羊の沼

日由 了

第1話 おはようをきみに

 おはよう。兄さん。

 日課のように声をかけた。

 兄さんからは返事はない。僕は構わず声をかけ続けた。

 おはよう、兄さん。おはよう。くるくると部屋を回って、やっと全員分に声をかけると僕の日課は終わる。

 いつもと、変わらない朝だ。


 僕には三十人の兄弟がいる。

 僕は二十一番目の弟だ。

 上から二十一番目の弟で、下から九番目の兄。

 五月のぬるい日の光が降り注ぐ。柔らかい芝とクローバー、蓮華や菫の紫に、蒲公英の黄。樹木の陰にはどくだみの白。風が葉を揺らし、梢では鳥の声。

 庭は今日も変わらない。十二月でも変わらない。ここでは永遠に五月だから、夏も、秋も、冬もないのだと、せんせいは言っていた。僕は風に吹かれるまま、庭の真ん中の無花果の木の下に居るのが大好きだった。

「キア」

 僕は呼ばれて振り返る。せんせい。せんせいだ。

 先生の白い服が風で膨らむ。優しそうに笑ったせんせい。いつものせんせい。

「今日も外にいたの」

 そうだよ。天気がいいんだもの。お外に出ないと。

 ねぇ、せんせい。

「何かしら」

 兄さんもお外に連れてきてあげたいな。こんなに天気がいいんだもの。お外に出ないと。

「ええ……そうね」

 せんせいは少し困ったように首を傾げた。せんせいを困らせてはいけない。

 だから、兄さんはいつよくなるの? だなんて、聞いちゃいけない。

 お外に出してあげて欲しいだなんてわがままを言ってはいけない。

 いい子にしていたら兄さんはよくなるんだ、ってせんせいは言っていた。

 だから僕は代わりの質問をする。

 せんせい、今日は何をお勉強するの?

 そうすると、せんせいの顔がぱっと明るくなる。これでいい。これで正解だ。僕は、間違えなかった。

「今日は、地上のお勉強をしましょう」

 木陰に腰掛けたせんせいの隣に座って、せんせいが取り出したノートをのぞき込む。クリーム色の紙に擦れた文字。授業はいつもそうして行われる。せんせいは、このノートの内容は全部頭の中にあるのだという。それでもこのノートを開くのは、『おまじない』なんだって。

「むかし、むかし。まだ、人間が地上にいたころの話」

 せんせいの、よくとおる落ち着いた声。

 風がノートのページを攫う。

 ここは楽園だと、せんせいは言っていた。

 この世界、最後の楽園なのだと。


 地上に出てはいけない。

 物心ついた頃、せんせいは僕にそう言い聞かせた。

 外には怖い怪物がいっぱいいるから、僕は食べられちゃうから、駄目なんだって。

 怪物を倒すためにいっぱいいっぱい武器を放り込んで、そうして地上に人類は住めなくなって庭に住むことにしたんだって。

 もう、ヒトはきっと、ここにしかいないんだ、って。

せんせいは言っていた。

 百年も前から人類はここで生活をしていて、怪物が死に絶えるのを待っているらしい。庭のお外には怪物を倒してくれるヒーローが何人かいて、僕達はその人たちのおかげで安全に過ごせるんだ、って。

 なぜか、このことを教えてくれたせんせいは、かなしそうな顔をしていたのを僕は覚えている。

 怪物が初めて姿を現したのが二百年前で、僕等は二百年もの間、怪物と戦争を続けている。もしかしたらもっと長いのかもしれない。けれどここは安全だからお外の心配はしなくていいらしい。

 お外のヒーローたちはどうやって暮らしてるの? と僕が尋ねると、せんせいは曖昧に笑って、キアが心配しなくてもいのよ、と言ってくれた。なら、きっと大丈夫なんだろう。

 せんせいは外のことをよく知っていた。けれど、せんせいも生まれはここらしい。

 ここで生まれてここで死ぬのよ、と語るせんせいはどこか誇らしげだった。

 ここではないところで怪物と戦っている人たちはどう思っているんだろうな、と考えた僕は、きっといけない子なんだろうな。

 いい子でいれば兄さんはよくなるし、いつかお外はよくなるはずだし、そうしたらせんせいはもっとうれしそうにしてくれるだろうか。

 そうなるといいな。

 そんな日が、くるといいな。

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