第30話

 社務所へ駆け込んでタクシーを呼んでもらう。大至急鎌倉駅まで。そこから横浜へ取って返した。横浜駅でまたタクシーに飛び乗る。

 目指す場所はただ一つ。海の見える丘の上に建つ瀟洒な洋館、片岡かたおか邸。

 最初からダブって見えたのだ。あれは予兆だったのか?

 見よ、館のあのシルエット。我が家、興梠医院にそっくりではないか……!


 ―― あら! そっくりじゃないわ。あそこには私はいないもの。


「!」


『片岡邸に猫はいますか?』

『いいえ、当邸には猫はいません。猫がいたことは一度もありません。』


 ノアロー、ありがとう。俺を勇気づけてくれて。

 興梠こおろぎは心の中で囁いた。

 俺は絶対……負けはしない。大丈夫さ、うまくやる。今、存在する命は全て救って見せる。これ以上、あの館で誰一人、逝かせはしない。

「あれ?」

 いきなりタクシーの窓硝子に顔を寄せて志儀しぎが左右を見回した。

「今、猫の声が聞こえた気がしたんだけど。聞こえた、興梠さん?」

「いや、空耳だろう、きっと……」




 片岡邸の外見は何ら変わったところはなかった。弓部ゆべ警部補が張り付けた警察官が数名、きっちりと周囲に立って邸を護っている。だが――

 呼び鈴に反応がない。いつもならそそくさと扉を開ける老執事はいつまでたってもやって来ない。扉を押すと開いた。

 まず興梠は食堂へ向かった。

 テーブルに突っ伏している二人の女性。当邸の女主人・瑠璃子るりこ夫人と家庭教師兼話し相手コンパニオン笹井ささい嬢だ。倒れたティーカップ、零れた紅茶、散乱する猫の舌ラング・ド・シャ……

「うへっ!」

「大丈夫だ、フシギ君。眠らされているだけだ」

 多分、夫人が処方された睡眠薬ベルナールが悪用されたのだろう。首筋に指を当て脈を確認した探偵が次に足を向けたのは厨房奥の使用人用の食堂。

 ここに執事の河北かわきた以下、料理人の三宅洋介みやけようすけ、女中頭根本ねもとはつ、3人のメイドたち、菊池佐和子きくちさわこ小林典子こばやしのりこ藤堂とうどうユミ。それに、運転手の有田次郎ありたじろう木村鉄平きむらてっぺいまでいた。

 全員、夫人や笹井嬢同様、茶器と菓子を囲み昏倒していた。

 予想していたので興梠は殊更ことさら驚かなかった。今この邸内で意識のある者は一人しかいない。自分たちを覗いては・・・・・・・・・


 玄関ホールへ戻る。

 左手に果てしなく続く石の森、右手には居並ぶ古き武者たち。その間を抜けて階段を昇る。2階へ。

 正面に見えてきた部屋――

「興梠さん?」

「――」

 迷わず、書斎の扉を押し開いた。



「わが片岡邸、書斎へようこそ!」


 少年がいた。


 片岡青生かたおかしょうきは窓際の、椅子代わりにクッションを敷いたアンティーク・コファーに座って庭を見下ろしていた。

 ゆっくりと振り返って微笑む。


「えええ? じゃあ……」

 興梠の後ろで志儀が息を飲んだ。

「犯人て……青生しょうき君……?」

 助手の質問に青生は答えない。その目は探偵だけに向けられている。

「今日中に来ると思ってたよ、興梠さん。だから、今か今かと待っていたんだ」

「間に合って良かった!」

 ピクリ。

 興梠の返答に、青生の睫毛が震える。

 とはいえ、それはチョウチョの羽ばたきにそよぐ花びら程度だ。

 令息の表情からは何も読み取れなかった。

「ふぅん? ということは……謎は全て解いたんだね?」

「謎! ハッ、それだ! 興梠さん、どうしてこの・・青生君が真犯人だってわかったの?」

 青生は膝を抱いていた腕を解いて大きく広げた。

 どうぞ、探偵さん。謎解きの説明は貴方に譲るよ、という仕草。

 受けて興梠は一つ頷く。

「うん。まず、最初に片岡邸に送り付けられた4通の手紙、その絵柄だ。


 〈目を開けた仮面〉〈耳の付いた仮面〉〈アイマスク〉〈目を閉じた仮面〉……


 

 


 そして、最後の一枚――

 今日、浄光明寺じょうこうみょうじの鳥居の墓の前に置かれていた〈オレンジ色の靴下に翡翠色の靴を履いた〉少女の足の絵。



 これらは全部、一枚の絵から写し取ったものなのだ。

 その絵こそ〈舞踏会の前〉。描いた画家の名は藤田嗣治ふじたつぐはる

「フジタツグハル……」

「気づいたかい、フシギ君? そう、青生君の部屋にあった少女の絵もこの画家の作品だ」

 興梠は前髪を掻き揚げた。

「だから、あそこで僕は気づくべきだった――」


 〈舞踏会の前〉は藤田嗣治1925年の大作である。裸婦の大型群像画でそのタイトル通り、舞踏会前の身支度に余念のない美女たちが生き生きと描かれている。最初の4通の手紙に模写された諸々は床に転がっている小物から。最後の一枚、弓部警部補が驚嘆した斬新な色彩の靴と靴下は、画中、唯一の少女像から抜き取っている。画家はこの年39歳。フランスで最も権威のあるレジオン・ドヌール勲章を受章した。


「僕の犯した失策はもうひとつある。笹井嬢の繰り返した映画のタイトルにもこの言葉は入っていた」


舞踏会・・・の手帖〉


「彼女の自室のポスターも目にしたのに! 舞踏会、舞踏会、舞踏会……

 それを聞くたびに、僕の心をザワつかせた〝何か〟は4枚の絵について教える意識下の警戒音だった……」

「で、でもさ、それだけで?」

 志儀が素っ頓狂な声を上げる。

「同じ画家の描いた少女の絵を壁に飾っていたからって……それだけで青生君の仕業だと決めつけるわけにはいかないだろ? それじゃあいくらなんでも強引すぎるよ!」

それだけ・・・じゃない」

 興梠は真正面から少年の瞳を覗き込んだ。

「君は、この藤田画伯の絵を暗号として使用したのだ。しかも、いくつもの意味を埋め込んでいるね、青生君?」

 興梠は続けた。

「〈舞踏会の前〉……それはそのもの、〝犯行の予告〟だ。君がこれから行おうとしている凶行の。それから――犯人の〝居る場所〟も告げている」

「?」

「タイトルを分解して見たまえ。フシギ君。何が隠れている?」



   〈舞踏会の前〉


  ブトウカイノマエ

  

  カブト ウエノイマ…… 

  或いは、

  カブトノマ……



「ええええ!? こりゃ、凄い! 見事なアナグラムだ!」

「お褒めの言葉、ありがとう。まぁ、これはずっと前から偶然気づいてたのを今回、利用したんだけどね」

 青生は肩越しに窓を見た。雪はない。陽の当たる芝生に目をやってから、今度こそしっかりと志儀を見つめる。

「僕の部屋を見たろう? 君の言によれば『寒々とした雪原のような』さ。あそこの壁には〈舞踏会の前〉も飾ってあったんだよ。僕のイチバンお気に入りだから。

 ね? 想像してみてよ。あの絵があったら、僕の部屋ももう少し賑やかで明るい印象だったはずだぜ? でも、流石に、これを見られたら一発で謎を解かれるから、外したんだよ」

 静かに響く探偵のバリトン。

「だが、重ねているのはこれだけじゃない。実は〝犯人の名〟も暗示している……」

「あ! やはり!? そこも気づいてくれたんだ!」

 少年は満面の笑顔で叫んだ。

 もう一人、少年助手の方は首を傾げるばかり。

「どゆこと?」

「カブト、イマ、ウエ」

 

    兜、今、上


「だから、階段を上がりながら、僕は君が・・ここで待っていると確信していた――」

 興梠は少し間を置いてから、一気に言い切った。

「君の名、青生・・は、青生生魂アポイタカラ、または ヒヒロカネ。こちらは漢字では緋緋色金ヒヒイロノカネとも書く、古代日本が産した伝説の鉱物から取ったのだろう?」


 この青生は古文書〈竹下文書〉にれば最強の金属だったらしい。金より軽く、金剛石ダイアモンドより硬く、錆びることが無い。陽のように輝き、雪のごとく冷たい。それ故、武具、甲冑に最適だと記されている。


「この片岡邸で兜に繋がる名を持つのは君だけだ・・・・


  パチパチパチパチ……


 乾いた拍手の音が室内を満たした。

「流石! 我らが名探偵! 見事な深読みだな! そこまで読み取ってくれるとは!」

 青生は瞳を閉じた。

「モロ、父親の趣味だよ。あいつは鉱物マニアだから。ここだけの話、大勢の花嫁候補の中から母様を選んだ理由も名前が気に入ったからだってさ」

 言わずもがな、瑠璃るりはラピスラズリのことである。

「そんなわけだから、僕の名も、そして姉様と妹も、あいつが付けた。僕らはあいつの所有物さ。飾っているイシコロとおんなじ。それ以上の価値はない」

 カッと目を見開く。

「尤も、僕はイシコロとしてもデキソコナイ。飾るに値しない。取り除いて粉砕したい異物だったろうな! ほんと、名前負けもいいとこだ」

「君は異物なんかじゃない」

 興梠は一歩前へ出た。

「僕はもう少し詳しく知っているつもりだよ。私立探偵を見くびってもらっちゃ困る」

「へえ? 例えばどんなこと?」

 ズバリ、興梠は言った。

「今回の、片岡家次女・珪子けいこちゃん拉致事件は救出劇だった。妹さんの命を守るための」

「!」

「フシギ君、青生君はね、妹を守るためにその身柄を隠したのだ。これは、言うなれば、安全のための避難措置だよ」

 志儀は頭を抱えた。

「だ、だめだ、この事件、僕にはさっぱりわからない!」

「僕だって全てがわかっているわけではない」

 背筋を伸ばし、更にもう一歩、興梠は踏み込んだ。少年との距離を縮める。

「本当のことを話してくれ、青生君。君がこんなことをするに至った理由――真実を、今こそ教えてくれ」

「……ここまで辿りた着いた貴方に敬意を表して、全てを話すよ。それが僕のこの世での最後の務めだと思ってもいるから」

 片岡青生は座っていたアンティークの家具から飛び降りた。

「何から話そう。そう――

 まず最初に僕が断っておきたいのは、今回、妹の珪子の拉致を決行した時点で僕は決めていたんだよ。

 片岡邸にまつわる怪事件は今回で最終章を迎える。全ての幕が下りたら、僕は潔く自分の犯した罪のカタはつけるつもりだ。

 でも、事件を担当することになった弓部警部補から『解決の為に芸術に造詣の深い私立探偵に協力を求めることにした』と聞いて、僕は計画をチョット変更した。最初の予定より謎の手紙を増やしたのさ。もちろん、時間稼ぎの意味もあったけど、何より――」

 少年は唇を噛んだ。

「貴方に挑んでみたかった。謎解き合戦をして、そして、貴方の心に僕と言う存在を刻みたかった。僕のこと憶えておいてほしかったんだよ。罪を清算する覚悟はしたと言ったけど、やはり16年でこの世を去るのは儚な過ぎる。虚し過ぎるじゃないか!」

「青生君――」

 指揮棒タクトを振るようにサッと手を振る。

「OK、自己憐憫はここまで。では核心へ入ろう。

 10年前のあの日、僕は」


 そう言って片岡家長男・青生は話し始めた――




☆藤田嗣治 〈舞踏会の前〉……

http://www.museum.or.jp/modules/topNews/index.php?page=article&storyid=3705


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