恐くなどありませんから。―9

 マリアンヌさんは本当に憤ってくださっているようでした。そのことに、わたくしの胸がちくりと痛みました。


「違うんです……わたくしが勝手に飛び出してきてしまって」

「どういうこと?」

「………」


 言葉に詰まるわたくしを見て、マリアンヌさんが片眉を上げます。

 何かを言いたげに唇を動かした彼女ですが、やがてその唇からは盛大なため息だけが漏れました。


「……もう少しいったところに馬車を待たせているの。乗せてあげるわ。行くあてはある?」


 無言を返したわたくしに「それじゃあ」と彼女は快活な笑みを浮かべます。


「これから私の行くところに一緒についてらっしゃいな。大丈夫、顔を見られてもいいところよ」




 お得意様にお酒などの飲み物を運び込むのがマリアンヌさんの毎日のお仕事だそうです。今日は目的地が比較的遠方なうえ、雨が降っているので馬車を使っているとのこと。


「馬車は高いから滅多に使わないのだけどね。今日はちょうど良かったわね」


 荷物からタオルを取り出し、自分の体だけでなくわたくしの体まで拭いてくれたマリアンヌさんは、ついでに乱れていたわたくしの髪を整えてくれました。どうやら根っから身なりを気にする人のようです。


 馬車がゆっくり走り出します。静かに回る車輪の音に、まとわるつくように混じる水音。当分雨は止みそうにありません。


「で、どうしてあの男の家を飛び出してきたりしたの。またあの男が無神経なことでもした?」


 、というところがミソです。わたくしは苦笑しました。


「いいえ。そういうことではなくて……」

「それじゃあどうして?」

「……わたくしが、嫉妬してしまって」


 そう――結局そうなのです。

 言ってしまってから、わたくしはそれを心の中で認めました。


 嫉妬している。王女エリシャヴェーラ様に。

 どう考えても、もうそれしか結論はありません。


 わたくしは「騎士と王女様にまつわる噂を知っているか」とマリアンヌさんに尋ねました。

 マリアンヌさんは奇妙に唇を歪めました。


「あの馬鹿馬鹿しい噂ね」

「馬鹿馬鹿しい……」

「そりゃあそうでしょう。まさかあなた、あれを信じているの?」


 言われて、わたくしは詰まりました。

 信じるわけがないと言い切りたかった。特にマリアンヌさんの前では。

 でも――。


「……信じたつもりはなかったんです。でも、心がついていかなくなって」


 正直にそう告げました。

 マリアンヌさんは、思いがけず「そう」と優しい声音で言いました。


「そんなこともあるわよね」


 マリアンヌさん――。


 わたくしは彼女をまっすぐ見つめます。けぶるような長いまつげが澄んだブルーの瞳を飾っていて、今は考え深げに伏せられています。


 通った鼻梁びりょうは意思の強さを示すようで、引き締まった唇は固い志を表すよう。わたくしなどより何倍も何倍も魅力にあふれた人なのは間違いありません。


(……この人も、かつて騎士を好きだった)


 いいえ、たぶん今も。騎士を前にした彼女の様子――そしてわたくしに対する彼女を見ていると、そう思います。


 恋敵であるはずなのに。

 それなのにマリアンヌさんはわたくしに優しくて。


 ――そのことが、なおさらつらい。


 しばらく雨粒がほろを叩く音だけが響きました。ほとほとと鳴る音の間に、居場所を見失ったわたくしの不安がころころと転がっています。


「アルテナ。あなたは、ヴァイスとちゃんと話をしたの」


 マリアンヌさんは目を上げました。

 澄み切った青。あまりの美しさに、目をそらすことができません。


「いえ……」

「話をする前に逃げ出してきたわけね」

「………」


 優しげな響きなのに、刺すような鋭さ。答えることができない。

 マリアンヌさんはじっとわたくしを見つめ、


「あの男相手じゃ話をするだけでもそうそううまくいかないのは分かるけれど。でもね、これだけは自覚なさい。――あなたはあの男が唯一まともに向き合う気になった、恵まれた女なのよ」


「向き合う……気に」


 雨の音が遠くなる。マリアンヌさんの声しか聞こえなくなる。


 頭の片隅に騎士の顔がちらついています。王女の名を聞いて、動揺した彼の様子。


 ……逃げ出さずに話を聞いていれば、何かが違った?


 馬車ががたんと石に当たって揺れました。わたくしは、はっとして固くなっていた呼吸を緩めました。


 マリアンヌさんが視線を窓外に向けました。


「もうすぐ着くわ」


 つられてわたくしも窓の外を見ます。人の少ない街角。わたくしには見覚えのない景色に、雨がしょうしょうと降りしきる――。


「どこへ?」


 今さらながら尋ねると、マリアンヌさんは楽しげに口元を微笑ませました。


「孤児院よ」




 聖ミラエル孤児院――。


 都郊外にぽつんと存在する、小さな施設です。わたくしも名前は聞いたことがありますが、実際にここへ来たことはありませんでした。


 というのも、ここは以前から修道院の手を拒み続けてきたのです。


「だってねえ、めんどくさいのさ修道院のお偉方と話すのは」


 仮にも修道服を着ているわたくしの目の前で、その女性はそう言ってあごをそらしました。


「タダで手伝いに来てくれるのはいーけど、あのカタッ苦しい態度はどうにかなんないのかね。なんせ時候の挨拶、そうあれあれ、あれもう催眠術の域だろ何度寝るの我慢したことか――」


「言い過ぎよ院長」


 マリアンヌさんが呆れた様子で腰に手を当てました。その視線を受け、三十代ほどの女性――院長様は「けっ」とわたくしから顔をそらしました。


「だからあんたのことだってよそに言ったりはしないさ。そんな面倒くさいこと」

「―――」


 わたくしはようやく動揺から立ち直り、笑顔を作りました。「ありがとうございます」と頭を下げると、「そーゆートコロがいらないんだよッ!」と院長様はべしべしテーブルを叩きました。わたくしはひえっと肩をすぼませ、そそくさとマリアンヌさんの陰へ移りました。


 波打つ黒髪も迫力のある院長様。お名前はリーデル様とおっしゃるようですが、誰一人その名では呼んでいません。馬車の中でマリアンヌさんが話してくれたところによると、元は孤児で、この聖ミラエル孤児院の先代院長に拾われたとのことでした。その先代様がお亡くなりになったのは半年前だそうです。


 この孤児院を作ったのは先代様です。聖とつくからには星の神をたたえているのは間違いありませんが、修道院とのつながりは一切ってきたのです。理由までは、わたくしには分かりませんが……。


「まったく。マリアンヌ、面倒なのを連れてきたねぇ。こちとら忙しいンだよ」


 ぶつぶつと言うその動作も態度も横柄ではありますが、軽やかに動く腕や指先はしなやかで美しく、瞳はふしぎと力強い活力に満ちています。マリアンヌさんとは違った意味で目を奪われる御方おかたです。


 何より――


「院長せんせ、このジュースおいしい!」


 マリアンヌさんが持ち込んだ飲み物を片手にはしゃぐ子どもたちの頭を、「そーか良かったね」と片手でぐりぐり撫でる院長様の表情は、慈愛に満ちていました。


 まるで、そう、わたくしの憧れたアンナ様のよう。


 そもそもここは院長室なのですが、客がいようと扉は開きっぱなしで、ひっきりなしに子どもが入ってきます。そう言った垣根のなさに、わたくしは感じりました。


「忙しいと思ったから連れてきたの。この子にも何かやらせてあげてよ」


 とマリアンヌさん。


 院長様はわたくしをじろりとにらみます。

 わたくしは負けじと院長様を見つめます。


「何でもやります。お手伝いさせてください」


 子どもの相手は大好きです――そう言うと、院長様は鼻を鳴らしました。鋭い眼光が、きらりとわたくしを射貫いぬくよう。


「あんたがどんな都合でここへ時間つぶしに来てるかは、あたしにとってはどーでもいいから聞かないけどね。ひとつ言っとくよ――子どもらの前では子どもらのことを第一に考えな。他ごとで散漫になっているサマってのはね、子どもはすぐに気づくんだ」


 胸をつかれるような一瞬。

 わたくしがはっと息を呑むと、ずっと椅子に座っていた院長様はさっと立ち上がりました。


「どんな事情であれここに来たからには役に立ってもらうよ。ほら、みんな! 今日はこのお姉さんが遊んでくれるってさ!」


 途端に子どもたちがわあっと歓声を上げました。一斉にわたくしに群がり、「あっち行って遊ぼう!」と院長室から引っ張り出そうとする――


「行ってきなさいな。私はちょっと、やることがあるから」


 マリアンヌさんが手をひらひらと振りました。

 わたくしは彼女と院長様に頭を下げ、子どもたちに引かれるまま彼らの楽園へと足を向けました。




 子どもたちに連れて行かれた部屋は、手作りの玩具が転がる小さな部屋でした。ここに子どもが十数人も入ると狭いほどですが、子どもたちは気にした様子もありません。


 彼らは元気で、陽気でした。よく笑う子どもたちです。幼い子の面倒も年長の子がちゃんと見てくれます。一体感のようなものが、全体にふんわりと漂っていました。


 とは言え、この雨で屋内に閉じこもっているため活力があり余っているのでしょう。

 喧嘩も絶えませんが、わたくしだってこの二年修道院で施設回りのお勤めをしてきた身。そのくらいでへこたれたりはしません。


「ねえねえお姉さん、どうしておっぱいがないの?」


 ……へこたれたり、しません。


 どうしても手に負えない騒ぎになったときには、その音を聞きつけた院長先生がやってきて、鬼のような形相で一喝――。


 子どもたちはぴたりと鎮まり、数分後にはまた軽やかに動き出すのです。


 よく泣き、よく怒り、よく笑う、めまぐるしい彼らの感情に、わたくしは知らず知らず呑み込まれていきました。


 外は大雨。けれどその雨音さえ聞こえないほどに、夢中。

 冷え切っていた心が暖まっていく。閉ざされていた目が徐々に開いてく。


(……他ごとを考えていてはみんなが気づく……)


『ここでは、子どもたちのことを第一に考えて』


 院長先生のお言葉を思うたび、ひりひりと胸の奥がうずきました。


 それはつまり、何かから逃れるための方便に、子どもたちを使うなということなのでしょう。意識してそんな口実にしようと思ったわけではなかったのですが、何も知らないはずの院長先生はわたくしの心を的確に見抜いていたようです。


 一目で分かるほどに、ひどい顔をしていたのでしょうか。

 ……そうかもしれません。自分でも思いがけないほどに、わたくしは騎士のことで落ち込んでいた――。


 でも。


 子どもたちと向き合うことに夢中になるひとときがあって、そのさなかにふっと騎士のことを思い出すと、見えてくるものがまったく違いました。


 彼はあのとき、姫の名前にたしかに動揺した。それ自体は変わっていないのに。


 ……今はただ、『その理由』を知りたい――と。

 それだけを、強く。

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