一章 竜と契約せよ Ⅳ
リゼによる鋼の頭突きをしこたま喰らい、シェンは水で冷やした手拭いを当てて店のテーブルに突っ伏して呻いている。
「理不尽過ぎる……」
その様子を眺めつつ、リゼは眉を顰めてサシャに耳打ちをした。
「……ちょっと、アイツ本当に私達が探してる竜の化身のシェンに違いないの? 何でアイツが痛がってて私の方がピンピンしてるのよ」
「リゼ様の頭突きは岩も砕くと言われてますからね」
「それ誰が言ってんのよ」
「私です」
頬を引き攣らせるリゼ。
サシャは素知らぬ顔でマリアベルに出された茶を啜っている。
「とは言え、オービル司祭の情報自体、我々の件と無関係な人物をダシにしたガセの可能性もありますからね」
「いくらなんでもあのオッサンがそこまで……やりかねないわね」
最初から雲隠れするつもりのオービルに時間稼ぎの偽情報を掴まされたという可能性を示唆されてリゼは舌打ちをする。
最悪オービルが行方をくらませてしまった状態で事の失敗が神殿本部に知れてしまえば、上層部は責任のなすりつけ合いの果てにリゼに全ての責任をかぶせてくる事は想像に難くなかった。
「ちょっと」
突っ伏して呻いていたシェンの向かいに立ったリゼがテーブルに手を着いてシェンを睨む。
「な……何でしょう」
額を押さえたまま怯えるシェンを前に、リゼはちらりとカウンターの方へ目をやる。
流石に神殿関係者でないマリアベルに竜の話をするのもマズい気がしたからだったが、サシャは先んじてマリアベルと雑談を始めていてリゼ達の席から話は聞こえないように見えた。
「ゼリア山から家出」
「……え」」
「どう言う心境の変化があったのか知らないけれど、後継者の役目を放り出して出て行ったなんて……エイブラが聞いたらさぞ呆れるでしょうよ」
カマかけの意味も含めて、リゼは先代守護竜の名前を出した。
勿論シェンが本当に今回の件と無関係だとしたら全く意味が通じない言い回しである。
もっともリゼは、その場合には自分の胸に顔面から突っ込んで来たこの優男から有り金を取れるだけ取ってやろうと考えていたので、いずれにしてもシェンにとっては災難でしかなかったのではあるが。
「……貴女は一体……」
シェンは片方の眉をピクリと跳ね上げる。
「オービルのおっさんから聞いたのよ、その竜が人に化けて今王都に居るって」
「……あの司祭長ですか」
「先代の守護竜であるエイブラが契約者の死去とともに引退した事で、この国には守護竜が空席になったわ。この国は本来魔物だって多い土地を、守護竜の加護で抑え込んで切り開いた土地よ。新たな守護竜と契約しなければ、エイブラが抑え込んでいた魔物だって遠からず活性化する」
「…………」
「シェン。人に化けて何をしたいのかは知らないけれど、自分に課せられた仕事をするの。私と契約して貰うわ」
「……じゃあ、貴女が……今代の契約者……」
「そうよ。せっかくゼリア山に足を運んだのに当のあんたは家出中で、王都にとんぼ返りするはめになったけれど」
一しきり喋り終えたリゼは向かいの席に腰を下ろす。
シェンは少し神妙な顔つきになり、一度深呼吸をしてからリゼを真っ直ぐに見つめて何事かを小さく呟き始めた。
その赤い瞳がほのかに光を帯び、リゼは霊力を介してこちらの魂を測られているような感触を覚えた。
しばらくの間を置いて、
「……確かに、貴女には相応の力がある様です。それも、エイブラの契約者であったフィーネさんと比較しても遜色ない」
「子供の頃、霊力だけを買われて神殿に引き取られたみたいなモンだしね。でもまあ、それなら話は早いじゃない。さっさと契約してくれれば、私も大手を振って神殿に戻れるのよ」
背もたれによりかかったリゼはやれやれと言った素振りをしたが、
「申し訳ありませんが、僕は守護竜として今誰かと契約をする気はありません」
シェンはそんなリゼを真っ直ぐ見据えながら、はっきりと拒否の言葉を述べた。
リゼの頬が引き攣った。
「……は?」
「僕はあなたと守護の契約を結ぶつもりはありません。……と言うか、正確に言えばできないんです。今の僕は人に化けているのではなく、竜である事をやめているのですから」
「……ちょっと待って。竜である事をやめたってどういう事? やる気なくしてやさぐれたって意味じゃなかったの?」
身を乗り出して詰め寄るリゼだったが、シェンは冷静な態度を崩す事はなかった。
「言葉通りの意味です。人の形をした器を造り、魂を移したんです。膨大な霊力を蓄えた竜の肉体は、その力を以てゼリア山に氷漬けにして封じてあります。ですから今の僕に本来程の力はないんですよ」
淡々と語るシェンとは対照的に、リゼの表情は憤慨の色に染まっている。
「それじゃあ……お役目はどうすんのよ」
「竜と人間の契約は慣例的に続いてきましたが、それは歴代の竜達が皆この国の人間を愛し、契約者たる司祭に信を置いてきたからです」
「……?」
「エイブラは幼少の頃から度々ゼリア山へ足を運んで交流を深めていた当時の契約者候補だったフィーネさんと交流を深め、その敬虔で慈愛に満ちた人柄を認めていたからこそ国を守護する契約に応じたのです。何かに強制されて結んだ契約ではありません」
四十年近くにわたってこの国を守護した先代守護竜エイブラとその契約者フィーネは王都の民に深く愛され、フィーネの若い頃に西方からの魔物の大集団をエイブラと協力して一掃した逸話などは大衆演劇の演目にもなるほどである。
「……それが私とアンタには無いから駄目だっての? 私は先代からも神殿の上からもそんな事は教わってないし、契約者候補に正式に決まったのだってほんの一年くらい前なのよ」
「それだけではありません。オービル司祭長の人となりは貴女もご存じ御存知なのでしょう? 素養が無いにも関わらずフィーネの親類であった事を利用して司祭長の地位を手に入れ、神殿本部の目が届かないのをいい事に巡礼者からの寄付の類で私腹を肥やす様な人間を見続けて、今の神殿に信頼感など持てません」
「……つまり、神殿関係者に信用できる人間が居ないからそこの司祭とは契約を結ぶつもりがない……ってこと?」
「まあ、簡単に言えばそういう事になりますね」
「…………」
普段の気の短いリゼであれば途中でシェンに掴みかかっても不思議ではないのだが、彼女はシェンの言葉にまだ何か含みがあると感じていた。
「アンタが人間不信なのはわかったけれど、そんなに人間が嫌いなら何でこんな所に居るのよ? 自分の身体と一緒に氷の中に閉じこもってればいいじゃない」
「僕は確かに今の神殿を信用していませんが人間全てを嫌いなわけではありません。それに先代のエイブラはフィーネさんが亡くなるまで供にこの国を護っていたのです。一部分だけを見て一概に切り捨てる事を決断はできません」
「なら――!」
「――だからこうして、自分の目でこの国を見に来たのです。この国は僕が護るに値するのかどうか。僕はずっとゼリア山周辺から離れたことがありませんでしたから。この店に身を置いていたのは単純に人間の食文化に興味があったからです」
シェンは淡々と、まるで辞令でも読み上げるように告げる。
リゼの表情が険しさを増した。
「で、アンタはこれからこの国の人間を試そう……っての?」
「試す……と言うのは意味合いとして微妙に違う気がしますね。別に僕は魔物をけしかけたりなんてしません。エイブラが守ろうとした人間の営みがどのようなものかを見に来たのです」
「いい? エイブラが居なくなってもう半月近く経つの。アンタにその気が無くたって、エイブラの霊力に抑えられていたこの土地の魔物は活性化する。そうすれば、王都だってこの国の人間にとって安全じゃなくなるのよ。アンタが年々も人間を品定めしてるのを待つ余裕なんてないのよ」
「それは貴女達の都合です。本来竜と人がこれほどまでに近しい存在であった国は無いと聞きます。他国は魔物の脅威に人間の力だけで対抗しているはずですよ」
リゼは歯噛みした。
どこで聞いたのかわからなかいがシェンの知識はリゼの把握している周辺国の事情と同じである。
シェンの理屈を切り崩す道筋が見当たらずリゼが深いため息を漏らした時、表の通りが何やら騒がしい事に気が付いた。
「サシャ、何かあったの?」
入口から外の様子を伺っているサシャに声をかける。
「……人が走って行きますね」
怪訝な顔のリゼがサシャに倣って入口から顔を出した。
大勢の人間が店の前を走り抜けていく。
異様なのは皆血相を変えて、何かから逃れるように走っている事だった。
「……怪我をしている人も居るようです」
腕や顔、様々な場所に負傷をし、中には足を引きずりながらの者までいるようだった。
リゼは近くを走ってきた一人を呼び止める。
「ちょっと、何があったの⁉」
「ああ⁉ 魔物が出たんだよ! 王都周辺で何て一度も見かけた事なかったのに!」
やはり、エイブラの残していった力が弱まっているのだとリゼは理解した。
「場所はどこ? 数は? 軍は人手を出してるの?」
「番外地だし、巡回で新米の腰の引けた新兵の兄ちゃんらが何人か居ただけだ。数まではわからねえが、何か所かで同時に騒ぎが起きてやがったから一匹じゃねえハズだ」
「――!」
リゼは何かに火が付いたように踵を返し、店の中へ戻る。
「アンタが仕事を怠けてくれたおかげでやる事ができたわ」
「貴女が魔物退治に出るのですか? この国には軍隊があるのでしょう?」
「番外地は貧民街よ。軍もあそこの人達のために本腰は入れないでしょうね」
「はあ。そういうものですか」
「残念ながらそういうものよ。期待外れで悪いけれど」
王都は今リゼ達の居る内壁に守られた区画と、簡素な外壁の内側にある番外地と呼ばれる貧民街が存在する。
治安も良く商業的に栄えていた王都に仕事を求めて人々が集まり長い時間をかけて拡大していった貧困層の住まうこの地域は、国にとっては治安の低下を招く悩みの種であり、税の徴収と言う観点からも期待のできない地域である。
内壁に被害が出ない限り、本腰を入れて群を派遣する決断をするには時間がかかるのは想像に難くない。
ましてや魔物の出現などは王都周辺では長い事発生しない事案である。
直近数年に前例がないとなれば、迅速な対応は期待が持てないのが実情だった。
「サシャ、一緒に来て頂戴」
「……わかりました。マリアベルさん、お茶菓子ご馳走様でした」
「シェン。一応聞くけど、手伝ってくれる気は無いのよね?」
「……今の話を聞いて、この国の人間に加点する要素も無いでしょう?」
「否定はしないわ」
それだけを素っ気なく答えて、リゼはサシャと一緒に足早に店を出て行った。
「いやあ、嫌われてしましましたかね」
「……今のを聞いて、好かれる要素も無いと思うけどね」
リゼ達が出て行った店の意入り口を見つめ、さして感慨も無いような口調で頬をかくシェンに、マリアベルはジト目で返すのだった。
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