「棺桶に入ってきた」



 セクシュアルマイノリティ関連のイベントを沢山行なっているカフェに営業に来ていた時の事である。


「今度あるイベント、来ます?」


 オーナーの方がそう言って、私に一枚の髪を差し出した。書いてあったのは、'入棺'の二文字。

 館に入る方の入館ではない。棺桶に入る方の入棺である。


 そのカフェはいわゆる、終活に関するイベントを沢山行なっているカフェだ。セクシュアルマイノリティは自殺率が格段に高いことが、終活支援やイベント開催をきっかけになっている。

 正直、生きているうちにお世話になるなんて思わなかったが、とてもいい経験になりそうなので行くことにした。



 ***




 とりあえず、イベントへ出かける時には逐一美人上司に報告するので、次の日出社して、次のように報告した。


「あの、棺桶入ってきます」

「……どゆこと?」



 半笑いでそう返された。

 まあ、至って普通の反応だろう。この世の中で、生きているうちに棺桶に入る機会なんて殆どないと思うし。普通死んでからお世話になるものだろうし。……まあ、遅かれ早かれいつかは入ることになるのだから、記憶のあるうちに体験してみるのもとても面白いと思う。


 詳しい経緯を話したら、美人上司も行きたがっていたが、その日は都合が付かず私1人でソロ参加することに。


「では、棺桶入ってきまーす!」

「生きて帰ってきてねー」



 縁起が悪いことこの上ないと叱られるかもしれないが、所詮ただの大きな木の箱に入る、くらいに思ってほしい。



 そんなこんなで私はオフィスを出発した。ちょっとどんな雰囲気なのか予想もつかなかったので不安もあったが、反面ワクワクしていた。

 会場に入ると、思っていたより人がいた。募集は8名で、最初からマキシマムの人数が少なかったのだが、スタッフを含めると10名を超えている。

 そして、その中に1人だけ袈裟姿のお坊さんも混じっていた。

 今回の入棺体験は、LGBTとアライ(セクシュアルマイノリティ理解者)限定のワークショップとなっていた。別にセクシュアリティを言ってもいいし、特に言わなくても問題はなかった。



 なぜ、このイベントをセクシュアルマイノリティ向けにしたかというと、先ほども少し触れたように、彼らは将来に対して、決して楽観的な目を持っていないからだ。

 例えば、現状の日本では同性間の結婚は認められていない。となると、同性愛者の方は一生独身として生きるか、自分を偽って結婚するかの二択になる。どちらの道を選ぶにせよ、孤独死のリスクや、親や周りからの目線、一生つきまとう嘘と、辛く困難な道が待っている可能性が高い。

 また、同性間の結婚が行く行く認められても、子どもを持つことができなかったり、レズビアンカップルやトランスジェンダーの方々には、収入の問題も立ちはだかる。

 レズビアンカップルは、女性であることも加わりダブルマイノリティだ。一般的に考えて、収入が男性より低い場合が多いだろう。

 トランスジェンダーは、そもそも就職が難しい。履歴書の性別欄に、まず第1の関門がある。トイレ問題や、ホルモンの費用もかかる。手術はお金だけではなく時間もかかるため、会社に勤めていては休みを取るのが難しく、定職につきづらい傾向にある。

 このような金銭面での問題も多く、将来について不安を抱いているセクシュアルマイノリティは多い。そもそもロールモデルがないから、自分がどうなっていくのか想像が難しいのだ。

 老後の悩みを、若い頃から彼らは抱え、悩んでいる。

 そして、死を選ぶ人がいる。


 入棺体験には、自分の死を想像して考えるという意味もあるが、死を意識することによって、生も考えることができるのである。



 さて、すっかり説明になってしまったが、本題の入棺体験について話そうと思う。

 まず最初に行ったのは、簡単なアイスブレイク。二人組になって、「あなたは誰ですか?」と3分ほどひたすら質問して、それに答えてもらう。そして逆も行った。このワークで、自分とは何者なのかが見える。私とペアを組んでいただいた男性が、かなり掘り下げて自分のことを話してくれたので、私もそれなりに自分のことを開示した。


 二つ目に行ったのは、弔辞作りだ。自分に向けての弔辞を考えた。

 正直に言うと、私は一度も自分が死ぬということは考えたことはなかった。父や母もありがたいことに健在なので、こんなことを考えるのは初めて。ましてや二十代で自分に向けた弔辞を考えるとは、誰が想像しようか。完全なる弔辞初心者だ。そもそもお葬式に出たのも小学生と高校生の時に二回だけ。記憶も曖昧だった。

 加えて、個人的な事情で三年後の自分が何をしているかもわからないし、そもそも海外にいるかもしれないし、どこで生きていくのかですら見えていない状況だ。その中で弔辞を読んでもらう人を決めて、内容を考える必要があり、周りがスラスラと書く中で、筆は全く進まない。

 読み手は将来のパートナーなのか、子どもなのか、それとも飼っているペットか……。そこから決めなければならず、なかなかハードルが高かった。

 このワークでは、自分が将来どうなりたいのか、人からどう見られたいのか、という部分が浮き彫りになる。



 弔辞を書き終え、休憩に入ると、袈裟姿のお坊さんがいつのまにか三人に増殖していた。なんと、それぞれ宗派が違うという。こんな風に一挙に三つの宗派のお坊さんが集まっている場は見たことがなかったので、ちょっと興奮する。しかも、私の家系の宗派はない。


 そしてついに、本日のメイン、入棺体験が始まった。

 棺桶に入る時、希望者は弔辞を読んでもらえるオプションがあった。そして、入っている間に先ほどのお坊さんズの一人にお経を唱えてもらえるというわけだ。

 とりあえず、私は弔辞は恥ずかしかったし、ちょっと周りの人と聴き比べて幼稚だったので読んでもらうのはやめた。

 自分の順番が来て、ドキドキしながら靴を脱いで棺桶に足を入れる。

 見た感じは割と広い。寝てみると、結構寝心地がよかった。そして、本番さながらに布団をかけてもらい、完全に蓋を閉めてもらう。

 棺桶の中は、真っ暗になった。「大丈夫ですか?」と声が掛かったが、その声も締め切っているせいか遠くに聞こえる。「大丈夫です」と返したら、聞こえなかったのかもう一度聞き返された。

 なんだか目を瞑ることが出来なかった。お経が始まると、近くにいるはずなのにやっぱり遠くに聞こえて、自分が現世から離されたような感覚に陥る。


 祖父も祖母も、こんな感じだったのだろうか。そう、過去のお葬式のことを思い出した。私は、自分の死のことではないが、'生と死'について、深く考えた経験がある。

 私の誕生日は、二度なかったことになった年がある。小学四年生の時と、高校三年生の時だった。祖父が誕生日前日に亡くなり、それどころじゃなかった年と、祖母が五日前に亡くなり、丁度お葬式当日になった年のことだった。

 幼いながら、自分が誕生日だということも周りに言わなかったし、周りからおめでとうと言われることも違うし、無くていいんだと理解していたが、今でも誕生日が来ると、その時のことを思い出して胸が切なくなるのも事実である。やっぱり、家族がすぐそばにいるのに祝ってもらえないというのも切ないものだった。祖母が亡くなったときは、確か母がどこかでケーキを買って来てくれて、それを食べた。その時は「おめでとうなんて言わなくてよかったのに」と泣きながら食べた記憶がある。むしろ、忘れてくれた方がよかった。中途半端な気持ちでおめでとうなんていう気にならないときにその言葉をかけられても、私もどういう気持ちになればいいのか、どういう返事が正解なのか、わからなかった。

 生と死、どちらが優先すべきものか?と問われたら、私は間違いなく死を選ぶ。祖父と祖母と、父と母。彼らが一緒に過ごした時間に、私は叶わない。

 毎回誕生日の日になると、素直に楽しめないのもこの経験があるからということもあった。どうしても、誕生日のケーキを食べるといつも、あの日が思い出されてしまう。正直、あまり誕生日にいい思い出がない私は、毎年自分の誕生日が苦手だ。私にとってこの死の経験を切り離すことはできなかった。


 棺桶に入って、このように死のことについてたくさん考えることができた。今までの思い出と共に。死とはどういうものなのか、どういう風に自分は死へ向かって行きたいのかを見つめ直すいい機会になったと思った。

 こうして私の入棺体験は終わった。


 一人のゲイの方が、最後に言った。


「入棺体験で、死を感じると共に、やっぱり自分は今生きているんだと、生を感じることができました」


 生と死は、表裏一体。そんなことを再確認できる体験だった。


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