いやだと言ったら、いやです。―1
朝五時。星の巫女の一日は祈りの間から始まります。
星は日中には見えません。けれど存在しています。だからわたくしたちは明るい空にも星を求め、心の中で星を思い描き、祈ります。
祈りの間は静かです。巫女はたくさんおりますが、誰もが口を利きません。この部屋ではただ星と対話することだけが求められます。
ここで精神を集中することのできない巫女は、いざ託宣の夜となったとき、星の声を聞くことができないのです。
「おはよう、アルテナ」
一時間に渡る祈りが済み、部屋を出たところで、朗らかな声がわたくしの名を呼びました。
「シェーラ」
同期の巫女シェーラ・ブルックリンは、いやににまにました表情でそばまでやってきます。
「どう? 昨夜はヴァイス様はいらっしゃったの?」
わたくしは脱力しました。「来てないわ……」うなるように答えると、えーとなぜか不満いっぱいの声が返ってきました。
「えーってどういうこと、えーって」
「だって最近毎晩来ていたし、今夜だって」
「アンナ様に頼んで騎士ヴァイスを説得していただきました。そもそも修道院に男性が毎夜やってくること自体が間違いなのです」
「あなたたちの場合は特別でしょう? 何しろ星の託宣よ?」
託宣だろうとなんだろうと、関係ありません。ここは修道院、神聖な場所なのです。
このひと月、誰ひとり騎士ヴァイスの行動を咎めなかったことのほうが異常なのです!
そもそもわたくしは前々から修道長アンナ様に対処を求めていました。それなのに、何と言うことか、アンナ様に「あなたが頑固に逃げるからですよ」とたしなめられてばかりだったのです。
もっともアンナ様は敬虔な星の巫女。星の託宣を誰より信じる方ですから、当然と言えば当然なのですが……
『おかげでこのひと月眠れていないのです。どうか、お願いします』
やつれたわたくしがこう訴えて、ようやく動いてくれたアンナ様。少し恨めしい。
つまんないの、とシェーラは言いました。豊かな巻き毛の金髪を指先でいじり、心底不満そうです。
この友人は少し正直すぎるような気がします。
「シェーラ。わたくしたちは星に身を捧げた巫女ですよ? 従って――」
「『身も心も星のために』でしょ。はいはい分かってますよー」
「……本当に分かっていますか?」
「だってね、どんなこと言われても『でもあなたたちは例外でしょ』で終わっちゃうわよ」
シェーラは少し身を低くして、内緒話をするような体勢になりました。
「知ってる? 星の巫女の結婚が託宣で下ったのは、この国始まって以来なんだって」
「……」
その話ならアンナ様に耳にたこができるほど聞かされました。
ありえない事態です。だからこそ、この託宣は重要なのだと――
「何せ生まれる子どもが救世主になるっていう託宣でしょう? 国も注目するわけよ」
「…………」
わたくしは首を振りました。
「無理よ。わたくしは騎士ヴァイスとは結婚できない」
「あら、どうして?」
「どうしてって……」
「優良物件だと思うけどなあ~」
優良物件。仮にも国の英雄に対してなんたる表現。
シェーラは白い頬を少し紅潮させて、楽しげに言います。
「私はね、ヴァイス様いいと思うなあ。結婚したほうがいいよ絶対! アルテナ、きっと幸せになるわよ!」
「シェーラ……」
無邪気な友人の言葉に、わたくしは胸がきゅっと痛くなります。
シェーラはたぶん、本気でわたくしの幸せを願ってくれています。面白がっている気持ちも大いにあるのでしょうが、それだけでこんなに穏やかな瞳はできません。
実はあの託宣がくだって以降、いわれのない噂が人々の口にのぼるようになったのです。
いわく、あの巫女はヴァイス・フォーライクと結婚したいがために、存在しない託宣をでっちあげたのだ――
(でもシェーラは、そんな風に疑わない)
シェーラの美しい碧い目。それを見ると、わたくしは自分の幸せを祈ってくれる人がいることの幸福を思います。
そして同時に、申し訳なく思うのです。
――騎士ヴァイスを、すんなり受け入れられなかったことを。
(でも)
申し訳なく思うたび、蘇るのはあの日のこと。託宣のくだったあの日。
(……公衆の面前で『孕む』なんて言葉を平気で使って、おまけに、く、唇を……っ)
あれのおかげで、本来ならわたくしは修道院にいる資格を失っているのです。いえ、結婚しろという託宣なのですから、本当はすぐにでも修道院を出てフォーライク家へ嫁ぐ必要さえありました。それをわがままを言ってまだこの修道院に据え置いていただいているのですが……そのせいで騎士ヴァイスはこの修道院に日夜特攻してきて、今ではすっかり修道院の面白い催しものです。
唇を奪われたことはあまりにいきなりすぎて、『奪われた』感覚さえありませんでした。
ただ唇が燃えるように熱くなって、呆然とした頭で『よく分からないけれどとんでもないことをされた』とだけ思ったあの瞬間――
そして日が経つにつれ、ふつふつと怒りが湧いてきたのです。
本当に、とんでもないことをしてくれたのです、あの人は。
――たとえ星に身を捧げた巫女といえど、唇が大切であることにかわりはないのですから。
わたくしとシェーラは朝食のために食堂へと向かいます。
道中、シェーラは町の噂話を面白おかしくわたくしに語ってくれました。シェーラはとても交友関係が広いので、こういった話題には事欠きません。
楽しげなシェーラを見つめながら、わたくしはふしぎに思います。――シェーラはなぜ星の巫女になったのだろう。
生まれはこの国の名士ブルックリン家です。本人の性格を考えても、普通に嫁いで普通に子どもを産んで、普通に幸せになるのが似合っている気がするのですが……
(いえ。どんな人生を選ぶかなんて人それぞれ)
わたくしとて、生まれは隣町のそこそこ名士の家です。たぶん親は人並みに嫁いで人並みの生活を送ることを期待していたでしょう。巫女になると告げたときの両親の顔を、わたくしは一生忘れません。
それでも、それを押し通しました。自分の人生でしたから。
よもやそれを、星の託宣そのものに否定されるとは思いませんでしたが……
「アルテナ? どうしたの?」
黙りこくったわたくしを心配して、シェーラがこちらの顔を覗き込みます。
あいまいにごまかしながら、わたくしは心の中で思いました。美しく明るく優しいシェーラ。人付き合いも上手で、見た目も華やかで、きっとあの騎士と並んでも遜色ないに違いありません。
かたやわたくしは褪せた茶色の髪に、味も素っ気もない黒眼。自分の容姿を恨んだことはありませんが、あの騎士の隣に不釣り合いなことぐらいは自分で分かります。
ああ、どうして――
(……どうして、騎士のお相手はシェーラのような人ではなかったのだろう)
*
朝ご飯を食べ終わり、わたくしは前庭の清掃をするため、ほうきを手にして建物を出ました。
今は秋。樹木の豊富な修道院の敷地内では、落ち葉真っ盛りです。それを掃いて集めて燃やします。
今日は少し冷えるよう。ふと吐いた息が白く染まってびっくりしました。冬はまだ遠いというのに!
「アルテナ」
ふと呼ばれて、わたくしは顔を上げました。
そして、はしたないことですが「あっ」と声を上げてしまいました。
「勇者様……」
「お仕事中すみません」
そこに立っていたのは誰あろう、この国の英雄、勇者アレス・ミューバッハ様。
すらりとした長身の上にのっかった優しげな顔。どちらかと言うと中性的で、髪型や服装次第では女性に見えるかもしれません――背が高すぎますが。
淡い茶髪は大人しく、柔らかい光をたたえた緑がかった瞳さえも控えめです。一目見て、彼が英雄だと気づく人はきっといないでしょう。
「こんな朝に……修道院に何かご用事ですか?」
わたくしはほうきを動かすのをやめて、勇者様に向き直りました。
いや、と勇者様は苦笑しました。
「あなたに会いに来ました。アルテナ」
「わたくし……ですか?」
「ヴァイスがいつもご迷惑をおかけしてます」
頭を下げられ、わたくしは慌てました。
「そんな! 勇者様がお詫びになる筋では……!」
「いや。実は俺たちもあいつの暴走をうまく止められないでいるんです。あいつがしばしば無茶をすることを知っているのに……あなたにはいやな思いをさせます」
「そんな……ことは」
いやな思いでした。とってもいやな思いでした。
けれど、それを勇者様のせいにするつもりは、これっぽっちもありません。
「どうか顔をお上げください。騎士ヴァイスの行動の責任はあくまで騎士ヴァイスにあります。もういい大人なのですから」
勇者様はゆっくり顔を上げ、わたくしの顔をじっと見ました。
そして、もう一度苦笑しました。何だか苦労がにじみでている苦笑でした。
「それもそうですね。でも謝りたかったんです。ヴァイスのことは、他人事ではないから」
「……」
「俺たちは六人で魔王を倒しました。六人いなくては為しえなかった。でもとりわけヴァイスは本当に……本当に重要だったんです」
「勇者様……」
「今でも俺たちは魔物狩りが仕事ですが、そっちに関してもヴァイスの力が大きいですしね」
わたくしはかすかに感動を覚えました。魔王が倒されて一年。それでも消えない絆がここにある……
「……?」
ふと、疑問が浮かびます。
魔物退治はこの王都近辺の魔物を狩るだけではありません。外国に行くことだってあります。時には数週間、数ヶ月遠征に出なくてはいけません。
かたや騎士ヴァイスはここひと月、毎日わたくしのところに来ていました。ということは……
「騎士ヴァイスは、魔物退治に出ておられなかったのですか?」
すると勇者様は目に見えて慌てました。
「あ……あ。ええと、『もっと重要な用事がある』と言って」
「……もっと重要な用事……?」
「いやでもそれはあいつにとって本当に重要な用事で。いやその」
しどろもどろになる勇者様。この人は根本的に嘘がつけない人のようです。
「騎士ヴァイス……」
わたくしは声が低くなるのを自覚していました。
魔物退治は本当に重要なお役目です。人々は日々、魔物の脅威に怯えて暮らしているのです。だから魔物を退治してくれることに関しては……騎士ヴァイスを純粋に尊敬する思いが本当にありました。
彼は、この国になくてはならない人だと。
それが――
それはわたくしの自意識過剰でしょうか? でも勇者様のわたくしを見て慌てる目。その意味を勘違いできるほど、わたくしは鈍感ではなかった。
「わたくしに会うために、お役目を放り出していた、と……?」
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