第2話 はじまりよりもそのまえに

 獲得された意識のはじまり、はじまり。

 揺蕩う中でくぐもった音が聞こえて、それを人の声だと理解した。この人々の庇護のもとここに在り、祝福され、呼吸を始めようとする。

 理解はしていた。『僕』は。理解していた。

 斯く在れと告げる言葉を。それが形作る物を。彼は嘘を吐くのが下手で。どうしようもなく下手で。きっと、彼が留めた最初の記憶だったのだと、『僕』は気づいていた。

 だから、『僕』はそれに従うことにした。

 伸ばされた手に身を預ける。

 敬愛や思慕によってまた彼女は救われるであろうことも。全部、全部。

『僕』は分かっていた。

 嘘を吐くことはいけないことだってせんせいは言っていた。

 いい子にしてなきゃいけないのに。

 水の音と零れる空気の泡。人の群れと歓声とため息。

『□□□□□:ロールアウト。

 以降、VF規定に従い十一号を』

 取り上げられた世界で大きく息を吸った。吐き出したそれは産声になった。

 この世界に向かって叫んだ、悲鳴だ。



 目を覚ました。木漏れ日がまだぼやけている。

 ゆっくりと感覚が付いてきて、僕は動く気にもならないで無花果の葉から透ける陽光に目を細めていた。いつものようにやたら時間がゆっくり過ぎているようだった。

 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。今がいつで僕は誰だったか散らばった考えを少しずつ拾い集めていく。斯く在れという言葉に従ってそれをくみ上げていく。

「おい、少年」

 突然に声が降ってきて、僕は視界を向ける。

 人だ。

 人がいる。

「……少年。おい、そこのあんただ」

 人だ。

 僕は驚いて固まってしまう。

 目の覚めるような真っ赤な髪に、鋭い目つき。睨まれたような気分になって、僕はつい緊張してしまう。庭にはヒトは来ないはずだ。

 どこから来たんですか。と、僕はつい尋ねてしまった。

「どこ、って。外からだよ。ここで生まれた奴に見えるか?」

 赤い人は首を傾げた。嘲笑さえ含んだものの言い方をする人だ。しかしどこか虚脱している。

 見えない、と僕は素直に答えた。

「そりゃあどうも。で、だ。少年。ヘムロックを探してるんだ。知らねぇか」

 三日月に裂けた口元のまま赤い人は尋ねる。とてもじゃないがいい人には見えない。

 僕は、答えない方がいいんだろうな、と思った。

「できたガキじゃねぇかよ。よく分かってる。偉いぞ。オレを警戒しておくのが正解だってのは間違いじゃねえ。だが、素直に応えておいた方がテメェにとってお得だってのが分からねぇ頭してねぇだろ、ん?」

 よくしゃべる人だった。大人しくしていようといまいと聞き出したい情報は何が何でも引き出そうとしてくるのだろう。だったら、今はとにかく時間を稼いだ方がいいと僕は判断する。

 あなたはだあれ? と、僕は尋ねた。

赤い人は僕をふと眺めて、それから一層、笑みを深めた。さあてね、とわざとらしく肩まですくめて芝居がかった動きでぶらりと僕の周りを歩きはじめる。

「さしずめオレは放たれた蛇か、蒔かれた林檎かってところだ。それ以外なら侵略的外来種だな」

 わかんない。カッコつけてないで名前で言ってよ。

「冗談が通じねえなぁ。名前、名前ねぇ。あー、何だったか。そうそう。『ロイド』だ。それがいいや。とりあえずロイドでいいよ」

 一言で偽名だと分かったがそこには触れないことにする。

「あんたは?」

 僕は、キア。

「キア、か。いい名前だと思ってるか?」

 それって人に尋ねるものなんですか?

「別に。なんとなく聞いてみたくなっただけだよ」

 ふと、ロイドが足を止める。庭の風が強く吹いた。風上から、鉄の匂いがした。

 懐かしい匂いだと思った。そして、僕の記憶をくすぐるのには十分すぎたのだ。

「今は、そういう名前なんだな。あんた」

 感慨深そうにロイドは呟いた。

 僕はこの人を知っているのではないか、という直感が働いた。そして瞬時に、おそらくそれがただの勘違いであることも。

 ねえ、と僕はロイドに話しかけようとするが、それは叶わなかった。

「その子から離れて」

 とげを感じる声が飛んできた。せんせいが足早にこちらへ向かっていた。敵愾心を隠すこともなく来訪者であるロイドを睨んでいる。こんなに怖いせんせいを見るのは、始めてだ。

「よう、ドクター」

 ロイドは顔を輝かせて気楽そうに声をかける一方で、せんせいは警戒の色を濃くした。

「どちら様でしょうか」

「つれねぇなぁ。オレを知らねぇだなんて、今更だろ。ドクター・ヘムロック」

「私の名前を……どうして? そもそも、楽園にどうやって来たの? セキュリティは」

「楽園、楽園……ここがか? 悪趣味な地獄じゃねぇかよ」

 ロイドの皮肉は物ともせず、せんせいは毅然として告げる。

「外から来たなら分かるでしょう。私たちにはここしかない。外では生きられないのだから」

「そりゃあそうだ。失礼したな、地獄だなんて言っちまってよ」

 はは、とロイドは短く笑う。せんせいはそんなロイドから目を離さず、僕の前に手を広げて立ちはだかった。庇うような仕草に僕は驚く。とげとげしいせんせいの態度など構うことなくロイドは続けた。

「まぁ地獄で生きるのは慣れっこだろ? 相変わらずそうで安心したぜ」

「黙って。この子に聞かせたくない」

「昔に戻ったみてえだなぁ。既視感っつーの?」

「黙って」

 せんせい。あのね。

 僕はなんとかして伝えようとする。

「キア、お部屋に戻ってなさい。私はこの人とお話をしなくちゃいけないみたい」

 せんせい、あのね。そうじゃない。聞いて欲しい。このひともね。

「……後でいくらでも聞くから。お願いだから部屋にいて」

 約束してくれる?

「ええ……先生と、キアの約束」

 それとね、と屈みこんでせんせいは僕に視線を合わせてくれた。

「ごめんなさいキア。あなたとの最初の約束は、私は守れそうにないみたい。ありがとう、キア。お兄ちゃんたちを、弟たちを、任せたわよ」

 言って、ふわりと、僕のからだを包み込んでくれる。あたたかい。しっかりとした実感と。同時に僕には、これが最後なのだという直感が訪れた。

 せんせい。

 僕はたまらず呼び止めようとしたが、届かなかったらしい。

せんせいは僕をそっと部屋に向けて押し出した。

その、せんせいの背後でロイドの口があとでな、と動いたのを僕は見逃さなかった。


 ただいま、兄さん。

 部屋に戻った僕は声をかける。

 大事なことだ。

 でも、今日も兄さんは黙ったままだった。

 あのね、兄さん。今日は庭にお客さんが来たんだよ。

 ロイドっていうの。真っ赤な髪の、おにーさん。いや、おねーさんかな。あの人、おっかないね。でも、懐かしいんだ。

 とつとつと、僕は言葉を紡ぐ。そうすることで、何か思い出せないかと。

 僕はあの人に会ったことがあるような気がするんだ。

 生まれる前、どこかで。

 何も思い出せない。

 ……おかしいよね。そんなのありえないのに。ずっと昔、あの人と一緒に過ごした気がするんだ。

 ……おかしいでしょ?

 もどかしい。歯痒い。脳味噌全体がぎちぎちと締め上げられているように苦しい。僕はロイドのことを知っている、という実感だけがはっきりと頭に浮かんでいて、なのに中身をいくら探っても空を掻くばかりだ。

 ねえ、兄さん。僕は夢でもみてるのかな。

 目を開けたまま思い出せることは、兄さんと、せんせいと、庭のことしかないのに。

 涙も流せないことが、こんなに悲しいなんて思えなかったよ。

 ねえ。

 何か言ってよ、兄さん。

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