恐くなどありませんから。―12

「行かないで」


 一瞬、騎士の動きが止まりました。

 まじまじとわたくしを見――そして、


「……巫女?」

「と、いうのがわたくしの気持ちです。……嘘はつきません」

「アルテナ」


 呆然と呼ぶ声。わたくしは苦笑しました。


「そんなに信じられませんか? わたくしが、喜んであなたを送り出すとでも?」

「いや――しかし、あなたなら国のほうが大切と言うかと」

「……たしかにそうも思います。同時にあるんです、二つの思いが」


 矛盾した心を抱えるなど、わたくしにとって珍しいことではありません。

 それがおかしいと思うわけじゃない。だって大切なものは十重二十重とえはたえにも重なっているものだから。


 ただ……実際には『ひとつ』を選ばなくては、先に進めなくなるだけ。

 ひとつを選ばなくては、進むべき道が複雑になるだけ。


「あなたが行くのを止めることはできないのでしょう。でもせめて、気持ちだけは伝えたくて」


 わがままが許されるなら、願うことはひとつきり。どうか行かないで。

 危険な旅へと彼を送り出すことを、国の誇りだと喜ぶことはもうできそうにないから。


「……知っていてくれるなら、あとはちゃんと、笑顔で見送りますから」


 わたくしが願ったくらいで――

 彼が、行くのをやめるとはとうてい思えませんでした。

 あるいは、だからこそ言えたのかもしれません。


 彼は嬉しそうな、けれど寂しそうな表情を浮かべました。わたくしに歩み寄り、


「……見送るだけか?」


 その手がおずおずと――彼らしくないほどおずおずとわたくしの頬に触れて。

 まるでわたくしが逃げないことをたしかめるかのようでした。そして、

 それからわたくしを強く――抱きしめて。


 額に口づけを落とし、彼はつぶやきました。


「俺のことが恐くなったのかと思った」

「恐く……?」

無理強むりじいしたことを怒っているんじゃないかと」

「―――」


(彼が……恐い?)


 自分の心を振り返ってみれば。

 子を成すことを迫られ、追い詰められたのは事実。一方的なやり方に反発したのも事実。


 でも――恐い?

 ……いいえ。


「あなたのことが恐いと思ったことは、一度もありません」


 そう、それが逃げた理由なんかじゃない。原因はもっとちっぽけなこと。

 ……ちっぽけだけど、消えない痛み。


 でもそれを憂えている場合ではないのです。まっすぐな彼には、まっすぐに向き合わなくては。


「あなたは、王女様に……その、エリシャヴェーラ様に、求婚されているのですね?」


 言った瞬間、彼の体がこわばったのが分かりました。


「……どこで知ったんだ?」

「ま、町の噂になっていますから」

「噂……噂か。そうだろうなあ」


 酒場の連中もからかってくるし、と騎士はうつろな声音でぼやきます。


「王女様と結婚する気はないのですね?」


 わたくしは勇気を出して彼の顔を見つめました。どうか、どうか本当のことを教えて。


 騎士は――これ以上ないほど情けない顔をして、


「あるわけがない。勘弁してくれ、本当に困っているんだ」


 ……ここまでは、町の噂でも言われていたこと。では……


「それでは――」


 こくりと喉が鳴りました。緊張でこめかみがうずくのを、わたくしは気づかないふりをしてやり過ごしました。


「王女様から逃げるためにわたくしを利用したという噂は?」


 ――数秒の、間。


 おもむろに体を離した彼の表情が、見る間にぽかんとしたものに変わっていきます。意味が分からないと言いたげな。


「――なんだって? 俺が王女から逃げるために……」

「託宣を口実にして、わたくしに近づいたという噂があるんです」

「………………冗談だろう?」


 ぼそりと、その一言だけ。


 彼らしくない、あまりにもあっけにとられた様子で。


 それを見て――

 わたくしの全身から、緊張がするりと抜けていきました。


 代わりに広がったのは、心からの安堵……


(……大丈夫。嘘じゃない)


 いえ、本当は彼の嘘を見抜く自信などありません。ただ信じたかっただけなのかもしれません。


 それでも。

 ――信じられると、思えたから。


「わ、わたくしがその噂を知ったのはついさっきなのですけれど。王女様の名前が出たときにあなたが動揺していた気がして」


 少しだけ声を明るくして続けました。そもそも自分はなぜ彼を疑ったのか、それも説明しなくては公平ではありません。


「……動揺するということは……後ろめたいことがあるのかもしれないと、思ってしまって」


 正直なところ、今でもその疑問はあるのです。わたくしの前で王女の名前が出るのを、この人は嫌がっている。

 たぶん、それは気のせいではなかったはずです。


 王女様と結婚する気がなく――わたくしを利用しているのでもないのなら、もっと堂々としていればいいだけなのに。


「疑ってしまってごめんなさい」


 できるだけ深刻になりすぎないように言いながら、そっと騎士の表情をうかがいます。

 騎士はなぜか、感極まったような顔をしました。


「巫女! それが分かるほど俺のことを見てくれるようになったんだな……!」

「あう」


 今までろくに向き合おうとしていなかったことを指摘された気がして、わたくしはうめきました。それを言われるとつらいです。


「で、ではそこは否定しないのですね」

「否定はできんな。あなたの前で姫の名前は出されたくなかった。まったくウォルダートめ、気が利かん」


 わざとやっているのではあるまいなヤツは家に帰ったらみていろ、などと毒づいた騎士は、わたくしの視線に気づいてこほんと咳払いをしました。


「――実は先日、王宮に乗り込んでしまってな」

「え……」

「思い切り姫を怒鳴りつけてしまった。臣下たちの前で」


 そう言って頭をかく騎士。

 わたくしは目を丸くしました。


「お、王女様を叱ったのですか……?」


 いくら騎士が英雄とはいえ、とんでもない話です。おまけに臣下の前でだなんて、姫の体面はどうなるのでしょう。


 騎士はふてくされたように唇をとがらせました。


「だってそうだろう。あなたに対する仕打ちはしゃれにならんぞ? 俺が止めるしかないと思って」

「――気づいていたのですか」

「カイの様子があまりにおかしかったんでな、問い詰めた」


 騎士に迫られあわてふためくカイ様の様子が目に浮かびます。ああカイ様、気苦労をかけてごめんなさい。


 後悔などしていない。騎士はきっぱりと言いました。


「していないが……あなたは絶対に怒るだろうと思った」


 急に肩を落として、「だから、知られたくなかった。……すまん」


 しゅんと目をふせる彼――今まで見たこともないほど神妙に。


(わたくしに怒られるのがいやで……姫様の名前に動揺していたの?)


 まさか。そんな理由で。

 ……本当に、そんな理由で。


(全部、わたくしの早とちりだった――)


 ああ。

 一瞬で、世界の色が変わるようでした。わたくしの不安に思ったようなことは、どこにもなかったです。


(どうして信じられなかったの)


 今となっては不思議でしかたない。そんな自分の現金ささえ、今はただ嬉しい。

 ……それにしても。


(まさかわたくしに叱られるのを嫌がっていただなんて)


 夢にも思いませんでした。そもそも彼に対して怒ったことなど今までに一度や二度ではないのです。彼がそれを気にしているように思えたこともなかった。それなのに――。


 彼らしくない。いえ、これも彼の一面。

 呆れるような、嬉しいような、ふしぎな気持ち。


(本当に)


 知らず、笑いがこみあげてきました。


「巫女?」


 きょとんとする騎士。そんな彼の表情、仕草。――信じられる。


 やっぱり聞いてみてよかった。最初からちゃんと話せばよかった。でもこうして取り返せた。その幸運に心から感謝して。


『あなたはあの男が唯一まともに向き合う気になった、恵まれた女なのよ』


(はい……マリアンヌさん)


 聞けば答えてくれる。ただそれだけのことがどれほど恵まれたことなのか、今なら分かる。

 自分は恵まれている。そのことを見失ったりしないように。




 わたくしは自ら彼に抱きつき、背伸びをして騎士に口づけしました。


 どこかから院長先生の痛い視線が飛んでくるような錯覚を起こしましたが、ああごめんなさい、今だけ許して。


「アルテナ――」


 騎士はすぐに口づけを返してくれました。力強い腕が、苦しいほどにわたくしを抱きしめ、浮ついたわたくしの心ごと捕らえて放しません。


 身も心もとろけそうな時間。彼を知れば知るほど好きになる。無神経で適当な彼の性格が、直ったわけではないはずなのに。


 深く知れば、こんなにも変わるものがある。


「……ヴァイス様。旅に出る前に、この孤児院の子と遊んであげてくれませんか」

「ここやつらと? 俺でいいのか?」

「アレス様たちも一緒だとなおいいです。でも、あなたのことを一番知ってもらいたいから」

「うん、いや、俺は構わんのだが――」


 俺が来るのを嫌がる孤児院もあってな、と騎士は苦渋のしわを眉間に刻みました。


「以前……子どもたちを泣かせたことがある」

「大丈夫ですよ。あなたは恐い人ではありません」

「そうか?」


 わたくしは笑顔でうなずきました。


 例えば最初にこの目で見たものが、人型や獣型の魔物を斬る騎士だったなら……今とは違うことを思っていたのかもしれません。


 けれど、わたくしが見たものはそうではなかった。そしてこの先何を見ようとも、心が揺らぐ気がしないのです。


 彼のことを、少しは知っているこの先の未来なら。


 ……これもめぐりあわせなのでしょう。だったらその幸運を、わたくしは決して手放したくない。


 騎士の吐息が唇に触れました。

 至近距離で見る夕焼けの瞳。……そんなに切なそうな顔をしないで。


「あなたを早く俺のものにしたい。割と頻繁にその衝動に負けそうなんだが、恐くないのか?」

「……聞かないでください、そんなこと」


 ――彼を受け入れること。子どもを作ること。


 その覚悟ができているのかと言われたら、実のところ、まだ少し時間が足りないのですが――。

 ひとつだけ、分かっていることがあるのです。


「恐くなどありませんから。ただ……も、もう少しゆっくりで、お願いしますね」


 迷っているのは、修道女としての自分を失うのが恐かったから。

 ――彼自身が恐かったわけでは、ないのだから。


 事実彼の出立が近いと分かった今、心は傾いているのです。もう全部彼に投げ出してしまおうか――。


 何もないまま離れてしまうよりも、いっそ。


「ゆっくりならいいのかアルテナ!?」

「こ、ここで触ろうとしないでっ!」




 その日、院長先生のご厚意で騎士も夕食を一緒に食べることになり――


 ありがたいことに子どもたちは大喜びで、結局騎士もわたくしとともに、この孤児院に泊まることになりました。


 ――元々英雄の姿に熱狂していた子はもちろん、凱旋式で泣いてしまったはずの子どもさえ騎士になついてくれた。子どもたちの柔軟性を、院長先生は笑って受け止めました。


「やっぱり行かせてもいいかもしれないね、出立式に」


 凱旋式で、真に傷ついた子どもがいないわけではない。でも悪いことばかりではないのなら。

 その可能性に賭けてみてもいい――と。




 思い切ってみれば、よい方向で前に進めることもある。

 変化に富んだ子どもたちを見るにつけ、不安は解放されていきました。


(修道女を卒業しても……納得できる道があるかもしれない)


 勇者様たちの出立までに、騎士と生きる道のことを、もっと真剣に考えてみよう。迷えることさえ、今は幸福に感じるのだから。


 未来は思うよりずっと、明るいのかもしれない――。




「――え?」


 騎士の家人がミラエル孤児院にまでやってきたのは、その翌日早朝のこと。


「何だと? もう一度言え、ウォルダート!」


 騎士がいつになく真剣に迫ります。

 わたくしはその後ろで硬直していました。なに、――。


 ウォルダートさんは折り目正しく礼をすると、もう一度事態を報告しました。


「出立式は延期になるようです。ラケシス・リリーフォンス様が王宮にて捕らえられました」

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