ヨーハン様は顔を上げ、人のいない小さな公園を眺めました。
「……僕、最初にこの騒ぎが起きた町にたまたまいたんですよねえ……」
「どこの町ですか?」
ヨーハン様の口から出たのは、王都の隣の町でした。サンミリオンとは、方角が逆になります。
それほど近いところで起こっていたのに――なぜ王都には情報が届いていないのでしょうか?
そう問うと、ヨーハン様はくっくっと皮肉げに笑いました。何だか彼らしくありません。
「……王宮はとっくに知っていますよ。お得意のだんまりです」
「そんな……!」
ヨーハン様は初めてわたくしを見ました。
いつも眠たげだった目がはっきりと見開いて、わたくしを見ていました。
「なぜだんまりなのか分かりますか。――原因は、王宮だからですよ」
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