第3話 ひつじのぬま

 僕はまた昔の夢を見ている。僕の見る夢は記録に残らない記憶だ。

「ねえ、キア」

 せんせいが優しく言った。

 なあに、せんせい。

「この先、何があってもあなたは私が守ってみせるから」

 この庭に来た時に、せんせいは僕を抱きしめてそう言った。

 キア。キア。

 守ることしかできない私を、どうか許してちょうだい。

 何度も何度も、せんせいは肩を震わせて言う。

 どうしたの、せんせい。

「あなたを死なせはしない。あなたにだってきっと意味があったはずだから」

 その言葉はせんせいが自分に言い聞かせているようで。

「あなたも、あなたのお兄ちゃんも弟も。私がみんな守る。彼以外は意味がなかっただなんて、そんなこと、私は認めない。絶対に認めない」

 せんせいの肩越しに、大きな水槽がある。目を閉じた顔はこちらを向いている。兄さんたち。

 せんせい。せんせい。と、弟たちはせんせいに集まる。せんせいは一人ずつ弟たちを抱きしめた。安心させてほしかったのだ。僕も、弟たちも。

 けれどもせんせいは一度も、大丈夫とは言わなかったのだ。

 ああ。僕は。こんな昔の夢を見ている。

 これは、そうだ。もう何年も前のことじゃなかったか。

 生まれたばかりの僕を抱えて、せんせいは僕に約束してくれた。

 だけど、その約束そのものが、僕はもうきっと意味を失くしていて。

 僕もせんせいも、彼に置いていかれたのだと確信させてくれた。

 

 十一号になれなかった弟たち。

 十一号に先を越された兄さんたち。

 十八号が十一号と一緒に、ある少年になった日に『キア』は生まれた。

 。キアは。

 になれなかった僕だ。


 甘い匂いがしていた。咽返る匂い。ふわふわと水槽を漂う姿はクラゲを思わせた。白くふやけて黄色く膨れ上がった兄さん。緑に崩れた兄さん。べっこう色に組みあがっただけの姿になった兄さん。十人の兄さんたち。

 僕は水槽に寄り添って、おはよう、兄さん。と呼びかける。

 今日も返事はない。

 順番に、順番に、おはよう兄さん、と声をかけて回る。

 いつか目が覚めるかな。

 いつ、目が覚めるのかな。

 十一番目の兄さんと十八番目の兄さんは抜け駆けした。残りの四人は自分で抜いた犬歯で全身に自分の名前を書いて事切れたり、何度も何度も『助けてせんせい』と、声をあげながら死んでいった。その後に箱に詰められて焼却炉に放り込まれているのを僕は見ていた。

 白濁した水。少しずつ蒸発して濃くなった水。そこに浸された約束の残骸。

 僕の弟たちも同じようなものだ。

 弟たちは皆多分、僕よりも賢かった。十二番目の兄さんがお化けのように足先から崩れた頃に、弟たちは何かを悟ったらしい。

『キア。二十一番目の兄さん。『いつか』は来ないよ』

 ある朝目を覚ますと、弟たちは皆、冷たくなっていた。『兄さん。僕たちは、知っていたはずだ』と。最後のメッセージを残して。

『嘘を吐き続けるのには、限界がある。生贄にもなれなかった僕たちは、守られるしかない僕たちは諦めるべきだ。『いつか』は来ない。二度と』

 昨晩の夢を思い出しながら、僕は兄さんたちに声をかけ続けた。

 途中、隣の部屋に集めた弟たちの様子も見ておいた。何年も、同じメッセージのまま。

 いつかは来ない。

 だが、ロイドがやって来た。この庭に、ヒトが来たのだ。僕は遅くなったことを詫びつつ、弟たちにもロイドのことを報告しておいた。

 低く、重く、弟たちのいる部屋の機械の音が響く。ここにはあまり入ってはいけないとせんせいに言われている。僕はできるだけ早く部屋をでた。

 この庭は、とても平和で。とてもとても平和で。それでいて、足りないままでいる。僕達は必要とされなくなったのだから、維持に必要なものも、これ以上の存在を望む理由も。足りないままでいる。

 だって、僕は知っていたのだから。知っていたのだから。知っていた。本当のことを。嘘を吐くのは苦手だから。人には嘘を吐いてはいけない。いい子にしていなければ、いい子にしていないと。僕は。僕は。僕の、意識は。僕のちっぽけな塊は、放り捨てられてしまう。何も気づいていないふりをして。無垢でいさえすれば。これ以上の存在を望む理由がなくても、死ぬに死ねなくても生きたくて仕方なかった僕は。自分の意思で生きてみたかった僕は。

 ひとに嘘を吐いてはいけないのなら、自分にだけは嘘をついてもいいんだって、僕は知っていたのだから。

 ただ一人出来上がれば、それでよかったのだと。僕は知っている。

 ただ一人のために用意された羊の群れ。

 僕らはその余りものなんだ。

 僕は声をかける。

 おはよう、兄さん。

 いつもの朝だ。

 だが、何かが違う。

 いつもよりも空気清浄機を少し、強くした。


 庭に出ると日が傾いているような気がした。まだ、朝のはずなのに。

 風もなく、鳥の声がいつもよりも大きく聞こえた。

 ……何かがおかしい。

 僕は草を踏みしめて、せんせいの部屋へ向かうことにした。

 途中の庭の池では、魚が白い腹を見せて浮かんでいた。

僕は歩く速さを少し上げる。走れない脚が、もどかしかった。

 せんせい、せんせい、せんせい。

 嫌な予感でいっぱいになる。

 昨日の夜、せんせいは後で話をきいてくれるって、僕に約束してくれたのに。せんせいは僕のところに来てくれなかった。

 来客ボタンを押そうとする。そう言えば、僕がひとりでせんせいのところに来たのは初めてだった。連れられてきたことはあっても、ひとりで来てはいけないと言い含められていた。だから、この扉を開けることができない。それに、僕の声は気づいてもらえない。

 とてつもなく悲しくなった。声をあげてわんわん泣いて、そうしていたら慰めに来てくれるかもしれないから。だが、それもできない。

 ボタンを押そうにも押せない僕の前で、扉が勝手に開いた。

 せんせい!

 ぱっと視界をあげると、

「……よう。少年」

 そこにいたのは、ロイドだった。昨日とはまるで別人のようで、何かが抜け落ちてしまったような。

「あんたから会いに来てくれるたぁ律儀だな。って、なわけねーか」

 ロイドはふっと笑うと、僕を手招く。入れ、ということらしい。

「ヘムロックに会いに来たんだろ。行ってやれよ」

代わりにロイドは外へ出て行く。

 ロイドは?

 すれ違いざまに聞くと、

「オレは……ちょっと外の空気が吸いたくなったんでね」

 口早にそう言うと、陽の当たる場所へと赴いた。様子がおかしいが、無理に引き留めることもない。

早くせんせいのところへ向かわないと。

 

 せんせいにも罪悪感はあったのだ。

 部屋の光景をみて、僕はそう思っていた。

 ずらりと並んだモニタ。計器の山と毛細血管のようなコードの束。その真ん中に、せんせいはいた。目を閉じ、動かない。ゆすったりつついたりしても反応がまるでなかった。せんせい、せんせい。と僕は何度も呼ぶ。眠っているようだけれど、そうじゃないのだと分かって。僕はせんせいの白い服の裾をつかんで立ちすくんだ。

せんせいの一番近くにあるモニタの一つにだけ、電源が入っていた。

『皆を守りたかった』

 と。一言だけ。

 モニタとせんせいから、僕は背を向けて歩き出した。

 言いたいことは昨日、僕に直接言ってくれたのだから、それでいい。

 僕に、任せると言ってくれたのだ。

だったら終わらせなければならない。

 夢は、醒めるものだ。

 そうでしょ、兄さん。


 ラボを出ると、入り口にはロイドが戻ってきていた。ラボの濃い影の内にすらりと二本の足で立ったロイドは置き物のようだ。待っていてくれたのだろう、こちらに気が付いたのかロイドはおもむろに口を開く。

「思ったよりも早かったな」

 お話があるんでしょ? と僕は尋ねる。ロイドは肩を揺らして応じた。

「聡いねぇ。……嬉しいけど、悲しい回答だぜ。それ。あんたがいくら気丈にできてるからってそう振舞う必要はねぇってのにな

 言うだけ言うとロイドは背を向けて、手でついてこい、と僕に示した。僕はそれに素直に従うことにした。

 どうやら庭の中央に向かって進んでいるようだった。しばらく僕らは無言のまま歩き続けた。鳥の声も聞こえなくなって、僕らの草を踏む音だけが庭に小さなさざ波を生んでいた。

 前を行くロイドのズボンの裾を引っ張ると、頭だけでこちらを振り返った。

 何をしたの、と尋ねると心外そうにロイドは肩をあげた。

「何も。オレが何かしてたら、あんたは納得できそうか」

 そうかもしれない。

 例えばせんせいに手を掛けたり、せんせいが自分を追いつめるように責めあげたりしていたら。僕はロイドにいかりの感情を向けることができるのだから。

「……例えそうだったとしても、あんたはオレを責めたりしねぇだろ。オレに殴りかかったりオレを殺したりはしないし、まぁ……したくてもできねぇか」

 それは言わないで。

 すまん、とロイドはとってつけたようだった。少しムッとして僕は、信用できなそうな態度のロイドがいけないと思う、と伝えた。

 するとロイドはきょとんとした顔をしてそれから噴き出した。嘘みたいに、あっけらかんとした笑い方をするのだと思った。場違いなまでに実に晴れ晴れとしたその声は庭に溶けて、消えて行った。

「聡くて、素直で。嘘がつけない。『いい子』に育ったよ。ほんとうに、ほんとうに。あいつそっくりに育った」

 ロイドは、泣き出しそうな顔で笑っていた。

 僕を見ている。けれど、僕以外の誰かの姿が映っているのだろう。

 十一番目の兄さんなら、それが誰かわかっただろうか。僕にある既視感に答えを与えてくれただろうか。

 ロイドが唇で形作った名前は音にはならず、小さく首を横に振った。

 無花果の木の下で、ロイドは僕のもとへしゃがみ込む。キア、と。震える声で僕を呼んでくれた。ロイドはしなだれかかるようにして僕を抱き寄せた。鉄の香りがした。せんせいが昨日に、もしくはずっと昔にそうしてくれたのよりも、もっと懐かしい感覚だった。ぼくはロイドにやっと出会えたのだと思った。

 ロイドはもう一度、僕の名前を呼ぶ。

「自分に嘘を吐くのは。頼むから……もうやめにしてくれ」

 かすかな鼓動が僕に伝わる。

 彼女には、もう残された時間は少ないのだと僕は悟った。根拠はないが、そうなのだと思った。

 そしてそれは、おそらく僕も。

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