もう、迷いません。―1
「王宮に許可なく侵入した、とのことです」
ウォルダートさんは淡々とそう述べました。「王宮の裏庭にいるところを、見回りの兵士が見つけたそうで」
「嘘!」
いつになく荒ぶった声が、わたくしの喉からはじき出されました。
ラケシスが、妹が王宮に侵入した? そんなはずは!
「お、王宮になど用はないはずです……! おまけに無断侵入だなんて!」
「落ち着け巫女。まだきっと我々の知らないことがある」
騎士の大きな手がわたくしの背中をぽんぽんと叩きます。
そのリズムがわたくしに冷静さを取り戻すチャンスをくれました。わたくしは大きく深呼吸をして、動揺を抑える努力をしました。
騎士の言う通り、知らないことがまだたくさんある。
院長先生のはからいで、今この孤児院の玄関にはわたくしたち三人しかいません。マリアンヌさんは昨日のうちに帰り、わたくしは今日、騎士につれられてこの孤児院を離れるはずでした。
騎士のお屋敷に戻るつもりだったのですが……、ウォルダートさんはそれを待たずに報告に来てくれたのです。
「未明の出来事と聞いております。サンミリオン町長殿のところにも、すでに知らせが走っているでしょう」
「他に情報はないのかウォルダート?」
騎士はわたくしの肩を抱きながら話を促しました。優秀な家人は、白髪のまじった眉を軽くひそめて、
「大変申し上げにくいことですが……ラケシス様には王太子暗殺の疑惑がかけられております。見つかったのが、王太子の部屋の真下だったそうです。捕らえられたときラケシス様は小ぶりの剣を携帯していらっしゃいました」
「な」
声が喉に貼り付いたように固まって、吐き出したくても何も出てきません。
嘘よ、うそ。そんなこと、あるはずがない。
王太子暗殺だなんて、ラケシスがそんなことを考えるはずが――。
「――絶対にありえません。何かの間違いです」
強ばった声で、ようやくそれだけを口にしました。
呼吸が浅くなり、動悸がします。こめかみがどんどんと痛くなってくる。
騎士はわたくしの肩を軽く撫でながら、思案するようにあごに手を当てました。
「巫女よ、ラケシス殿はレジスタンスと関わりを持ったことがあるか?」
「……っ、う、疑うのですか?」
「いいや。もしもレジスタンスと関わったことがあるのなら、ラケシス殿の立場がますます悪くなるという話だ」
「―――」
王権反対派――レジスタンス。この国にも小さくですが、そんな集まりが存在します。
特に近年は活動が活発化しているという話も聞きます。それらもすべて、現王太子が頼りないからだと――
そう、わたくしにそう教えてくれたのは、他ならぬラケシスだったのです。
「……直接には関わっていないはずです……。少なくとも、わたくしの知る限りでは」
「ふむ。関わりがないことを祈るしかないな」
騎士はあごから手を離し、「俺からも王宮に、よく調べるよう言っておこう。アレスも巻き込んでおくか――カイは放っておいても行動するだろうから」
安心しろ巫女よ、と騎士は強くわたくしの肩を抱き寄せました。まるで襲い来る不安の嵐からわたくしを守ろうとするかのように。
「即刻処刑されるようなことは決してさせない。王宮には弱みが多いからな」
そう言ってにんまりと笑った騎士。
……何をたくらんでいるのでしょうか。別の不安が襲ってきて、わたくしは小さくため息をつきました。
*
結局その後、わたくしは騎士の家で待機することとなりました。
サンミリオンの父母が心配でしたが、父母からすれば、へたにわたくしに出歩かれるよりもこうしたほうが安心のはずだと騎士に説得されたのです。
「俺の元にいることは報せておくから大丈夫だ。つらいだろうが、待機していてくれ」
わたくしは大人しくうなずきました。どれだけラケシスを思ったところで、わたくしにできることなどないのです。
「待っていろ。必ず本当のことを突き止めてくる」
そう言って騎士はわたくしを抱きしめたあと、供を連れてどこかへ出かけていきました。
騎士がいなくなるととたんに静まりかえるお屋敷。広すぎる居間には身の置き所がなく、自然と部屋に――騎士が用意してくれた〝わたくしの部屋〟に閉じこもることになってしまいます。
切り替えて他のことをしたほうがいい。そうは思っても、何ができるのか見当もつかなくて。
「お姉さん……!」
そんなわたくしをおとなう人が現れたのは、食の進まないお昼を終えて少しのころ。
「カイ様……?」
騎士の仲間であり、わたくしの友人でもあるカイ・ロックハート様が、気遣わしげな面持ちでわたくしの部屋を覗きました。
お一人ではありません。もう一人、後ろに女性がいます。はっと目が醒めるような、美しい女性――
「突然すみません。――あ、彼女はクラリスと言います。クラリス・ゲッテンベルグ。僕らの仲間の一人です」
その名に聞き覚えがありました。勇者さまご一行の一人、治療師のクラリス様。
わたくしが会釈をすると、クラリス様は涼やかな目元をすっと細めました。
「初めまして……。……あなたのことは、よくヴァイスやカイから聞いてる」
それはまるで、森の奥でひっそりと水を湛える湖のような声。
思わずクラリス様に見とれてしまいました。職業がいまいち分からないゆったりとしたローブで体の線を隠しています。長くつややかな黒髪はどこか神秘的で、彼女の存在感を淡くぼかすよう。
「……例の託宣の時点で興味深く思っていた。あのヴァイスをよく伴侶宣言したもの……」
「あ、あのときはわたくしの意思ではありませんっ」
今となっては説得力がありませんが。「――星の神の託宣です」
「……そう。星の神の託宣……。そこが重要」
託宣は外れない、と低く涼しげな声がゆっくりと言葉を紡ぎます。
「――私の占いと同じくらい外れない。託宣が本物なら、あなたはヴァイスの子を産むことになる……。ご愁傷様」
「クラリス!」
カイ様が慌てて間に割って入り、引きつった笑顔で取りなそうとしました。「す、すみませんお姉さん! ちょっとした冗談ですからっ」
冗談にしても、旅の仲間にまでそう言われてしまう騎士もたいがいです。
わたくしは二人を部屋へ招き入れました。使用人を呼び、椅子の数を増やしてもらってからお茶を出してくれるよう頼むと、
「あまり長居はしませんから」
カイ様はひたすら恐縮した様子で言いました。「お姉さんのご様子を見たかっただけです。大丈夫ですか?」
前髪に隠れかかった目が心配そうに覗いています。
わたくしはあいまいに笑いました。
「大丈夫です。まだ……最初以上に悪い報せはありませんし」
「……無理をしている顔」
「クラリス!――ええと、僕らも王宮には話をしたんです。ただその、――ラケシス様ご自身が、なぜ王宮に立ち入ったのかを黙秘していらっしゃるようで」
「え――?」
ラケシスが? なぜ黙秘する必要があるのでしょう。
自分のやりたいことがあるなら、例えまわりに責められようとも堂々と主張する。あの子はそういう子です。黙っているなど、らしくないこと。
「ラケシス様にもお考えがあるのでしょうが、このままでは王宮も強い手段をとらざるを得ません」
「強い手段……?」
「……拷問」
クラリス様の静かな言葉が、わたくしの体の芯をひやりと貫きました。
「そんな……!」
「ことは王太子の命……。暗殺目的だけは、否定したようだけれど」
クラリス様は細い指で、そっと唇を撫でました。「……まあ、あの軟弱王太子を手にかけて人生を棒に振ろうという勇気は賞賛に値する……」
「クラリス!!!」
――暗殺目的は否定した。その事実を知り、わたくしは心の中でほっと安堵の息をつきました。
少なくとも……否定したというのなら、わたくしは姉として、それを信じます。
「ラケシスは、本当は何をしたかったのでしょうか」
何気なく、疑問が口をついて出ました。
一番知りたい問い――分かるはずもない問い。
ラケシスに何か考えがあるのなら、わたくしはそれを知りたい。例え世間が妹を疑っても、わたくしだけは信じていたい。
「……これを見て」
ふと、クラリス様が服の中から何かを取り出しました。
なめらかな手つきでそれをわたくしの前に垂らします。糸の下でふりこのように振れているのは、きれいな水晶石……。
「……この水晶に映っている。この事件は、思いがけない結果で終わる」
「え……」
「よい結果か悪い結果かは分からない。あるいは、どちらにも取れる結果なのかもしれない」
窓から差し込む日を反射して、水晶がきらりと光ります。その向こうに、クラリス様の静かな翠の瞳。
「―――」
思わず、ぽかんとしてクラリス様と水晶を見つめてしまいました。カイ様が隣で苦笑して、
「実はクラリスは占い師なんです。治療師のかたわら町の路地で占っていまして」
「違う……。これが本業」
「……本業が占い師なんです。これでも百発百中で有名なんですよ」
「占い――」
急に思い出しました。王都の片隅で人々を占う謎の占い師。たいそう美しく、占い自体よりも彼女を目当てに通う客のほうが多いのだとか。
占いとは、わたくしたち修道女が星の神からたまわる託宣とは違った形で、未来やあらゆることを見抜く方法のことです。どの手法も突き詰めれば星の神の力を借りているとも言われますが……真実は誰にも分かりません。
クラリス様は水晶を手の中におさめ、涼しげな表情で言いました。
「焦ることはない……。全てはおさまるべきところにおさまる。やるべきことをちゃんとやるだけ」
「ほ、本当ですか」
「私の占いは外れない」
何なら、とクラリス様はじっとわたくしの目を見つめました。
「占いましょうか……。今ここで、あなたのことを」
それが当たれば、信じられるでしょう――と。翠の瞳はまるでわたくしのすべてを見抜こうとするように――。
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