もう、迷いません。―4

 騎士と話していると、よくも悪くも気がまぎれました。

 時間はあっという間に過ぎていき――


 そして、夜。


「今夜は自分の部屋で寝るか? それとも俺の部屋に来るか?」


 そう問われ、わたくしはようやくその重大なる問題に気づいたのです。


(こ、この家に泊まることになる……!)


 聖ミラエル孤児院では当然ながら別の部屋で眠りました。お互い子どもたちに添い寝しておりましたから、さすがの騎士も夜這いに来るようなことはなく……

 余計なことは考えなくていい、平穏無事な一夜を過ごしたのです。


 ですが――ここは騎士自身の家。


 わたくしは激しく動揺しました。修道院どころか王宮にさえ忍び込もうというこの人が、大人しくしてくれるとはとても思えません。


 でも、同じ部屋で眠るなんてそんな! ね――眠るだけで終わりそうにないではないですか!


「じ、自分の部屋で眠りますから。一人で眠りますから!」

「一人で大丈夫か? 添い寝してやるぞ」

「けけ、けっこうですっ」


 ぶんぶんと首を振って意思表示。騎士が「むう」と不満げにうなり、何かを言いたそうに首をかしげます。


 ですが、彼が何かを言い出す前に、後ろに控えていたウォルダートさんがおごそかに言いました。


「アルテナ様はお疲れにございます。旦那様がご一緒では余計にお疲れになりましょう、わきまえなされませ」

「お前それが主人に対する言葉なのかウォルダート」

「どこか間違っておりましたでしょうか?」


 しれっとした顔のウォルダートさん。

 騎士は「むむう」といっそううなって腕を組みました。名残惜しそうにわたくしを見つめ、それからため息をつき。


「……仕方あるまい。ウォルダート、彼女をよく休ませてやってくれ」

「御意」


 そのときわたくしの胸にちくりとした痛みが走ったのは、なぜだったのか……。



 わたくしのために用意された部屋の窓は、改めて見てもたいそう大きなものです。ベッドに入ったとしても、容易に空が眺められるでしょう。


(ひょっとして……星が見えるようにしてくれた……?)


 修道女の習慣、星に祈ること。彼はそれを知っていてくれたのでしょうか。カイ様たちが彼に教えてくれた可能性だってあります。


(……なんて)


 そんなことまで考える自分が少しおかしくて、わずかに笑みがこぼれました。


 ベッドと窓の合間に椅子を置き、わたくしは静かに腰かけました。

 近くに燭台を置き、ほのかな灯りの中、胸の前で手を組み合わせてみます。

 一日の刺激によって乱れた心をまとめるための儀式。遠く、またたく星を眺めるようにして。


(……神は……ラケシスのことを教えてはくれないかしら)


 そんな思いが忍び寄ってきて、淡い自嘲が浮かびます。

 都合がよすぎること。神の託宣は、個人的な願いなど叶えてくれない。


 星の声が聞こえなくなって久しいわたくしです。唯一の例外はスライムに襲われたあのときですが、あれこそまさに『神の気まぐれ』としか言いようがありません。


 託宣は常に一方通行――


 すがるなら、むしろクラリス様の占いのほうが適切でしょう。彼女は何と言っていたでしょうか――そう、


『思いがけない結果で終わる』


 いったいどんな結末を迎えるというのか。考えると、不安でのどに苦い味を感じます。


 わたくしは瞼を下ろし、星の輝きをひととき閉ざしました。


 代わりに思い浮かべるのはただ愛する妹の姿だけ。

 あの子の、無事な姿だけ。


 星の巫女たる者、個人的な思いを星の神に祈るのは、本来褒められたことではありません。でも――

 今は、それだけしか浮かばなくて。


(ラケシス……無事に帰ってきて)


 不意に、風がかすかに窓を揺らしました。

 わたくしは何気なく目を開け――そして、ヒッとのけぞりました。


 目に飛び込んできたのは、窓にべたりと貼り付いた手。


「な――なに……?」


 思わず椅子から立ち上がり数歩退くと、その手は今度は拳の形を取りました。

 ドンドン、と、窓を叩いて。


「………」


 ふしぎなものです。手しか見えない状況なのは変わっていないのに、その瞬間にわたくしはすべてを察していました。慌てて窓を開け、


「騎士! 何をしているのですか!」

「うむ」


 外の窓枠に――ほんのわずかにしか出っ張っていないその場所に――両手の指をかけて、騎士がこちらを見上げていました。


「ウォルダートたちに気づかれんように入る方法がこれしかなかったのでな」

「そ、そんな理由で」

「すまんが入れてくれ。今夜は寒い」


 わたくしは急いで彼の手を取ろうとしました。ですが、彼には助けが必要がなかったようです。


 ちょいちょいと指先のジェスチャーだけで指示されわたくしが場所をどくと、彼はひょいと身軽に窓枠を乗り越えてしまいました。バタンと窓を閉じ、がしがしと柔らかい髪をかきます。


「いやあ寒かった。巫女よ、ちゃんと着込んでいるか?」

「も、もちろんそれはウォルダートさんたちが気づかってくださったので」

「そうか。やつら俺には夏用の寝間着をよこしたぞ。『何とかは風邪を引かないと申しますし』とかぬかしおった――この時期に夏服を用意するほうが面倒だと思うんだが、そういうことには手間暇を惜しまんのだな」


 見れば彼は厚手のコートを着て、前をしっかり閉めています。わたくしは少し意外に思いました。


「でも、たしかにあなたは冬に強そうです、騎士よ」

「その通り実は冬が一番好きだ。寒さの中にこそ行動の意味がある! それに」


 おもむろに手がこちらへと伸び、気がつけばわたくしはすっぽりと彼の腕の中へ閉じ込められていました。


「こうして、巫女を抱きしめる口実にもなるしな」

「……さ、寒くなくてもこうするじゃないですか」

「ん。理由などなんでもいい」


 こめかみに軽い口づけが落ちました。触れた部分がぽっと温かくなり、生半可な暖房よりよほど強いぬくみが生まれます。


 それは緊張をほどき、安堵を生むような温かさ。つい浸りたくなって、わたくしはそっと息をつきました。

 彼の体に、身を預けるようにして。


「……ウォルダートさんに怒られますよ」

「知ったことか。今あなたを一人にはできん」

「………」


 大きな温かい手が、頬を包み込みます。


「冷たいな。早くベッドに入ったほうがいいぞ」


 自分でも気づかないうちに、だいぶ冷えていたようです。わたくしは目をそらして、


「……祈りたいのです。ラケシスの無事を……一晩中でも」

「ベッドでも構わんだろう?」

「星の神に届けばと――」


 声が、尻すぼみに小さくなりました。


 やがてわたくしは、最後まで言い切る代わりにため息をつきました。なんだか自分の行動の意味を見失ったようで、たれこめた暗い気持ちにしつぶされそうになります。


「そら。やっぱりそんな顔をする」


 ぶにん。騎士の指がわたくしの頬をつまんで伸ばします。


「ふに……いふぁいでふ、ひひよ」

「あなたは一人で考えこむ性だろう。だから今は一人にならないほうがいい」

「―――」

「ため込まず俺に八つ当たりでも何でもすればいいぞ。何しろ俺の頑丈さは筋金入りだ、任せておけ」


 燭台の炎が彼の横顔を照らしていました。


 つまんでいた手を離し、わたくしの頬をやさしく撫でると、彼は言いました。


「――あなたのことなら、なんでも受け止めてみせる」


 どうして。


(どうして、そんなに優しいの……)


 そんな顔をされたら切なくなる。抱きついて甘えて、わがままを言ってしまいたくなる。


 抱き寄せられるまま、わたくしは彼にすがりました。あやすように背中を撫でられると、鼻の奥から何かがこみあげてきました。


 騎士はまるでわたくしの顔を隠すかのように――

 わたくしの頭を、胸に抱き込んで。


「心配はいらん。ここ・・も、あなたの場所だ、アルテナ」


 さらりと髪を撫でられた感触がしました。

 わたくしの背中にのしかかる見えない何かを、すべて流してしまおうとするかのように。


 たぶん――


 わたくしはこの夜、彼がこの部屋に忍んできてくれることを、心のどこかで望んでいたのでしょう。

 そして、たぶん。

 もしもこのとき、彼がわたくしをベッドに誘ったなら……あれほど嫌がるふりをしておきながらわたくしは、けっきょく拒まなかったような気がするのです。


(不安を埋めたかった。他の大きな何かで)


 けれど彼はそうしない。ただ、わたくしを抱きしめてくれて。

 わたくし一人には重すぎた不安を、真っ向から消そうとしてくれる。


「ラケシス殿のことは必ず解決する。必ず」


 他ならぬ彼がそう言ってくれた、そのことが、どれほど嬉しかったか――

 

 わたくしは静かに泣きました。

 心に積もった何もかもを洗い流すように、泣きました。

 彼の腕の中は、この世界で一番安心できる場所でした。満天の星の輝きよりも、ずっと。

 

 そうして、知らずのうちにその揺籃の中で眠りに落ち……



 明くる朝。



 妙な圧迫感に、軽くうなりながら目を覚ましたわたくしは、目の前に見えた顔に心臓が止まりそうなほどびっくりしたのです。


「き――!」


 目覚めたら目の前に人の顔。それがこれほど衝撃的なことだと初めて知りました。

 錯乱したわたくしは、とっさにその相手を突き飛ばして――、


「……んあ?」


 しかしその体格のよさで少し転がっただけで済んだ相手は、ねぼけまなこでわたくしを振り返りました。


 朝の光が差し込む中、乱れた柔らかそうな金髪が白く輝いています。ぼんやりした夕日の瞳は、どことなく焦点が合っていません。


「どうした……まだ誰も呼びにきてない。寝よう」


 のそのそと近づいてくると、わたくしを抱き寄せて再び寝入ろうとする、彼。


「き――きし――」


 心臓が爆発しそうでした。彼は寝間着で、しかも本当に夏用なのか薄着なのです。家人のいたずらにそのまま甘んじたのでしょうか。寒いと文句を言っていたくせに意味が分かりません。


 体が密着すると、彼の熱さをじかに感じました。

 以前ベッドに押し倒されたときの記憶がまざまざと蘇り、体がカッと熱くなりました。それで、つい――


「いやああああああ!」


 本日二度目、騎士を思い切り突き飛ばしてしまったのです。


 胸に二度も突きを入れられても平気な顔の騎士は、覚醒するとぼさぼさの髪をなでつけながら笑いました。


「荒っぽい起こし方だなあ、巫女よ」

「……ごめんなさい……」


 わたくしは縮こまりました。人間、衝撃的すぎると何をするか自分でも分からないものなのですね。身をもって学びました。


 騎士は上機嫌そうににやりと笑い、


「照れたんだろう? とうとう俺と同衾することになって」

「……ッ!」

「いやあかわいかったぞ巫女の寝顔は。ときどき『ふにゃ』とか妙な寝言を言うところがまたかわいくて――のわっ!?」


 前言撤回! 久々発動、アレス様直伝騎士撃退術(つまりやっぱり突き飛ばし)。


 騎士はゆっくりと後ろへと倒れて「のへあ」と変な声を上げました。


 わたくしは両手で顔を覆いました。羞恥で顔が消えてなくなってしまいそうです。ああ神よ――

 お願いですから彼の頭の中から昨夜の記憶を消してくださいっっっ!!!

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