お約束はできませんが、――。1

 初めて、星の祭壇に登った夜――。


 満天の星に見下ろされた瞬間、それまでの醸成された緊張がすべて解け、解放された気分になったのを覚えています。


 たくさんの観客が集まっていました。ゆうに千はいたでしょう。その中には大層なご身分の方もたくさんおいでになりました。後ろのほうには、一般人もたくさん。


 それらの目が一斉にわたくしを見ていたのです。

 普段なら、恐ろしくて逃げ出したくなったに違いないそんな状況も――


 ふしぎと、あのときは恐くなかった。


 ひざまずき、胸の前で手を組み合わせ、祝詞を捧げ……

 偉大なる星の声が聴こえるように、心を研ぎ澄まし。


 そして。


 ――降りてくる。先輩巫女の方々がいつも遣うその言葉は、まさしく真実でした。


 わたくしは体の力をぬき、すべてを任せました。降りてきた『何か』が、わたくしの体を使い託宣を告げる。そうとしか言いようがないあの感覚。


 体が自分のものではなくなる。口から出る言葉が自分の意図したものではない。


 それなのに恍惚として、このままその『何か』に、何もかもを捧げたくなる――。 


「騎士ヴァイス・フォーライク、巫女アルテナ・リリーフォンスの間に生まれし子は、国の救世主となるだろう」


 観衆がざわめくのが聞こえました。


 それでも、わたくしは恍惚としたままでした。自分の口が発した言葉の意味など、そのときのわたくしには分かりませんでした。


 夢から醒め、とんでもないことになったと気づいたのは、あの声が聞こえた瞬間――


「ついに俺の子を孕む人が現れたぞ……!」


 ――あの、どうしようもないほど嬉しそうな声。わたくしを苦悩に叩き落としたあの声が、今でもわたくしの耳から離れないのです。



「アルテナ。アルテナ……!」


 わたくしははっと我に返りました。


 シェーラとレイリアさんが目の前にいました。シェーラが心配そうにわたくしの頬に手を当てます。


「大丈夫? 顔色が悪いわ、また眠れなかったんでしょう」

「そんなことないわよ。大丈夫」


 荷造りの最中だったことを思い出し、わたくしは手元の作業に戻ろうとします。

 しかし指先がうまく動きません。レイリアさんがぼそっとつぶやきました。


「ごまかすのが下手すぎやしませんか、アルテナ様」

「あんたは黙ってなさい!」


 シェーラがレイリアさんを叱るのをまるで遠くのことのように聞きながら、わたくしはぼんやりと周囲を見渡しました。


 自分の部屋です。星の巫女として認められていたわたくしは、小さいながらも個室を与えられていました。必要最低限のものしか置かず、修道院の外の女性たちが見たらありえないと首を振るほどに殺風景なお部屋。


 けれど一人静かに勉強やお祈りをするのに最適で、窓からはきれいな星空も見え、とても素晴らしい部屋でした。


 その部屋とも、これでお別れです。



 今回は託宣が公に否定されたことで、国が大騒ぎになりました。

 修道院の威光に関わると、修道院内ではわたくしの処遇について大変争われたそうです。


 わたくしはあらゆる人に、毎日のように散々話を聞かれ――


 一日、一日経つごとに、どんどん憔悴していきました。


 同時に痛感しました。今回の託宣はそもそも内容がアレでしたので、以前から問題視はされていたはずなのです。それなのに、今になってこれほど騒ぎになる――それはつまり。


 修道院の者はみな、託宣の内容が正しいかどうかよりも、それを王宮が認めなかったことを気にしているのだと。



 アルテナ・リリーフォンスを追い出すべきだ、いや修道院がそんなことをしてはだめだ。争論は続きました。


 あまりに意見がまとまらないので、やがて修道院の上層部は妥協案を導き出しました。――『本人に決めさせよう』。


 わたくしが何より突き放された気持ちになったのはこのときだと、分かってもらえるでしょうか。



 修道長アンナ様は、『いてもいいのよ』と仰ってくれています。

 ですが、顛末を聞いた実家から、怒濤のように『帰ってこい』の手紙が届いていました。


 娘がこれ以上ない恥をかいたことで、父は王宮に対して怒りを爆発させていました。もしも家が王都の貴族であったなら、父は二重に恥をかいたのでしょうが、幸いなのかどうか父は王都の人間でも貴族でもありません。


 それだけに、迷いなく『帰ってこい』と言えるのでしょうが……。



 ――修道女として生きることを選んだ以上、何があっても修道女として生きるべきだと、頭ではそう考えています。


 けれど、心がついていかない。もう疲れたと、膝をかかえてうつむく自分が見えるようです。


(……わたくしは、こんなに情けない人間だったのね)


 悩みました。悩んだあげく、わたくしはアンナ様と父の両方の言葉に甘えることにしました。


 つまり、実家に一度帰宅して休むこと――。


 そして、きっと修道院に戻ってきてみせようと。ここに残るシェーラとの友情、そしてなけなしの勇気と元気とで、そう誓ったのです――。



 帰るための馬車は実家のほうが手配してくれる予定でした。


 迎えが来る約束の日。わたくしは修道院の客室で、荷物を抱えて馬車の到着を待っていました。


「遅いわねー」

「うるさいですよシェーラお嬢様。アルテナ様よりイライラするのはおよしください」

「あんたがいるから余計にイライラするのよ!」


 一緒に待ってくれているのはシェーラとレイリアさんです。最近この二人は常に一緒にいます。


 お目付役を理由にシェーラにつきまとうレイリアさん。

 シェーラは心底嫌そうですが、わたくしは内心ほっとしています。


 シェーラは友人が多いのに、肝心なことは胸に秘めがちだということが、先日の結婚騒動で分かった気がするのです。それだけに、本音を何でも言えるレイリアさんの存在がありがたいのではないか、と。


(シェーラの力になれるのはわたくしなどではなくて、レイリアさんのような人かもしれない……)


 ……ああ、いけない。また後ろ向きになっています。


 心が弱り始めると何もかもが悪く見えてしまって、その上悪く考えるほうが楽なのです。逃げる理由になりますから。


 逃げたい。そう、逃げたいのですわたくしは。何からかはもう、めちゃくちゃで、さっぱり分かりませんが、とにかく逃げたいと。


(駄目。こんなことでは修道女に戻れない)


 ああ、早く休んで元気にならなければ――。


 客室に一人の巫女見習いがやってきて、馬車の到着を告げました。

 わたくしたちは修道院の下働きの方に荷物を持ってもらい、外に出ました。


 今日はとてもよい天気でした。ただ、風が強いでしょうか……。


 馬車は、修道院の裏口前に停まっていました。わたくしもよく知っている我が家の馬車です。懐かしさに思わず駆け寄ってしまいそうになり――ふと、馬車の横に立っている人物に目を留めました。


 わたくしは目を丸くしました。


「ラケシス! あなたが来たの?」

「そうだよ。良かった、姉さん」


 そう言って妹――ラケシスはこちらに歩み寄り、わたくしの両手をぎゅっと握りました。


 傍らでシェーラやレイリアさんがぽかんとこちらを見つめています。彼女たちの驚きを思うと、思わずくすりと笑いが漏れました。


「何がおかしいのさ姉さん?」

「いいえ。ラケシス、また背が伸びた?」


 問うと、妹は困ったように頭に手をやりました。


「おかげさまで。また2cm伸びたよ――180超えた」

「伸びるわね、ほんとに」

「私としては願ったり叶ったりだけどさ」


 ラケシスは楽しげに笑います。「聞いてよ、ハンターランクがAに上がったんだ。がんばったよ」


「本当に!? そんなことはこの間の手紙に書いてなかったのに」

「直接言って驚かせようと思って! 姉さんの驚く顔はかわいいからね」

「……! 何を言ってるのよ、もう」

「あははっ」


 そんなことを話しながら彼女が触れたのは、腰にある剣――。


 たぶん無意識に剣に触れるくせがあるこの妹は、正式に登録している討伐者ハンターです。


 幼いころから、戦うことに興味がある女の子でした。わたくしとはひとつ違いですので本当に同じように育てられたのですが、妹のほうはいつの間にか棒きれを持って振り回すようになっていました。


 ハンター登録をしたのは十六歳のとき。父と母の反対を押し切っての登録です。


 それ以来日がな一日魔物を追い回している娘を、両親はどれほど心配しているか知れません。わたくしだって、もちろん心配です。


 ですが――まるで周囲の心配を丸ごと否定していくかのように妹はひたすら背が伸び、筋肉がつき、腕力もとても女性のものではなく、運動神経も抜群で、髪を短く切りそろえているため外見も凜々しい男性といった風情になってきました。正直、そこら辺の男性よりかっこいいのです。


 ハンターになるために生まれてきた。そう言われても否定できないような雰囲気を身につけた妹。姉として色んな意味で心配なような、本人がいいならそれでいいような……。


 風がラケシスの髪をさらさらと揺らします。同じ色の髪なのに、彼女の髪はよく映えるのは何故なんでしょう?


「あなた方がシェーラさんとレイリアさん? 姉がいつもお世話になっています、妹のラケシスです」


 ラケシスはシェーラたちに向かって丁寧に、戦士風の挨拶をしました。


「……はっ!? はいあの、私がシェーラ・ブルックリンです。いつもアルテナにはお話をうかがっています」


 ぽかんとしたままだったシェーラが慌てて淑女風の礼をし返すと、ラケシスはふわりと笑います。故郷では女殺しと呼ばれる微笑です。


 シェーラはすっかり言葉を失ってしまいました。


 ……こんな妹がいると話はしたことがありますが、実際見るのとでは衝撃が全然違うようです。


 かちこちになったシェーラの横で、レイリアさんが無表情に言いました。


「アルテナ様はずいぶん面白い妹さんをお持ちですね」

「はは、忌憚のないご意見ありがとう諜報員のレイリアさん。あなたはお金さえ払えば魔物の情報も拾ってきてくれるのだっけ?」

「お金をいただかなくては何も拾ってきません。それからどちらかというと情報屋と呼ばれるほうが好きですのでそのようにお願いします」

「本当に面白い子だなあ。私も使ってみようかな」

「高くつきますがぜひ」

「やめたほうがいいわよ絶対!」


 シェーラ、心配しないで。ラケシスにはわたくしからよく言っておくから。



 それからラケシスはしばらくシェーラとレイリアさんと談笑(レイリアさんはちっとも笑いませんでしたが)しました。


 わたくしにはそれが、別れの時間を延ばすみんなの気遣いに思えました。


(……このまま、ずっと話していられればいいのに)


 けれどそれを許さないかのように風が強くなります。スカートが乱れ、砂埃が舞います――。


「……姉さん、もう行こうか」


 やがて諦めたように、ラケシスはわたくしを促しました。風からわたくしをかばうような位置に立ち、わたくしの手を取ってエスコートする姿勢になります。こういうときのラケシスはほとんど挙動が男性です。


「別れは惜しいと思うけどさ。父さんたちも待っているから」

「……ええ」

「アルテナ」


 シェーラがわたくしに向かって手を伸ばそうとしました。


 けれどその手を、わたくしは取れませんでした。握ってしまえば……帰りたくないと駄々をこねてしまいそうで。


「早く元気になってね。また会おうね!」


 シェーラはわたくしを咎めませんでした。空中で行き場をなくした手を上げて、わたくしに向かって振ってみせます。


「ええ、必ず」

「何かあったら呼ぶのよ、今度は私が助けにいくから――」

「………」


 もう、声が出ませんでした。


 喉から出かかった言葉を涙と一緒に呑み込んで、わたくしはただ、強くうなずきました。


 ――帰ってこなくては。必ずこの場所へ。



「巫女ーーーー!」



 突然聞こえた大声に――


 わたくしは立ちすくみました。シェーラが「きゃあ」と歓声を上げ、レイリアさんが片眉を上げ……そしてラケシスが、はっと振り向き、呆然とつぶやきました。


「まさか……ヴァイス様!?」

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