ある卿の懊悩 後編

 魔王が倒され、アレスたちが帰ってきた。国はひととき平和を取り戻した。

 ……かに思えたが、王宮はにわかに騒がしくなった。凱旋式の折にエリシャヴェーラ王女がヴァイスを見初めたらしい。よりによってヴァイスを!

 これには娘に甘いさしもの国王夫妻も大反対した。エヴァレットたち貴族は胸をなで下ろした。なんだかんだで、国王に逆らったまま王族が結婚できるようなことはない。姫が姫という立場を捨てれば別だが、あの天性の甘やかされ王女にそれができるはずもない。

 そんなある日、妙な星の託宣が下された。ヴァイスと星の巫女の間に生まれる子が救世主となるらしい。なんだその下らない託宣は。あの星の巫女はおかしいのではないか。

 巫女はともかく――ヴァイスから救世主が生まれるというのは、エヴァレットたちにとって聞き捨てならない話だった。

 はらはらしているところに、またも厄介ごと。その託宣を聞いたエリシャヴェーラ王女が癇癪と気鬱を繰り返すようになったのだ。

 気鬱。あの姫に気鬱などというものがあるのか。エヴァレットは本気で驚いたものだ。どうやら姫は星が好きで、そのため星の神のこともそれなりに信じていたらしい。姫につけた乳母が、敬虔なる星の神信者であった影響もあるようだ。今さらそんなことが判明するとは意外なものだ。

 王女はあの巫女がおかしいと、繰り返し父母に訴えた。

 気鬱から癇癪へと転じたときの王女の激しさには、王宮の誰もが手を焼いた。

 侍医を何人もつけていたが、まったく意味はなかった。

 やがて癇癪は、娘をこよなく愛する王妃にもうつった。


 ――あの巫女を処分してしまいなさい。


 ことは星の巫女の話。そして修道院の話。

 従って、それはエヴァレットの裁量となった。

 心底面倒くさいと思った。しかし王妃の命ならば仕方あるまい。元よりヴァイスから救世主など生まれてもらっては困るのだ――絶対今より面倒なことになる。

 それを避けるためには、巫女をヴァイスから引き離してしまうのがいい。

 命を取るまではする必要はあるまい。できないことではなかったが、星の巫女も国民の偶像(アイドル)である。

 件の星の巫女は、生まれが王都ではない。では実家に帰してしまえばよい。

 修道院に直接それを命じたわけではないが、そうなることをエヴァレットは確信していた。

 託宣が下って以来、何やらヴァイスがその巫女につきまとっているという噂も聞く。かつて王宮を手玉にとったような男に追われたのでは、その巫女もたまったものではあるまい。託宣を否定され、恥をかいた上でならば、喜んで実家に帰るに違いない。

 案の定、件の巫女はすぐさま実家に帰ることになった。エヴァレットは思惑がうまくいき、上機嫌だった。その日の夜は上等なワインを開け、『趣味』を堪能しながらほろ酔いで自らの功績を思った。あの巫女にはヴァイスから逃げる口実を作ってやったのだ、感謝されてもよいくらいだ。

 いや、ヴァイスなら巫女を追うくらいはするだろうか?

 しかし件の巫女の人となりは、エヴァレットも調査済みだ。簡単に結婚など承諾すまい。もし承諾などするようならまた邪魔をしてみせよう。救世主が生まれるなどという馬鹿げた託宣はなかったことにしてしまえ。

 そう、エヴァレットは極めつきの不信心者でもあったのだ。


 幸か不幸か、世間では魔物が活発化し始めていた。これは十一年前の、魔王降臨の直前と似ていた。

 王宮では早々に調査を始めていた。怪しいところには目星がついている。

 そして、時を同じくして『魔王復活』の託宣。――エヴァレットはほくそ笑んだ。これでヴァイスをまた叩き出せる。

 この国は我々が動かすのだ。勇者など、魔物だけを相手にしておればよい。


 しかし予想外の出来事というのはいつでも降ってくるもので。

 ――ラケシス・リリーフォンス。そんな人間の名前など、本当ならば一生涯耳にすることなどなかっただろうに。


「シュヴァルツ殿下の暗殺……? また間抜けな暗殺者がいたものだな」

 正直にそう思った。あんな王子一人消したところで、王族はどうにもならないところまで来ている。

 ただ、死んでもらっては困る。傀儡(くぐつ)は居るほうが都合がよいのだ。

 暗殺者は女だという。それはまあ、驚くには値しない。エヴァレットは『暗殺者』という言葉のほうに注視しすぎて、大切なところを見逃していた。

 『リリーフォンス』という名前が、これ以上なく重要であったということを。



「ラケシス・リリーフォンス殿は暗殺者ではないはずだ」

 王城へ突撃してきた忌々しい男は、口を開くなりそう言った。

「エヴァレット卿。あなたなら口添えも可能だろう。彼女の本当の目的を、しっかり調べさせろ」

「……なぜお主がそんなことを気にする、ヴァイス・フォーライク」

 エヴァレットは苦々しい味が胃に下りるのを感じる。この男が乗り出してくると、大抵物事が大きく動くのだ。

 ヴァイスは淡々と言い放った。

「ラケシス殿は俺の未来の義理の妹だ。こんなところで失うわけにはいかない」

 義理……義理の妹?

 そこでようやくエヴァレットは気づいた。リリーフォンス――例の巫女と同じ姓!

 そのとき真っ先に胸に湧いたのは歓喜の思いだった。ラケシスを罪人として処罰すれば、アルテナとかいう巫女のほうの立場も悪くなる。それならますますヴァイスと結婚などしづらくなるだろう。これほどよい話があるか!

 しかしそれをこの男の前ではっきり出すわけにもいかぬ。エヴァレットはこほんと咳払いをして、

「暗殺者ではないとなぜ言い切れる?」

 努めて厳しい声でそう問うた。

 この国で一番ふざけた騎士はあっけらかんと、

「ラケシス殿が暗殺などありえないからだ。彼女の性に合わん」

「どこからそんな自信が出てくるのかは知らんが、しかしどうかね、王城に不法侵入したのは事実だが」

「だからその原因をしっかり調べろと言っている。耳が遠くなったのか、エヴァレット卿?」

 視線の火花が散った。

 エヴァレットは舌なめずりをして、唇を湿らせた。

「……何もかもお主の思い通りになると思うなよ、ヴァイス」

「悪いが、俺は思い通りに『する』男だ。今日俺が、貴殿と会うためだけに王宮に来たとでも?」

「………」

 では他の貴族たちにも手を回しているのか。ろくな手段はつかっていまい。エヴァレットはにわかに緊張する。誰が誰の味方をするのかが分からなくなる。

「調べるのはよいが」

 平静を装って、笑顔を作った。「暗殺者であった場合、容赦はせんぞ」

「暗殺者であった場合は、な。簡単に処断したら許さない」

 散る火花が大きくなる。こめかみが痛み出したのは、緊張が強すぎるからか。ああ本当に忌々しい男だ、こんなにもわしの心を乱しおって――

「分かった。調べよう」

 とにかくこの場を終わらせて、ヴァイスから逃げたかった。目の前にさえいなければどうにでもなる。そう思ったのだ。

「約束だぞ」

 ヴァイスもそれ以上のことをしようとはしなかった。内心ほっとした自分がますます忌々しい。口の中にある味が苦い。部屋に戻って喉を焼くようなウイスキーでも飲むか――


 しかし、安心できたのはほんのつかの間。

 ヴァイスは翌日にはまた現われた。しかも、今度は決然とした勢いでもって他の宮廷人たちに迫っていたのだ。

「シュヴァルツ殿下の部屋に入れろ!」

 ――何を言い出したのだこいつは。

 たしかに王太子は今部屋に引きこもってしまっていて、食事時になっても出てこない。だからといって――

「いいから入れろ! 話をしたいだけだ!」

 今の王太子には何を言っても無駄だろうに。内心そう思いながらも、誰もヴァイスに逆らうことなどできなかった。思えばこのときにはもう、大半の宮廷人はヴァイスに弱みを握られていたに違いない。

 握られていなくても、ヴァイス自体が苦手なだけだったのかもしれないが。

 結局、ヴァイスは事を成した。王太子の部屋に特攻したのだ。そして――

 それが、王宮のひっくり返るような騒ぎの発端となる。


 シュヴァルツ殿下とラケシス・リリーフォンスが恋仲だった。これはどうやら嘘偽りではないらしい。牢の娘のほうにもたしかめたが、どうやら嘘のつけない娘のようだった。

 あんな軟弱な男のどこに惚れたのだと心底不思議だったが、まあいい。問題は……

 シュヴァルツ殿下が、かつて見たことのないような意気を吐いたということ。

「ラケシスと結婚します。本気です!」

 そしてその言葉は、他ならぬヴァイスに火をつけた。

「ラケシス殿の復権が必要だな」

 そうして最低な騎士はエヴァレットを見てにやりと笑った。

「あなたならアルテナ・リリーフォンスの復権ができるはずだな、エヴァレット卿?」

 エヴァレットは一歩退いた。

「そ、そんな簡単にできることでは――」

「あなたの秘密の趣味を王宮にバラしてもいいのか?」

「!!!」


 馬鹿な。どうしてこの男が知っている。

 口をあんぐり開けたエヴァレットの前で、ヴァイスは愉快げに話を続ける。


「まあ心配するな。女性のヌード画を好きな男も、そのヌードの顔を好みの女に描きかえる男も珍しくはない。宮廷の連中もちょっと苦笑いするくらいで済むだろう。ところで俺としてはこの趣味をクラリスとマリアンヌにもぜひとも教えたいのだが」

「やめてくれ!」

 エヴァレットはとうとう折れた。ああ、なぜだ。なぜ国一番と誉れ高い二人の女性が二人してこの男の知り合いなのだ。

 なぜあの最上の美の化身たちがこんな男のそばにいるのだ――


 毎晩の癒やし。美しき女神たる女性たちの絵画に囲まれて酒を飲むこと。この王宮で生き延びるために必要な活力の源。決して、画家と家人以外には知られてはならぬ秘密の趣味……


 胸に屈辱を抱いたまま、ヴァイスとともに修道長へと話をしにいったその日の夜。

 マリアンヌ・クレアラント。クラリス・ゲッテンベルグ。双方の顔を模したヌード画を前にして、エヴァレットはさめざめと泣いた。ああ――

 男の浪漫を解さぬ連中などこの世から消えてなくなればよい。

 やましい思いなどない。ただその美しさを愛でていたいだけなのだ。誰も分かってなどくれない。いや、分かってくれなくてもよいと思っていた。

 けれど。

 万一本人たちに知られた日には……自分は羞恥に燃える火で死んでしまうかもしれない。

 このときエヴァレットのひねくれた魂は、回復不能なところまでねじれてしまった。野心はそのままに、大半には理解されない趣味をこれ以上なく大切に抱いて、彼は嘆いた。監査室長でありながら不信心者である彼は、このとき初めて心から星の神に語りかけた。神よ――

 いったい私の、何が悪だというのですか……と。



(終わり)

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