もう、迷いません。―12

 アンナ様のお言葉は、凝り固まっていたわたくしの考えを優しくほぐしてくれるかのようでした。

 そうして、ほどけた塊の中央から、新たな心が現れるのです。


 胸を張っていい――そう言ってくださるアンナ様にだからこそ、言える。正直な心。


「わたくしは恐かったのです、アンナ様。あっさりと自分の信じていたものを覆すことが」


 ええ――アンナ様は温柔な仕草でうなずきました。


「本当は、とっくに心が決まっていたのかもしれません。でも見えた道は今まで憧れてきた道とは正反対のものでした。そんな自分が、恐くて」

「そうね」

「――騎士は、修道院に戻っていいと言ってくれています」


 それを言葉にした瞬間、胸につんとした痛みを感じました。

 そう――騎士は、そう言ったのです。修道院に戻ってもいいと。

 そのためにも、わたくしの復権を願ったのだと。


『出立が早まりそうだから』


 彼は苦く笑ってそう言いました。どうやら「間に合いそうにない」と――、


 ……何が何に間に合わないと彼が思っているのか、それを思うとしめつけられるように苦しい。


「ええ。彼はラケシス様の復権よりもむしろそちらが主眼のようでしたよ、アルテナ」


 アンナ様の目線がドアの向こうへと向かいます。そこに、騎士がいるはずでした。


「……正式に結婚もできないまま魔王討伐に出るのなら、わたくしを気楽な場所に帰したいと、彼はそう言うんです」


 それを聞いたとき、わたくしはとっさに『違うんです』と言いかけ――言葉を呑み込みました。

 何が違う? 彼がいないまま彼の家に留まるわけにはいかない。

 騎士の実家も思ったよりずっと居心地がよいけれど、そこに留まるのも何か違う。かといってすごすご自分の実家に帰るのも情けない。だったら……


 修道院に戻れるならそれが一番いいのは、間違いないとも思うのに。


 好奇の視線にさらされるのも修行の一環と思えばそれでいい。成したかった生き方ができる。

 なのに――。


「……でももうごまかせません。わたくしの心は決まってしまっている。エリシャヴェーラ様と話してそれがよく分かりました」


 あまりにも身分が違いすぎる一国の王女相手に、負けられないと思ってしまった。

 彼の心を――ないがしろにするのは許せないと。

 何より王女様と対等でいたいと思った、そのときにはすでに……決まっていたのです。


 わたくしはもう、一介の修道女には戻れない。戻りたくない。


「彼の妻になります、アンナ様。彼とともに生きる道を模索しようと思います。それがどんな茨の道でも」


 ……どちらかというと奇想天外な道になりそうですが、ともかくそれがわたくしの答。

 アンナ様は微笑みました。


「ええ、アルテナ。あなたの望む道へ」


 託宣は成されます――修道長の粛然たるお言葉が、わたくしの耳を打ちました。


「――ですがきっと、神はあなたの幸福を願ってくださる。託宣はそのためのものだったと信じなさい」


 はい、アンナ様。

 顔を上げ、笑顔を浮かべました。これ以上ないほどの満足感を体の内に覚えながら。



 アンナ様のお部屋を出ると、


「頼む。この通りだ!!!」


 なぜか道行く修道女を拝み倒している騎士の姿。


「……騎士」

「はうぁっ!?」


 わたくしに驚き素っ頓狂な声をあげる彼。その隙に、修道女がそそくさと立ち去っていきます。

 わたくしは目をつり上げました。


「人様に何をしているのです、騎士よ」

「おかしなことはしていない! ただ巫女が在籍していたときの忘れ物か何かを譲ってくれないかと――」

「どこの不審者ですか!」

「俺は不審者ではない! 以前から堂々と巫女を追いかけ回している」


 胸を張って言わないでください騎士よ。


「まさか、以前からそんなことを皆さんに頼んでいるのではありませんね……?」


 じろりとにらみつけると、騎士はぶんぶん首を振り、


「とんでもない今日が初めてだ。その、何か出立に持って行けるものがあればなあと」

「……」

 わたくしは小さくため息をつきました。「それならば、わたくし本人に頼んでください」

「え? くれるのか?」


 彼は本気で驚いたようです。まったくもう……彼の中でわたくしはどれほどけちな女なのでしょう?


(いえ……違うわ)


 彼はまだ分かっていないだけ。わたくしがどれほど彼を想うようになったか知らないだけ。

 それを教えていないのは、他ならぬわたくし自身なのだから。


「帰りましょう」


 わたくしは微笑みました。そう、帰りましょう。彼の――家へ。



 少し歩こうと彼は言いました。わたくしもそれに賛成しました。


 心地よい夕刻です。鮮烈な色に染まった夕日を浴びながら歩くと、何だか力をもらえるよう。


「ラケシスは家に帰れるのでしょうか?」


 帰る道行き、騎士にそう尋ねると、


「いや。しばらく城に留め置かれるようだぞ」

 騎士は首を振りました。「何せ解決しなくてはならんことが山積みだ。もう暗殺者扱いではないが、簡単には解放できん」

「……王太子殿下は、ラケシスを守ってくれるでしょうか」


 ラケシス自身いわく、情けなく気の弱い王子様。姫様いわく、部屋に閉じこもってしまうような人。

 騎士が怒鳴り込んでいかなければそもそも部屋から出てきたかどうか、それさえも定かではないのです。それを思うと、妹の身を預けることに不安があるのですが……


 騎士はあっけらかんと、


「まあ大丈夫だろう。何かあったら俺が脅しておいた王宮の連中も動くだろうし」

「お、脅したんですか」

「そう言ったろう? そもそも昨日はほとんどその手配で――おっと」


 今さら口を覆っても意味はありませんよ、騎士よ。


 わたくしは呆れ果てて、「ほどほどにしてくださいね」と言っておきました。


 もっとも――そんな強硬手段でもとらなければ、一般人であるわたくしたちは王宮を相手に戦えないのかもしれません。


 わたくしは行く先を見つめて目を細めました。

 町をそろそろ外れ、人通りもなくなりつつあります。足を向けるのは、ちょうど夕焼けの広がる方角。


 騎士の瞳のような色の空。


「魔王討伐の出立のご予定は――」

「うん。いや」

 彼は言葉をにごしました。「……まだ分からん。仲間たちには伝達しておいたが……まあ簡単にまとまる話でもない」


 嘘だとすぐに分かりました。たぶん旅に出ることに、やぶさかなお仲間はいないのでしょう。

 彼は、間もなく行ってしまうのです。


(……それでも)


「わたくしは、騎士のお屋敷を守っていればよいのでしょうか?」


 努めて明るく話したつもりでした。

 しかし彼は、ぴたりと足をとめました。

 返ってきた声は、思った以上に――真剣で。


「……待っていなくてもいい。修道院に帰っていいんだ、巫女」

「………」


 数歩先に進んでしまったわたくしは、同じように足をとめて振り向きました。

 彼はわたくしをじっと見つめていました。


「……託宣をもう一度王宮に認めさせることは、本当はもっと前にできた。だが俺はしなかった――巫女が修道院にいられなくなるほうがいいと思っていた。俺は、卑怯だ」


 夕焼けから目をそらしたのに、やっぱり見えるのは夕日の色。力強くあざやかな、生命の色。


「――でももうやめた。直接あなたを守ることが許されないなら、せめて好きな場所にいてほしい」

 

 好きな場所に――帰っていいと。

 生気に満ちあふれているはずの瞳が、どこか頼りなげに輝いていました。


 わたくしは――

 ただ、笑って。


「嫌です、ヴァイス様。わたくしはあなたを待つことに決めたんです」

「巫女――」

「名前で呼んでください」

「……アルテナ」


 夕刻に世界を包む太陽の色。それに魅入られたわたくしは、もう逃げることなどできない。


「わたくしは本当に取り柄のない女です。それでも……許してくださるんですね?」


 じっと夕日の色の瞳を見つめると、その色もわたくしをまっすぐに捕らえて動かずに。


「取り柄がないどころじゃない。俺にはあなたしかいないんだ、アルテナ」


 どうして……?

 何度も何度も思った問い。その答を知る日も、いつかくるのでしょうか?


(でももう、理由なんていい)


 わたくしが騎士を愛した理由も、今となってはどうでもいいのと同じように。


 騎士は大股にわたくしに近づきました。両腕に抱きすくめられて、わたくしは強く胸をときめかせました。そう――

 この心に素直になれば、いいだけ。


「俺の妻になってくれ、アルテナ。必ず生きて戻ってくるから」

「……約束ですよ、ヴァイス様。わたくしを未亡人にしないで」


 約束する、と――

 応える声が、泣きそうに震えていました。

 抱きしめた腕をほどき、両手でわたくしの顔を包み、彼は口づけを落としました。


「……本当に」


 信じられないとその声の響きが訴えています。

 今こそ、言うとき。ずっとごまかしてきた気持ちを償うために。


「あなたを愛しています。もう、迷いません――どうかわたくしをさらっていって」

「アルテナ」


 力強い口づけで。何もかもを奪っていって。

 もう逃げ場などないことを、わたくしに教えて。そうして溺れる悦びを教えて――。


 ――今夜も、一緒に寝ようと彼は言いました。

 わたくしは陶然とうなずきました。その奥にひそむ甘やかな予感に震えながら。



 ……帰り道は羽が生えたかのように浮ついた足取りだったと思います。

 後になって思い出すと本当に恥ずかしい限りなのですが――まるでそんなわたくしたちを罰するかのように、罠がお屋敷で待ち構えていたのです。



「おや、お帰りなさいませ旦那様」

「……なんだこれは、ウォルダート」

「王女殿下からでございます。『静かに暮らせると思ったら大間違いよ!』――だそうで」


 モー、ブヒッ、メェ~~~~


 もう夜も近いというのに、真昼のようなにぎやかさ。

 騎士のお屋敷の前庭を、大小さまざまな豚、牛、羊が埋め尽くしていました。

 騎士が悲鳴をあげました。


「どうして受け取ったウォルダート! こんなもの叩き返せ!」

「しかし旦那様、生き物を叩き返すのは至難のわざでございまして」

「そうかもしれんがお前絶対わざと受け取っただろう!?」

「それは心外でございます。ところで旦那様、われわれ使用人一同寝所を別所へと移したいのですが、よろしいですか」

「駄目だ! お前らも一緒に埋まれ! あああもう!」


 せっかくの夜が台無しだ! ――叫ぶ騎士の声は大量の動物たちの鳴き声に決して負けていません。

 かくして、甘いはずだった夜の夢は一瞬にして破れ去ったのです――。



 あのあと、アンナ様にひそかに聞きました。


『星の巫女は神の実験のためにあったと聞きました。本当ですか?』


 どうしてもそれが聞きたかった。わたくしの知らないことを埋めたかったのです。

 アンナ様は顔を曇らせました。


『……そのように言う者もおりますが』


 お言葉をにごして、それだけ。結局分からずじまいで。

 ラケシスのこともまだ不安です。何より魔王が復活する。未来が明るいとは、お世辞にも言えません。


 でも――。


(騎士と生きる道の模索。知らないことを知ること。知っていることを愛すること)


 未来は自力で勝ち取りなさいと、クラリスさんは言いました。

 今なら、分かります。どんな未来を迎えるかはわたくし次第。


(きっと後悔はしないように)


 騎士と歩む道にもう惑いなどないように。今、心から。

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