お約束はできませんが、――。2

「巫女、良かった、間に合った」


 ここまで全速力で走ってきたのか、騎士は珍しく息が上がっているようでした。

 わたくしの前で止まり、膝に手を置いてぜえぜえ呼吸をします。


 触り心地のよさそうな彼の髪が乱れていました。わたくしはつい手を伸ばしかけ、慌てて引っ込めました。


 騎士はやがて顔だけわたくしに向け、軽くにらむような目をしました。


「何で俺に黙って行くんだ。それはずるいだろう?」

「騎士……」


 わたくしは何とも答えることができず口をつぐみました。


 家に帰ることを、彼には言わないようにしていました。このところわたくしが修道院の人に捕まっていることが多かったので、そもそも騎士と顔を合わせることも少なくなっていたのです。


 それに――たぶん、騎士は「休んだほうがいい」と言ったあの言葉を自分で覚えているのでしょう。彼と会うことが少なかったのは、すれ違ったからばかりでもないと思います。


「ヴァイス様、どうやって分かったんですか?」


 黙ってしまったわたくしの代わりに、シェーラが問いました。


「アレスとカイの挙動が怪しかったんでな。問い詰めて吐かせてやった」


 呼吸も整った騎士は胸を張り、「俺に巫女のことで隠しごとをするなど百万年早い!」と言いました。


 いったいどんな問い詰めかたをしたのでしょう。甚だしく心配です。ああアレス様カイ様ごめんなさい。


 それにしても――。


「………」


 わたくしは複雑な思いで騎士を見つめました。


 この人は、わたくしのことをいまだに『巫女』と呼びます。以前そのことを尋ねたら、彼はあっけらかんとして言いました。


『まだ名前を呼ぶことを許されている気はしないからな』


 この人はどうも、この人流の基準を作ってわたくしに接しているようです。初対面であれだけ強引なことをしでかしてくれたことについては、どう考えているのかさっぱり分かりませんが。


 ……どことなく、一定の距離を保たれているようにも、思えるような……


 わたくしは、このところずっと胸の片隅に居座っている言葉を、今日も思い返します。


『……“託宣を信じているのではない。あなたを信じている”……』


 以前なら、騎士の言葉などのきなみ頭から消去しようとしていました。


 それなのにどれもこれも衝撃が大きすぎて消えなくて、頭がおかしくなりそうだったあの日々。


 ――そして最近は。やっぱり消えない――


 王都の雪のようにやんわりと降り積もり、心の一部を占領したまま、消えてくれない。



 彼の口にする何もかもがわたくしにとって初めて耳にする言葉でした。それは……痛みやつらさだけをもたらすものでは決してありませんでした。


 数にすればほんの少しですが……淡い色の雪は確実に増えてきている。


 雪は触れればやがて消えると知っているのに、わたくしはその雪に触れるのを恐れているのです。


 正体を知るのが恐くて。消えてしまうのが……恐くて。



「とにかく良かった。ちゃんと会えたぞ」


 騎士はにこにこして言いました。


 この人のこの笑顔は見慣れていましたが……今日は何だか見ているのがつらくて、わたくしはうつむきました。


「巫女? どうした?」


 騎士はこちらに近づこうとしました。わたくしは思わず一歩退きました。


 と――


「近づかないでください、ヴァイス様」


 わたくしをかばうように、背の高い影が立ちふさがりました。


「ラケシス?」


 わたくしは声を上げました。


 妹が前に立つと、さすがに長身のヴァイス様のこともほとんど見えなくなります。声だけが、ラケシスの肩越しに聞こえて――。


「ん? 君はどこかで見たような」

「ラケシス・リリーフォンスです。最近A級ハンターになりました」

「ああ! 知ってるぞ、女だてらに腕利きのハンターだと有名な――ん? でもなんで君がここにいるんだ?」


 わたくしはむっとしました。ラケシスの傍らから顔を出し、「だてら、は失礼です、騎士よ!」とついいつもの調子で怒鳴ります。


「おっと、いや、すまんそんなつもりでは」

「いいんだ姉さん。そんなことは」


 ラケシスはわたくしを自分の背中へ押しやりました。「顔を出しちゃ駄目だよ」と。


「“姉さん”?」


 騎士がきょとんとします。見ていたレイリアさんが「無神経だと鈍感になるんですかね」とつぶやき、それにシェーラが「だとしたらあんたも超鈍感でしょう」と突っ込んでいましたが、それはともかく。


 ラケシスは苦々しい声で吐き捨てました。


「私の名前を知っているくせに察しがお悪い。あなたは興味がない相手は本当にどうでもいいようですね」


「――なるほど! 巫女の妹君か!」


 ようやく悟った騎士が、驚きの声を上げました。そして、


「そうか。会いたかったんだ、巫女のご家族には――。よろしく頼む」


 なんと殊勝なことに、彼は頭を下げました。


 こっそりラケシスの腕の横から覗いていたわたくしは息を呑みました。彼にもこんな常識があったのですね!


「それにしても似てない姉妹だな? 腹違いか何かか?」


 ……直後に何を言い出すんですかこの人は。


 ま、まあ実はそれを言われたのは初めてではありません。そのせいかさほど腹も立たず、ただ呆れて嘆息するばかりのわたくしをよそに、ラケシスはしばらく黙ったまま騎士を見つめて――。


 やがて、低い声で言いました。


「……お断りします」

「は?」


 そう間抜けな声を上げたのは誰だったのか。わたくしだったのか騎士だったのか、はたまたシェーラやレイリアさんを含めた全員だったのか。


 代表したわけではないでしょうが、騎士が首をかしげて訊きました。


「お断り? どういうことだ?」

「どういうことも何もその通りです。あなたとのお付き合いはお断り申し上げます。これは私だけでなく、我が父、母の総意です」


 ラケシスは半身を後ろに向け、わたくしをかばうように腕を回しました。


「あなたが姉にしてきた数々の暴挙、私は王都にいたのでよく知っています。本当はずっと姉を家に連れて帰りたかった。でも姉との約束があったからできなかった! それも今日でもうおしまいです」


 わたくしとの約束――。


『どうか、何があってもわたくしには構わないで』


 家を出る際に、家族とそう約束したのです。特にラケシスには強く言いつけました。ハンターという、どうしても血なまぐさい仕事である彼女が『修道女』に近づくのは、問題が多すぎましたから。


 ラケシスはすぐに理解してくれました。そもそも修道女になりたいと言ったとき、父母と違い妹はまったく反対しなかったのです。「姉さんがやりたいなら」と優しくわたくしの味方をしてくれた妹。自分がハンターになったせいもあるのでしょうが、彼女は考えかたが柔軟でした。わたくしのほうがよほど頑固なほどです。


 その妹が――。


 まさかこんなことを言い出すなんて、本当に予想外で。


 わたくしは、みっともなくも取り乱しました。


「ラ、ラケシス」

「姉さん、もう大丈夫だよ。姉さんのことは私や父さんたちが守るから」


 ラケシスは振り向いて優しく微笑みます。姉のわたくしも惚れ惚れするような笑み。


 ですがその微笑みが、今はわたくしの胸に痛みを引き起こすのです。


「ま、待ってラケシス。彼には色々お世話にもなっているから……シェーラのことも助けていただいたのだし」


 シェーラがこくこくと強く同意を示しています。

 わたくしは何故か焦りを感じながら、さらに重ねました。


「だからね、あんまりひどい言い方はしないで。この人は本当ひどい人だけど、そんなにひどい人でもないから――」


 我ながら何を言っているのかさっぱり分かりません。混乱しているわたくしに、シェーラが声をかけてくれます。


「アルテナ落ち着いて、無茶苦茶になってるわ!」

「えええと、だから、その……っ」

「巫女。かばってくれるなんて感無量だな……!」

「あなたは黙ってください騎士よ!」


 一喝。ああなんでしょう、彼に対するこういう言葉はすんなり出てくるのに。


「姉さん、何を焦ってるの?」


 ラケシスは半眼になりました。そして、


「姉さんだってずっと嫌がっていたじゃないか。知ってるんだよ。叫び声もときどき修道院の外に聞こえていたし」

「――」

「私が上級ハンターを目指した理由の半分はそれだね。いつかヴァイス様と勝負したかった」


 残念ながらまだ追いつけそうにないけど――。ラケシスは鋭いまなざしで騎士をにらみつけます。


「でも、いつか追いついてみせる。姉さんの受けた恥辱は必ず返す」

「ラケシス……!」


 わたくしは妹にすがりつきました。


 妹をとめたかった。でも――何をとめたいのでしょう?

 騎士との勝負を? それとも騎士への反抗を?


 ラケシスがわたくしを守ろうとしてくれている。ずっとずっと欲しかった、掛け値なしの味方です。


 それなのに――。


(どうしてこんなに胸が苦しいの……?)


「そんなわけでヴァイス様。お引き取りください」


 ラケシスはもう一度わたくしをかばう姿勢を取り直し、騎士に言いました。


「――姉は渡しません」


 レイリアさんがぼそっと「強敵出現」とつぶやき、「馬鹿! 面白くなっちゃうでしょ!」とシェーラに叱られています。シェーラ、あなたすでに楽しんでいるでしょう。


 騎士はずっと無言でした。無言でラケシスを見つめ返していました。

 背の高い、しかもハンターである二人が相対すると、それだけで空気が違います。他の者では近づけないぴりぴりとした緊張感――。


 風が渡り、彼らの足下を乱していきます。


 また砂埃が舞いました。わたくしは、たえきれず小さくくしゃみをしました。


「くしゅっ」


 ……。


「……アルテナ様、かわいい」

「レイリア!?」


 わたくしは赤面しました。肩をすぼめておそるおそる騎士とラケシスを見ると、二人の表情からは、触れれば切れるような緊張感は消えてなくなっていました。


「大丈夫姉さん? ちょっと寒いかな。早く馬車に乗らないと」

「ち、違うの、ちょっと埃が」

「それじゃあ、私たちはもう行きますので」


 ごきげんよう――ラケシスは戦士式の礼をしました。「もうついてこないでください、ヴァイス様」


 騎士が、ようやく口を動かしました。


「――分かった」

「―――!」


 わたくしの胸が一拍、強く脈打ちました。


 そんなことはきっとつゆ知らず、騎士はさらに続けます。


「今日は引き上げよう。ついていくこともない。ただし」


 おもむろに人差し指を立て――。


「今日だけだ」


 彼は、にやりと不敵に笑いました。


「何と言われようと、俺が諦めるわけないさ。そうだろう巫女よ?」


 ――わたくしは。


 ラケシスの後ろから出ると、騎士をにらみつけました。


 彼の顔を、真正面から見て……そうすれば、いつものように声が出るのです。


「いい加減にしてください騎士ヴァイス。迷惑です」


 ああ、胸騒ぎが鎮まっていく――。



 騎士と知り合ってから、もうじき三ヶ月になります。


 大半の日々顔を突きあわせてきた――。すでに日常になりつつある、彼の襲来。


 迷惑なのは、正直今でも変わりありません。


 それでも。


 いつもと変わらず軽口を叩き合えるということが、今のわたくしにはどれだけ救いとなることか。



(きっと来る。この人は)



 シェーラたちと別れを告げ、馬車に乗り込みながら、わたくしは最後まで騎士の視線を感じていました。


 故郷まで馬車で片道丸一日。それでも騎士は来るでしょう。そして父やラケシスたちを仰天させるのでしょうか。父や母らとも対立するのでしょうか?


 それは困ります。困りますが、

 何が起こっても騎士は騎士なのでしょう。そう考えると、少しだけ――楽しみな気がしてしまう。


 ……駄目ですね。こんな心根はとっくに修道女ではありません。


 やっぱりわたくしは芯から巫女の資格を失ってしまったのでしょうか。



 これから実家に戻って休養する中で、わたくしはいったい何を見つけるのか――。

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