そんなつもりはありません―5

 夜のお屋敷はしんと静まりかえっています。


 靴を履いて廊下を歩けば足音がしますから、わたくしたちは靴を脱ぎました。騎士が用意してくれた袋に入れて、腰にぶら下げています。松明は目立ちますので消しました。廊下には火の入った燭台が並んでいますから、歩くのに不自由はしません。


「さあ行くか」


 騎士を先頭にして、わたくしたちはゆっくり歩き出しました。廊下の冷たさがまるでわたくしたちを追い返そうとしているようで、心細い身に沁みます。


 息を殺して進んでいると、遠くでサアサアと水音が聞こえました。


「雨が降ってきたな」


 大きな窓を見やり、騎士は呑気に言いました。「忍び込むにはいい雰囲気だ」


「はあ……」

「昔アレスと二人で嫌いな男爵の家に忍び込んだことがある。男爵はオオカミが嫌いというんで、オオカミの剥製を居間に置いてきた」

「そ、それで」

「すぐにバレて大目玉だ。楽しかったなあ」


 今さらですが、どうかしてるんじゃないでしょうかこの人。


「ちなみに鍵開けはそのときマスターした。役に立つ特技だぞ」

「そ、そんな頻繁にどこかの屋敷に忍び込んでいるんですか?」

「一度助けを求める声が聞こえてなー。窓を割るのも忍びないので鍵開けで入った。無事助けたぞ?」

「………」


 無駄に否定しづらいいい話を挟んでこないでほしいです。


(そう言えばこの人はわたくしのところに来るときも、窓や扉を壊したりはしなかった)


 ふとそんなことに思い至りました。ひょっとして、この騎士にもわずかに常識的なところがあるのでしょうか?


「いやー窓やら壁やらを破壊するとあとで賠償が大変なものでなー。カイに復元魔術をマスターしてくれと何度頼んだことか」


 そんなことは全然ありませんでした。本当に、今までどれだけの迷惑を周囲にかけてきたのやら。


(この人と結婚なんて……)


 考えて、わたくしは身震いしました。

 平和な日常など望むべくもなさそうです。静かで単調な修道女生活が性に合っているのに……冗談ではありません。


「ん」


 騎士が突然足をとめました。


「わっぷ」


 わたくしはその背中に衝突し、慌てて離れました。「な、なんですか」


「……ねずみが通った」

「は?」


 思わずヘンな声を上げたのは、場所が場所だからです。

 ブルックリン伯爵家の別荘。それがねずみを放置するほど、掃除に手を抜いているとは思えません。


「ちょっと待っていろ」


 騎士はわたくしをその場に留め置いて、自分はうろうろ歩き始めました。

 壁に触れたり、観葉植物をまじまじ見たりしたあげく、燭台のひとつに近づくとその金の肌を指先でつつつと撫でます。


「見てくれ、埃だ」


 どこの姑ですか。


「埃……」


 でも、たしかにおかしい話です。燭台の掃除など、使用人が毎日必ずやることでしょうに。


 騎士はわたくしのところまで戻ってくると、真顔で言いました。


「……これは俺が思っていたより、まずいかもしれん」

「は……?」

「……! 人が来る。隠れろ」


 騎士はわたくしを引っ張り、壁際まで寄りました。燭台のない位置をさがし、身をひそめます。

 カツーン、カツーン。

 重々しい人の足音が近づいてきました。こちらに向かって――


(………っ)


 わたくしは恐怖で声を上げそうになりました。しかしそれを察知したらしい騎士が、わたくしの口を手で覆いました。唇の前で人差し指を立て、無言でわたくしを黙らせます。


 騎士は大きな観葉植物の陰にわたくしの体を押し込みました。自分はそのわたくしを覆うように立ち――。

 そしてふいにわたくしを、腕の中に抱き込みました。


「―――っ」


 わたくしは硬直しました。


 今回は、アレス様直伝突き飛ばし術を使えませんでした。暴れそうになるわたくしを前もって押さえ込むように、騎士の腕には力がこもっていました。わたくしの頭を先ほどとは別の恐怖が襲いました。恐いのです、力で押さえ込まれるのは。


 どうやっても勝てない相手を痛感するのが恐いのです。

 けれど……


「……じっとしていてくれ、巫女よ」


 耳元で、騎士は囁きました。


 密着した体。逃がすまいとでもしているかのように、強く抱き寄せる腕。

 わたくしの耳の奥で、別の誰かが言いました。


 ――どうして、この『力』に打ち克つ必要があるの?


「……っ!」


 全身が心臓になったかのように強く波打ちました。動悸がして苦しい。体温が一気に上がったような気がします。ああどうか、早く放して。


 ――でも。

 わたくしを守ろうとしてくれているのは……分かります。


 カツーン、カツーン……足音が近くを歩いています。使用人の見回りでしょうか。

 わたくしは騎士の腕の中で身を縮めました。騎士はわたくしの体を抱き寄せ直しました。


 顔の位置が近づきます。

 耳元に、騎士の慎重な呼吸があります。動揺しているわたくしとは真逆の、冷静沈着な呼吸。


 騎士の顔は見えませんでした。いえ、見る勇気がありませんでした。

 彼は今……何を考えているのでしょうか?


 カツーン……。


 足音が遠ざかっていきます。どうやら曲がり角を折れたようです。

 わたくしはほっと弛緩しかんしました。これで解放される――。


 しかし。

 騎士は、わたくしを放しませんでした。


「………」


 雨の音が、遠くに聞こえていました。雨量がしだいに増えているようです。

 騎士が、小さく息をついたのが分かりました。


「……アルテナ」


 びく、とわたくしは震えました。こんな風にまともに名を呼ばれるのは初めてです――。

 騎士は、わたくしの耳元で、ゆっくりと囁きました。


「アルテナ。返事はしなくていいから、聞いてほしい」

「………」

「俺があなたを愛しているのは本当だ。どうか、それだけは分かってくれ」


 雨の音がしています。ザアザア。遠いのに、いやに大きく。


「それさえ分かっていてくれるなら……俺は何でも耐えられる。突き飛ばされようがにらまれようが、なんでもいいから」


 騎士の声は、どこか切なげでした。


「……他のどんなことにでも耐える自信はある。だが、この気持ちを否定されることだけは耐えられそうにないんだ」


 彼は、最後にぽつりと言い足しました。

 こんなことは初めてだ――と。


 わたくしは何かを言おうとしました。このままでは息苦しくて死んでしまいそうでした。頭の中が渦を巻いていて、自分が何を考えているのかさっぱり分かりません。そうしてようやく出たのは、我ながらろくでもない言葉でした。


「あ、あなたは、託宣を信じただけではないのですか」


 騎士はようやく少しだけわたくしから離れました。わたくしの顔をのぞき込める位置まで。

 暗闇の中でも分かる眼光。騎士は確信に満ちた強い口調で言いました。


「違う。俺は、あなたを信じたんだ」


 ――――。

 わたくしの胸が痛いほど強く、打って。


 ふいに騎士の顔がもう一度わたくしに近づきました。かと思うと、唇にやわらかなものが触れました。


「――ッ!」


 わたくしは――とっさに暴れるよりも、ただ身をすくめました。

 わたくしの唇を、騎士の唇がなぞります。ぞくぞくと体の芯が震えるような口づけ。次には下唇を食まれ、「ん――」乱れた呼吸と一緒におかしな声が漏れました。


 騎士の唇はやがて唇を離れ、わたくしの首筋をたどり下りていきます。

 胸元を開き、吸いつくように触れ、痕を残し。ああ、どうして。触れたところがじんじんとうずく――。


「……っ、やめて……っ!」


 わたくしは決死の思いで騎士を押し放しました。


 このまま呑み込まれてしまいそうで恐ろしかった。わたくしは星の巫女です、そんなわけにはいかないのに。


 何より今は、シェーラのことが一番大事で。


 わたくしは訴えるように騎士を強く見つめました。


 騎士はそんなわたくしを静かに見つめ返し――やがて、頭を下げました。


「悪かった」

「………」

「そろそろ行くか。あんまり時間をかけると嵐になるかもしれん」


 わたくしの上着を着せ直し、騎士はわたくしの手を取りました。「さ、シェーラ殿のところへ向かおう」


「………」


 体の熱がなかなかおさまりませんでした。動悸は変わらずわたくしをさいなみました。


 泣きそうな思いで、わたくしはつぶやきました。どうして。

 どうしてこんなことを、と。


 騎士はあっけらかんと言いました。


「うん? 勢いだ」


 殴ってもいいですか。



 騎士はブルックリン家別荘の間取りをなぜかちゃんと把握しているようでした。伯爵が今夜いないことといい、勇者様一行ともなると、そんな情報も手に入るのでしょうか。


「ここがシェーラ殿の部屋だ。鍵はかかっていない」

「え?」

「開けるぞ」


 あ、とわたくしが言いかける間もなく、騎士は大扉を押し開けました。


「寝室は奥だ」

「な、なんでそんなことまで」

「失礼する」


 寝室につながるらしき扉を、騎士が無遠慮に開けます。


「シェーラ殿、いるか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る