恐くなどありませんから。―6

 わたくしの部屋……?


 困惑するわたくしをよそに、ウォルダートさんが深くお辞儀をして扉を閉めます。

 部屋の中にはわたくしと騎士だけが残されました。


「どうだ。少しは気分が晴れたか?」

「あ……は、はい」


 そう言えば具合が悪いと思われていたのでした。勘違いが申し訳なくて、精一杯の笑顔を浮かべてみせます。


「とてもいいお湯でした。皆さん素敵な方々ですね――ありがとう」


 それなら良かったと騎士は楽しげに笑います。


「屋敷についてきた連中だが、愉快なやつらだろう? 俺が怪我をして帰ってくると大笑いするようなやつらだ」

「それは愉快の一言で済ませていいのですか?」

「深刻になられるよりずっといい。家族は笑顔が一番だからな」

「………」

「ただ、今のところ四人しか使用人はいない。家がもっとにぎやかなほうがよければ人数を手配するから遠慮なく言ってくれ」

「と、とんでもない」


 どちらかと言うと家は静かなほうが好みです。というか、わたくしの好みなど反映させていいのでしょうか?


 そろそろと視線を巡らせてみます。


 ――部屋に足を踏み入れた瞬間、すべては目に入ってきていました。

 けれど、信じられなかったのです。


「このお部屋……」

「あなたの部屋だ。巫女」


 騎士はもう一度、誇らしげに胸を張りました。

 わたくしは困惑とともに、何度も部屋を見渡しました。


 まるでサンミリオンのわたくしの部屋のようです。修道院の部屋ほど殺風景ではないものの――


 狭くはなく、広すぎもしないちょうどいい広さに、このお屋敷と同じ目に優しい壁色。調度品は必要最低限で、一目で高価だと分かるものの、どれも穏やかなデザインばかり。


 大きい窓のところに植物がひとつ置かれていました。外国の花でしょうか……優しい桃色の花です。


 そして――何よりこれがわたくしの目を奪ったのですが――空の本棚がいくつか。


 わたくしは思わずそれに触れに行ってしまいました。手触りとにおい。素朴な木棚です。時と場合を忘れてわくわくしてしまいます。修道院では欲しくても遠慮するしかなかった本棚――。


 この本棚に好きな本を並べたなら、何と素敵なことでしょう!


「気に入ったか?」


 騎士はわたくしのそばまでくると、わたくしと同じように本棚を撫でました。「勉強好きのあなたの部屋なら、本棚は欠かせないだろうと思ってな。もちろん書斎も別に作ってもいい」


 わたくしは思わず騎士を見上げました。あまりのことに、混乱して舌がもつれます。


「そ、そこまでしていただくわけには」

「何を遠慮してるんだ。ここはあなたの家になるんだぞ? 少しでも自分の住みよいようにするのがいい」

「わたくしの……家」


 つぶやいてみても現実味がありません。戸惑いだけがうずまく胸を抱えて、わたくしはしつこく部屋を見渡します。


 どこを見ても、わたくしの趣味に合わせたとしか思えない部屋。まばたきをしても消えることがありません。


「あなたが、手配してくださったのですか?」

「ああ」


 騎士は即答しました。それから、


「……まあ、アレスやらカイやらに散々叱られながら修正はしたがな」


 あごに手を当ててうなるように言います。


「最初は俺が留守でも寂しくないように俺の彫像を置こうと思ったんだが却下された。そんなむさ苦しいのはいらないと」

「………」

「では魔除けに熊の剥製を置こうかと言ったら却下された。巫女が恐がると」

「………」

「明るい色のほうが元気が出るかと思ったから本棚やテーブルを金塗りにしようと言ったら殴られた。お前は巫女をそんなに悪趣味に思っているのかと」

「………………」

「俺の趣味をなじられるのはともかく、巫女のことを理解していないと言われるのは悔しかったのでな。そこから必死で考えたんだ。最終的にはアレスもカイも黙った。当たっただろう?」


 そう言って、微笑んだ騎士。


 わたくしは胸がいっぱいになりました。この人は本気でわたくしを喜ばせようとしてくれた――。


 以前は、この人のやることなすこといちいち気に障ったものでした。わたくしを喜ばせようとしているらしいのに、どこか彼の考えを押し通すようなところがあって。


 ただ、時が経つにつれて彼は、わたくしの考え方を尊重するようにもなってくれました。


 強引すぎる人ですが、根っからわたくしの芯を潰そうとすることはなかった。いつからかわたくしもそのことに気づいて。


 この部屋は、その象徴。

 そう思うと胸にじんとした感動がしみていくのです。


 ……まあ、正式に結婚を決めていないのに部屋を用意している時点で、何かが間違っている気もするのですが。


(本当に素敵なお部屋)


 わたくしはほうとため息をつきました。

 静かに穏やかに暮らしたい人間にぴったりの空間がそこにあります。


 しいて言えばベッドだけが大きすぎます。二人寝ても広いほどで、騎士がそのベッドを選んだならばその理由はちょっと考えたくありません。


 ベッドから目をそらします。首の辺りが熱い。

 そして、ふとベッドの傍らの棚の上に、何かが載っていることに気づきました。


「あれは……?」

「ん?」


 わたくしはおそるおそる近づいて、顔を近づけてみました。

 整った部屋の中で、その棚の上だけが奇妙に浮いていました。そこにあったのは数々の土人形――


 動物や、花や、謎の生物(たぶん魔物でしょうか?)がいくつか。


 わたくしは首をかしげました。ソラさん……のものにしては、造りが少し雑です。彼女はああ見えて人形作りは非常に上手ですから。


 ここにあるものは、どちらかと言えば、一般の子どもたちが熱心に作ったもののような……


(それにしても……かわいい人形たち)


 造りはいびつで色塗りもところどころはみ出し、時には色がまざって不気味なことになっていますが、どれもこれも生き生きと明るい人形です。見ているだけで、顔がほころんできます。


 ひとつひとつ手に取って感触をたしかめていたわたくしは、やがて「あっ」と騎士を振り返りました。


「もしかして、騎士が作ったのですか?」


 彼が自分に贈ってくれたのかと――図々しいながらもそう思ってしまったのです。

 けれど、彼は首を振りました。


「俺じゃない。自慢じゃないが俺にはそんなまともなのは作れんぞ」

「……過去にどんなものを作りました?」

「作れなかった。何だか知らんが土人形が爆発してな。以来周りの人間が止める」


 何をやらかしてるんでしょうかこの人は。大人しく工作もできないのですか。


「ちなみに俺の一家は近所ではクラッシャー一家と呼ばれている。親父殿は爆破が好きだし、モラは台所に立たせると炎上するし、ソラはよく魔術を暴走させるし、ミミとリリは人間関係を破壊するプロだ。そして俺は〝場の空気を破壊する〟とよく言われる」

「………」

「おかげで俺の実家の周辺は人がいなくなった。寂れていたのを見ただろう?」

「………………」


 わたくしは思いました。この一家はひょっとして、英雄ではなく災厄なのではないでしょうか……。


 喋りながらわたくしの背後まで歩いてきた騎士は、わたくしと同じように棚の上の人形をのぞきこみます。


「それか。孤児院からもらったやつだな」

「孤児院……?」

「この間宝石ドラゴンの宝石をばらまいただろう。ほら、シェーラ殿の騒ぎがあった直前に」

「ああ――」


 そんなこともありました。宝石ドラゴンから手に入れた宝石を、この騎士は孤児院や救貧院に配ると言っていたのです。あのとき、初めてこの人に感動したことを覚えています。


 思えばあれが、この人がわたくしのために行動を変えてくれた最初のできごとなのかもしれません。


 騎士はうんうんとうなずきながら、


「その礼にもらった。あなたが喜ぶかと思ってこの部屋に置いてある」

「まあ――」


 わたくしは胸の前で手を組み合わせました。

 子どもたちからのお礼。そう思うと、人形たちが揃ってわたくしたちを見て嬉しげに笑っているように見えてきます。


「本当に素晴らしいです。騎士よ……!」


 はしゃぎたいような気持ちでした。修道院のお勤めにも孤児院や救貧院を回るものがありますが、わたくしはそのお仕事が大好きなのです。それに加えて、他ならぬ騎士がそのような行いをしてくれた……!


 きっとこれ以上ない笑顔を浮かべられたことでしょう。そんなわたくしを見た騎士が、まぶしそうに目を細めました。


「あなたは人を助けるのが好きなんだなあ」

「……え?」

「俺も子どもは好きで孤児院にならよく差し入れをするが。たぶんあなたのそれとは意味合いが違うな」


 小さな子どもをかたどった人形をつまんで目の高さまで持ち上げ、騎士はしみじみとそれを見つめます。


「子どもは尊いものだ。大きく育ってほしいと思う。だがこれは、助けたいというのとは少し違うだろう」

「騎士……」


 彼のまじめな横顔を、わたくしはじっと見つめました。

 口元がほころんでいきます。これも初めて知る彼の一面。


 ……知れば知るほど、心が温かくなる。


「精神に優劣はありません。騎士の考えも尊いものですよ」

「そうか?」

「そうです。そもそもわたくしだってそんなに立派な考えで修道女になったわけではありませんから」


 元はと言えばアンナ様を追っただけ。人の真似事を志しただけ。

 そう告げると、騎士はむっとしたような顔をしました。


「真似事呼ばわりはどうかと思うぞ。若いころはそうやって始まるものだろう。道はそこから選び取っていくものだ」

「騎士もそうだったのですか?」

「俺は好きに生きてきたが、たぶんどこかで誰かの真似をしている。自分のやり方が唯一無二だなどと思っていない」

「………」


 この人が誰かのまねをしているのだとしたら、ぜひその相手を知りたいものです。絶対近づきたくありません。


 わたくしはもう一度微笑み、視線を騎士から人形へと戻しました。


 その中にひとつ、鳥がいました。大きく翼を広げた鳥。今にも空に飛び立ちそうな――。

 そっとそれを手に取ってみます。軽い土人形。けれどそこにこめられた想いの重さはどれほどでしょう。


 我知らず、唇から言葉が生まれました。


「……わたくしは昔から取り柄がありませんでした。ラケシスのように強くもないし、容姿も平凡ですし、頭がいいわけでもなかった。ずっと気にしていたんです」

「取り柄がない?」


 騎士が、うーん? と大きく首をかしげます。


「取り柄。取り柄とは何だ」

「哲学的な話ではありませんよ。要するに、わたくしは誰かの役に立ちたかったんです。でもそのための能力が足りないと漠然と思っていた――」


 そんなときに、アンナ様と知り合いました。

 あれは本当に大きな出会いだったと思います。人生を決める出会い。彼女の立ち振る舞いと、そして言葉に、わたくしは救われたのです。


「アンナ様は仰いました。〝人を助けられない人間なんていないのよ〟」


 大切な言葉は紡ぐだけで胸が熱くなる。心が、アンナ様と知り合ったばかりの幼き日へと戻っていく。

 飛べなかった鳥が初めて翼の使い方を知ったかのように、世界が変わったあの日。


「わたくしはその言葉を信じています。そして実行してみせようと思ったんです」


 修道女になるのはその一歩でした。

 今すぐには無理でも、いつか必ずと心に決めて修道院へ渡った二年前。


 ……そんな人生を一生続けていきたいと、明確に思っていたはずの。


「………」


 どちらからともなく口をつぐみました。

 騎士が、つまんでいた人形を棚の上に戻します。ことり、と鳴った音が、静かな部屋に妙に大きく響きました。


「……俺は」


 先に口を開いたのは彼でした。

 わたくしは彼に顔を向け、耳を澄ませました。


 すべて聞きたいと思いました。


 話の通じない人だなんて思っていた過去。そんな勘違いを償いたい。

 彼の考え方を、もっと知りたい。


「俺は別に、あなたからあなたの望んだ人生を奪いたいわけじゃないんだ」


 ぽつぽつと、彼らしくない細かな声が落ちます。

 弱気そうな声にも聞こえました。


「だが――修道女のままでは、隣にいてもらえない。だから」

「はい」


 応えるように、相づちを。彼の言いたいことは分かった気がしたのです。

 彼は目をしばたいて、少し笑いました。


「……あなたが欲しい。俺のそばにいては失うものが多いのなら、その分俺が新しく与えてみせる」


 大きな手が伸び、わたくしの頬に触れます。

 ぴくりと体が震えました。緊張したのは不安か、それとも期待だったのか――


 顔が近づき、唇に触れるだけのキス。

 そのままわたくしの顔を両手で包み込み、至近距離でわたくしの目を見て、彼は囁きました。


「あなたのよいところなら俺も知ってる。修道長殿には負けない」


 わたくしはくすっと笑いました。


「そんなところでアンナ様と対抗しなくてもいいんですよ?」

「俺を好きだと言ってくれるか?」

「………」


 その一瞬、脳裏に去来したのは彼を拒否し続けてきた自分の姿。

 最初から好きであったなら良かったのに。彼を無駄に傷つけずに済んだのに。

 ……わたくしに、修道女の夢がなかったなら良かったのに。


「わたくしは……」


 目を伏せ、彼の視線から逃げました。手に握りしめていたのは鳥の人形。なぜか手から離れない人形。

 愛情をはっきりと自覚している、ここまで来ても、わたくしには勇気がない。


 ――夢を捨てる勇気が。


「アルテナ」


 耳元で彼の呼ぶ声がします。

 名前を呼ばれると、どうしようもなく切なくなる。彼は特別なときにしか名前を呼ばないから。


「騎士……?」


 おそるおそる顔を上げると、彼の両腕がおもむろにわたくしを抱きしめました。


 背の高い彼の体にすっぽりと包まれると、彼の鼓動が体ごしに伝わってきました。こんなに力強い音を、わたくしは他に知りません。


 あっという間に上がる体温、落ち着かなくなる体。

 耳朶にそっと彼の唇が触れました。

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