恐くなどありませんから。―7
やがていつになく抑えたトーンの声が、そのことを告げました。
「アルテナ。俺はじきに魔王討伐に出る」
「……っ」
一瞬にして体から熱が消えました。代わりに強くなった鼓動が、痛いほど胸の奥に響いています。
「今、王宮が必死になって魔王の現れる前兆を探してる。それが見つかり次第、俺たちは王都を出る」
――半年以内。シェーラの託宣は、そう告げたはずです。
ということは騎士は、遅くとも半年後には、王都を出て行くことになる――。
一度も王都に帰ってこないわけじゃないが、と彼はため息とともに言いました。
「魔王がどこに現れるかによる。遠ければ、王都にはほとんど戻れないだろうな」
「……ヴァイス様」
騎士は少しだけ体を離し、わたくしの目をじっと見つめ、
「だから、頼みがある」
「え?」
ふいに。
体がぽんと押されました。わたくしは訳も分からず背後へ倒れ込みました。そこにあったのは、大きすぎるベッド――。
きしむ音さえ聞こえない上等なベッド。深く体が沈み込み、驚くわたくしの頭上に人影が落ちます。
騎士はわたくしの上に覆い被さり、顔を近づけました。夕焼け色の光が、わたくしの瞳に強く差し込みました。
「……俺が出て行くことになるその前に。俺と子を成してくれないか」
騎士の顔の向こう側に、白い天井がぼやけて見えました。
何かを言おうとして開いた唇を、騎士の唇がふさぎます。下唇を噛み、甘い刺激でわたくしの言葉を封じてしまう――。
やがてその奥へと入り込んできた熱を、わたくしは拒絶することができませんでした。舌をからめとられ、唾液がつうと伝わり――その熱さに驚いて呼吸を忘れたわたくしは、水をなくした魚のようにあえぎました。
「……、ぁ……っ」
吐息はやがて首筋に下りました。修道服の高い襟を指でずり下げ、あらわになった肌に吸いつかれると、触れられてはいけない場所に触れられたような気がして体の奥がじんとうずきます。
指先でわたくしの唇をなぞりながら、一方で顔をどんどんと下へ――。
彼の動きに反応して鼓動が強くなっていく。その音を聞かれるのが恐くて、わたくしは身をよじりました。
「待って……待って、お願い」
彼は顔を上げました。
わたくしに向けた視線が、寂しそうに揺れていました。
「……そんなに、俺が嫌いか?」
違う――。
わたくしは弾けるように声を返しました。
「いいえ! いいえ、わたくしは」
しかし、それ以上言葉が続きません。どうしても、大切な一言が言えない。
彼はわたくしの修道服の胸元にキスをしました。そして、
「俺にはどうしたらあなたが納得するのか分からん。だが分かってくれ、俺は遊びで言っているわけではないんだ。あなたとの子がほしい。魔王討伐にかかる時間を待ってなどいられるものか」
「―――」
騎士の大きな手が、修道服の上からわたくしの体をなでてゆきます。
冬の修道服です。布地はかなり厚いはずなのに――愛撫の感触はなぜか鮮明で。
優しく触れられている。そのことが鮮明で。
けれど、触れられれば触れられるほど体はこわばっていく。
彼の手がスカートの中へと侵入しようとしたとき、わたくしはとっさにその手を止めました。
「駄目……駄目、です。ヴァイス様」
その声が弱々しいことは自分で分かっていました。彼の昂ぶりを止めることなどとてもできそうにない――。
「……どうしても駄目か?」
そう言った彼の声ににじむ落胆の響きが、あまりにも強くわたくしの鼓膜を打ちました。
(……どうしても駄目?)
自分で自分に問うてみても、答が見つかりません。
いきなりすぎると思ってみても、はやる彼の気持ちは分かる気がして。
魔王の討伐に出る――。そのことの重みを考えたならば、わたくしのほうこそ恐ろしい。
彼が行ってしまうことが恐ろしい。
せめてその前に。彼のものになってしまえたらと、心のどこかで囁く自分もたしかにいる。
だけど彼を受け入れてしまったならその瞬間に、わたくしの夢は消える――。
夢が消えたその先で、わたくしはどう生きればいいの?
彼はじきに行ってしまうというのに。
「アルテナ?」
騎士が驚いた声を出して、わたくしの目元を指で拭いました。
いつの間に泣き出していたのでしょうか――
わたくしは騎士から顔をそらしました。こんな顔は見せたくなかったのに。
「すまん。恐かったか?」
おろおろと騎士は体を浮かせました。大丈夫か、悪かったと何度も聞こえる彼の声。
泣きたくなんかなかった。彼に罪悪感を抱かせることは目に見えていたから。
わたくしは腕で目を覆いました。
何かを言わなくてはと思ったとき、口をついて出たのは、とりとめのない疑問。
「……どうして、わたくしなのですか」
ずっとずっと、聞きたかったこと。
「どうしてわたくしなんか。もっと素敵な女性はいくらでもいるのに」
目を隠したまま。彼の顔を見ないまま。
思えば彼の求婚を拒絶した根本は、このことだったのかもしれません。
彼の気持ちを信用できなかったのは他ならない、理由が分からなかったから。
彼の気持ちを信用し始めてからはいっそうに、謎でしかなかったこと。
「―――」
騎士が、身動きしたのが気配で分かりました。
わたくしが目を隠すために顔に置いた手。その手に、あたたかな手が触れました。
つぶやきは、少し楽しげな響きさえはらんだもので。
「……本当に覚えていないんだなあ、あなたは」
「―――?」
「だが、それでいい。俺は俺としてあなたを手に入れると決めたんだ、アルテナ」
触れた手をぎゅっと握られ、隠していた顔から引きはがされ。
飛び込んできた騎士の顔。はっと息をのんだときには唇を奪われ、呼吸ごと翻弄されることになりました。
「待……っ、待って……っ」
わたくしは必死で抵抗しました。今の言葉の意味を聞きたかった、こんなことをしている場合じゃありません。
しかし騎士はやめようとしませんでした。もう一度わたくしの体を服の上から何度もなぞり、形をたしかめていきます。
「前から思っていたんだが、あなたは少し痩せすぎじゃないのか。やっぱり肉を食べたほうが」
「それはわたくしの勝手です! というかお肉は関係ありません!」
「そうか? 太ってくれても俺は一向に構わんぞ、子を産む体力もつくだろうしな。それにしても」
ぺたり、とわたくしの胸を触って一言。
「本当に、ないな」
「―――!!!」
わたくしの渾身の張り手はあえなく騎士の左手に止められてしまいました。
騎士はにこりと無邪気に笑って、
「いいじゃないか。たぶんこれから育つぞ? 俺は成長を楽しみにするのは好きだ」
子どもの成長みたいに言わないでください! わたくしはいい歳です、き、期待なんかしていません……っ!!!
「嫌いです! やっぱりあなたなんて嫌い!」
なりふり構わず抵抗するわたくし、それを笑いながらかわして抱きしめる騎士――。
「ああ、元気になったな。良かった」
「この、――」
「愛してる。笑っているあなたも怒っているあなたも真面目に悩んでいるあなたも、いつか全部俺のものになってくれ」
「―――」
「もちろんできれば今すぐのほうがいいが」
この人は――
どこまで本気で言っているのでしょう? いつだってふざけているようにしか見えないのに。
いまだ「好き」の一言さえ言えないわたくしを、愛情と夢を天秤にかけて答の出せないようなわたくしを、それでも愛しているというのでしょうか?
――ここまできて、「いつか」と猶予をくれるだなんて(その後に本音ももれていましたが)。
それはわたくしにとってあまりにも甘美なこと。
抵抗する気だったのに、もっともっと彼の言葉を聞きたくなる。もっと言ってほしくてたまらなくなる。
(わたくしはずるい)
一方的に愛情を甘受するだけでは駄目。こっちから、彼に伝えたいことは?
壁掛け時計が時間の経過を報せます。
夢から醒めたように、騎士が苦笑しました。
「このまま一緒に昼寝でもするか」
わたくしを抱きしめたままベッドに転がる騎士。間近からわたくしの顔を見つめる彼の夕焼けの瞳に、胸が切なくうずきました。
言わなくては。修道女の夢も子を成すことも置いておいて、今たったひとつの事実を言わなくては。
「あの……ヴァイス様」
「ん?」
「その……」
――わたくしは。
意を決して口を開いたそのとき。
ノックの音が聞こえました。
騎士が眉をひそめて体を起こしました。「邪魔をするなと言ってあったのに」ぶつぶつと文句を言ってから、「何だ!」と声をかけます。
わたくしは慌てて起き上がると騎士から離れ、乱れていた衣服を直しました。
ドアの外に立っていたのはウォルダートさんでした。うやうやしく頭を下げ、それから小首をかしげます。
「このまま申し上げても?」
どういう意味でしょうか。「構わん」と騎士がのっそり体を起こしながら言います。
「では申し上げますが――エリシャヴェーラ王女殿下からのお手紙です」
「………!」
わたくしは――。
その一瞬をはっきりと見ていました。
騎士が、明らかに動揺したのを。刹那にわたくしを見てから、目をそらしたのを。
騎士は立ち上がりました。そして、ウォルダートさんに向かって歩きながら「よこせ」と手を差し出しました。
そして受け取った手紙を開く彼――。
その背中を、わたくしはじっと見つめていました。
「………」
今の態度は、どういうこと――?
わたくしの胸に疑念の渦が巻き起こりました。
例の噂を、わたくしは信じないことに決めました。でもあの噂が根も葉もないものならば、なぜ彼は今動揺したのでしょう?
まさか――まさか本当に、
(王女様から逃げるためにわたくしに……?)
「……巫女」
騎士がくるりと振り向き、わたくしの元へ戻ってきます。
そして、言いづらそうに口を開きました。
「悪いが……この後この家に客人が来る。あなたはちょっと別のところへ移動してもらえるか」
それは。
それは王女に関する客が来るから、わたくしにこの家を出て行けということ。
『あなたの家だ』とまで言ったこの家を、出て行けということ……。
「―――」
冷静に考えれば、当然のことだったでしょう。今のわたくしが王宮の人物と顔を合わせるのはうまくありません。
ですがこのときはそんなことは考えていられなかった。ただ、この家を離れろと言われたことの意味だけを深く考えすぎてしまった。
一度始まってしまった思考は、止まらなかったのです。
「分かりました。出て行きます」
わたくしはすっくと立ち上がりました。そして迷わずドアの方向へと足早に歩き出しました。
「待て。変装せずに隠れられる場所を今手配する――」
「いりません」
「巫女?」
「このままで結構です!」
そうしてわたくしは駆け出しました。逃げるように廊下へと。
「巫女!」
背後から彼の声が追いかけてきます。磨き抜かれた家に彼の大きな声はよく響きました。しつこいほどに背中にまとわりついて消えません。
あるいは、わたくし自身が消えてほしくないと願ったのでしょうか――。
流れは変わってしまいました。家の玄関に向かって走っているうちに、わたくしの体から彼のぬくもりはすっかりなくなってしまい……、
途中すれ違った使用人たちも誰一人わたくしを止めません。
わたくしは一人きりで、家を飛び出したのです。
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