恐くなどありませんから。―8

 雨のそぼ降る屋外――。


 腕で顔をかばいながら空を見上げれば、先の見えない灰色の雲が広がっていました。


 わたくしはやみくもに曇天の下へと飛び出しました。ずぶ濡れになることなどお構いなしでした。そんなことよりも、一刻も早くこのお屋敷を離れたかった。


 ――彼が追ってこない、その事実から逃げ出したかった。


 ふらふらと足を踏み出したとき、遠くから馬車の音が聞こえてきました。泥水を跳ね飛ばす音が徐々に近づいてきます。わたくしは焦りました――表からは出て行けない。




 次に気づいたときには、お屋敷の裏を抜け、一人で裏道を放浪していました。


 まったく知らない土地です。おまけに来たときとは違う道に入ってしまったので、もはやまわりが異世界にしか見えません。


 どうやらこのあたりは別荘地のようです。建物と建物の間が広く、そこに住む人々の精神的余裕を表すようでした。


 家畜を屋内へ移動させようとする使用人さんの姿がときおり見える以外は、ほとんど人がいません。


 雨にかすむ別荘地は灰色がかって、外にいる人の少なさをいっそう際立たせます。


 それでも建物の中にいる人々は温かく団らんしているのでしょう。そう思うと、しずくの冷たさが身に沁みました。




 雨宿りのできる場所を探さなければ――。


(たぶんこっちの方角から来たはず……)


 頼りない記憶を支えに歩き続けました。


 やがて建物の数が増えていき、わたくしの心に希望がさしてきました。見覚えのない場所には違いありませんが、雨宿りする場所なら見つかりそうです。


 顔からしたたる水を腕で拭い、道のひとつに入りました。

 真っ先に目にとまったのは宿の文字。


 大喜びで戸を叩きました。開けてくれたのは優しげな顔立ちの年配の女性。ずぶ濡れのわたくしを見て、「まあまあ」と心配そうな顔をします。


「若い娘さんが何をしているの。今タオルを持ってくるからね」


 宿の中に招き入れられ、大きなタオルで豪快に顔や髪を拭かれます。わたくしの胸にはほんわりとした火が灯り、女将さんの手が触れるたび、内側から暖まるようです。


 けれど――。


「おや」


 丁寧に髪にブラシを入れてくれていた女将さんが、ふとまじまじとわたくしの顔を見ました。


「あなた、ひょっとして……星の巫女の?」

「………!」


 わたくしはさっと顔を伏せました。

 もうお化粧はしていないのです。まさかこんなところに顔を知っている人がいるなんて。


 妙な緊張感が、わたくしと女将さんの間に横たわりました。


 視界の端に見えていました。女将さんは困っているような、でも好奇心を抑えきれないような、そんな顔をしたのです。


「ど――どうしてわたくしの顔を?」


 思わずそういてしまいました。


 変装をする、と言われたとき、わたくしはてっきり、普段からわたくしを知っている人から隠れるためだと思ったのです。


 それ以外の一般の方が顔を知っている可能性なんて、考えていませんでした。星祭りは衆人環視の中で行われますが、輪の中央に近い人は身分の高い人で固められており、民は遠いはずなのです。それなのに――。


 女将さんは、「何を当然のことを」とでも言いたげに首をかしげました。


「そりゃあ知っているわ。星の巫女は似姿が出回るもの」

「似姿……」

「隣の家のヴィッキ坊ちゃんなんか、代々の星の巫女の似姿や似顔絵を集めるのが趣味よ。……星の巫女なのに知らなかったの?」


 愕然としました。絵のモデルになった記憶などありません。


 知らないところで、色んなことが進行している――。

 いくら行動範囲がほとんど限られていたとはいえ、わたくしはこんなにも、都の人々のことを知らずにいたのでしょうか。


 言葉を失ったわたくしを女将さんはうかがうようにじっと見て、


「ええと……そうだ、ヴァイス様のお宅はここからそう遠くないよ。連絡を入れようか」


 彼女は完全に親切のつもりで言ったのでしょう。ですが――。

 わたくしは反射的に強く首を振りました。


「いいえ、それは結構です……!」


 すると、ますます好奇心にきらめく瞳にぶつかりました。


「ヴァイス様から逃げているというのは本当なのね。いったいどうして? もったいない」

「………」


 何とも答えられずに口をつぐんでいると、女将さんは何かを思い出したように手を打ち、


「そうそう、託宣を取り消させたのはあなたが王宮に頼み込んだことだっていうのは本当なの?」

「は……?」

「とにかくヴァイス様と一緒になりたくないからとか――あ、それともこっちの噂が本当なの? ヴァイス様は元々王女様から逃げるために託宣に食いついたけど、あなたと結婚する気もないから頃合いを見て託宣を取り消させたって――」

「……!!」


 ひゅ、と喉が細く鳴りました。呼吸の仕方が、完全に分からなくなる数瞬。


「あらでも、ヴァイス様は今でもあなたを追いかけているのだっけ。いったいどれが本当のことなの? ねえ?」


 人の好さそうに見えた女性がきらきらと輝く目でわたくしに顔を近づけます。他人に対する興味とは、こうも人の印象を変えるものでしょうか。


 きりきりと、胃がしぼられるように痛みが走りました。ああ――だから変装は必要だったのです。


 何も考えずにあのお屋敷を飛び出してきてしまった。何てうかつだったのでしょう?


「――ぜ、全部、根も葉もないことです」


 やっとの思いでそれだけを吐き出しました。親切に体を拭いてくれたこの人の質問を、むげにするのはためらわれました。


 女将さんは不満そうに唇を突き出し、


「そう? でも火のないところに煙は立たないものよ。どこかに事実があるでしょう?」

「………」


 事実。それらの噂に事実が含まれているというのなら、わたくしのほうが知りたい。


 騎士が王女殿下から逃げるためにわたくしに言い寄った。それだけでは飽き足らず、託宣を取り消させたのも彼。そんな噂があるだなんて。


 ――自分の目で見てきた彼を信じるなら、どれもこれも一笑いっしょうすことのできる、つまらない噂です。


 でも……女将さんの言う通り、火のないところに煙は立たないもの。


 この噂のどこかにも、真実があるのでしょうか。そう思うと、体の芯がひやりと冷えるのです。


(信じると決めたのに)


 それなのに、簡単に逃げ出してきてしまった。

 今も、不信に揺れている。


 わたくしは唇を噛みました。ああ、力の緩め方を忘れた胸が悲鳴を上げている――。




 女将さんはやはり親切でした。あくまでわたくしを泊めてくれようとしました。

 けれどわたくしには、それ以上彼女の視線にさらされる元気がありませんでした。


 泊まっていって、いいえ失礼します、と押し問答をしていたそのとき、宿のドアが開きました。


「こんにちは、蜂蜜酒のお届けに……」


 言いかけた挨拶が途中で止まります。

 新しく入ってきた人物の視線が、わたくしの上でまっていました。目を丸くし、そして――次には眉をつりあげて。


「何をしているの! どうして化粧を落としたのよ……!」

「マ、マリアンヌさん……」


 変装のためのお化粧をほどこしてくれたマリアンヌさん。腕に大きめの酒瓶を抱え、雨よけのフードを下ろしながらつかつかとこちらへやってくると、女将さんとわたくしを交互に見ます。


「女将さん。この子が何か?」

「ああ、あなたも知ってるの? この巫女様、雨の中ずぶ濡れでいたからね、泊めようと思っているんだけどいいっていうのよ」

「ずぶ濡れ――」

「あなたからも大人しく泊まるように言ってやってよマリアンヌ。そろそろ暗くなり始めるし、明日帰ればいいじゃない」


 わたくしは焦ってマリアンヌさんに目で訴えかけました。

 女将さんはたしかに親切です。ただその親切の中に、それ以上の『好奇心』が隠せていないのです。


 もしも泊まったならきっと質問攻めにされる。わたくしにはとても耐えられそうにありません。


 マリアンヌさんは――、


「……いいえ女将さん。この子はうちで預かるわ」


 と、女将さんに向き直り、にっこりと微笑みました。


「でもマリアンヌ」

「この子知らない人の前ではひどく緊張するみたいなのよ。修行が足りないとは思うけど、許してあげて」


 言いながら女将さんに「はいこれ」と酒瓶を押しつけ、


「それじゃあこの子の世話をしてくれたお礼に、今回のこのお酒のお代はいただかない。本当にありがとう」

「いいの?」


 女将さんの顔が嬉しそうに笑みほころびました。


 それからもマリアンヌさんは巧みな話術で女将さんを説得し、結局わたくしは彼女について外に出ることになったのです。




 雨よけのマントは宿の女将さんが貸してくださいました。返すのは、マリアンヌさんが引き受けてくださるそうです。


「まったくもう。こんなところで何をほっつき歩いているのあなたは」


 宿のドアを閉めるなり、マリアンヌさんは腰に手を当てました。「どうして化粧を落としたの。何の意味もないじゃないの」


「ごめんなさい……」


 わたくしは化粧を騎士の家で落としたこと、騎士の家に来客があるので出てきたことを話しました。


 マリアンヌさんはますます柳眉をつり上げました。


「来客? 来客ごときで雨の中にあなたを叩き出したの、あの男は」

「ち、違うんです。その、来客は王女様の関係者だそうで」

「王女……エリシャヴェーラ様の? ああ」


 合点がてんがいったのか、ため息をついた彼女は「でもねえ」と渋い顔。


「だからって、何もこんな天気のときにあなたをこんな目に遭わせる必要ないじゃない」

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