第22話

 タクシーを片岡かたおか邸の前で止める。探偵と助手を降ろすと弓部ゆべは言った。


「では、僕は本署へ戻ります。曽根武そねたけしの家族の現住所について徹底的に調べなくては」

「良かったね! これで今日1日が無駄にならなかったもの! 弓部警部補、花束を見つけた僕に感謝してよ」

「これ、フシギ君」

「ああ、君のお手柄だよ――」

 少年の軽口に弓部は真顔で頷いた。

「僕は恥ずかしい。君がいなかったら『ただの花だ』と言って気にも留めず切り捨てていただろう。ホントに警官失格だよ」

「えへへ、まぁ、そんなに自分を責めないでよ! 興梠こおろぎさんだって似たようなものさ。だいたい男にとって花束なんか日常では縁がないものね?」

 志儀しぎはペロリと舌を出した。

「正直に言うとね、僕もいつもなら草の中に花を見ても見過ごしたと思う。僕が『花束だ!』って気づいたのには理由わけがあるんだ。最近、身近で花束を見たからさ! ほら、今日の昼過ぎ、荏原えがら天神社の道で迷ってた時――」

 ここで突然、目の前を白い塊がよぎった。続いて響く警部補の叫び声。


「うわっ?」

「きゃんきゃんきゃん……」


 なんと、一匹の犬が、開いたままだったタクシーの後部ドアから飛び込んだのだ。弾丸のごとく前の座席に突進して警部補の顔を舐め回す。ちぎれんばかりに尻尾を振っている。

 とっさのことで探偵も助手も棒立ちのまま動けなかった。目をみはってこの様子に見入るばかり。

「シュニー! シュニー! およしなさい! ダメですよ!」

 遅れて駆け込んで来たのは金髪の西洋婦人だった。ワンピースの裾を翻し車内に乗り込む。何とかリードを掴んで子犬を弓部から引き離した。

「失礼しました! 普段はいい子なのに――あら、貴方?」

 恐縮して謝罪した婦人の顔に満面の笑みが広がる。

「貴方でしたか! この間はたくさん遊んでいただいてありがとうございました! ああ、だから、シュニーが憶えていたのね?」

 まだ弓部に飛びつこうともがいている子犬を抱きしめながら、婦人は親し気に話しかけた。

「お嬢ちゃんは今日はご一緒じゃないのですか?」

「人違いです。マダム」

 警部補は婦人から顔を叛けて運転手に命じた。

「何をしてる、早く、ドアを閉めたまえ」

「あ、はいっ」

 飛び降りて後部座席のドアを閉める運転手。弓部も助手席の窓ガラスを閉めながら車外の興梠に早口に言った。

「では、僕はこれで。何か変わったことがあったら連絡してください。君、山手署まで頼む――」

 慌ただしくタクシーは走り出した。

「まあ、人違いでしたか! ごめんなさい。悪い子ね、シュニー。でも……似ていらしたわよねぇ? 貴方が間違えても仕方ないわ」

 婦人は愛犬の鼻にキスしてから、立ち尽くす興梠と志儀にも軽く会釈した。

「オトモダチの皆さんも、お騒がせしてごめんなさい。では、ごきげんよう」

 犬を地面に降ろすとリードを引っ張って歩き出した。

「フシギ君!」

 目配せする探偵に敬礼で応える助手だった。

「アイアイサー! 合点招致!」

 二人は犬と婦人を追って駆け出した。

「ちょっとお待ちください、マダム!」

「失礼、マダム!」

「?」

 振り返った婦人に興梠は単刀直入に尋ねた。

「よろしかったらお話しを聞かせてください。さっき口にされた〝人違い〟とはどういうことでしょう?」





 片岡邸から少し離れたところに公園がある。

 そのベンチに腰掛けた三人。目の前には青い空。その下に更に深い海の青。海辺の町の贈り物、美しいグラデーションだ。

「本当に、貴方がたのご友人にはご迷惑をおかけしました」

 膝に乗せた犬を撫でながら婦人は笑った。年の頃は二十代後半くらいか。若く溌溂としている。日本語も流長だった。

「デモ、言い訳するのではないけど、こんなこと初めてなの。ウチのシュニーはそれはもうお利口さんでお行儀がいいんですもの!」

「お聞きしたいのはそのことです。一体、何があったんですか?」

「それが変なのよ。なんというか……半月くらい前になるわ。この子といっぱい遊んでくれた親子連れに会ったの。その人にさっきの方はそっくりでした。それで、私もシュニーも間違ってしまいました」

 悲しそうに首を振る西洋婦人。金の髪と耳に付けた翡翠が優しく揺れる。

「でも、人違いだったのね! そういえば感じがチョット違うかしら。あの日の人はスーツ姿じゃなかったし娘さんもご一緒だった」

「娘さん?」

「ええ、可愛らしいお嬢ちゃん! 動物が大好きだと言って、駆け寄って来たの。シュニーとすぐ仲良しになって、30分くらい公園で――そう、ここよ。まさに、ここで、遊んだわ」

「うん、ホントに可愛らしいワンちゃんですね! シュニー!」

 志儀ももう仲良くなっている。

「マルチーズという犬種なの。日本にはまだそんなにいないでしょ?」

「ちっちゃいのに元気がいい犬だなぁ! ちょっと走らせて来てもいいですか?」

「もちろんよ! ドウゾ!」

 パーゴラを抜け、バラの花壇の周りを駆け廻る少年と犬。それを嬉しそうに見つめる婦人に慎重に興梠は訊いた。

「マダムはこの近くにお住まいなんですか?」

「いいえ、ちょっと離れているの。でも、月に何度かはこの辺りまで足を延ばします。散歩道を変えないとシュニーが飽きるでしょう? 私も、同じ風景だと面白くないもの。横浜はとても美しい街ね!」

 婦人は夫が、この丘の下に建つバンドホテルのシェフ長なのだと語った。この町が大好きだ、とも。

「いつまでも住んでいたいわ。日本とドイツは信頼できる善き友人ですものね! 対ソ連の防共協定は本当に心強いわ」

 婦人が口にした軍事同盟はやがて日独伊三国同盟へと発展して行く。国際ダンス大会の開催で知られる華やかなバンドホテルも、数年後にはドイツ大使館と契約を結びドイツ軍専用のホテルとしてUボートの乗組員の定宿となるのだ。だが、今はそれについて語る時ではない。

「さっきの、親子連れの話ですが、ひょっとして、その娘さんとは、この子ではなかったですか?」

 興梠が差し出した写真を見て即座に婦人は頷いた。耳飾りと同じ色の瞳を煌めかせて、

「ああ、そうよ! そのお嬢ちゃん! 白いレースの付いた水色のワンピースを着てたわ!」





「これってどういうこと? 弓部さんは珪子けいこちゃんとは面識がないって言ったはずなのに。珪子ちゃんを知ってるのみならず、一緒に歩いていた?」

「まあ、待ちなさい。整理してよく考える必要がある。マダムが言うように単なる人違いってこともあるからね」

 婦人とシュニーが去った後も興梠と志儀は公園のベンチに腰を下ろしたままだった。

「でも、その写真を指してマダムははっきりと『この子だった』って断言したんでしょ?」

 ズバリ、核心を突く少年助手。

「それは珪子ちゃんの写真だ!」

 興梠が示したのは弓部本人から資料として渡された片岡家次女の写真だった。

 更に志儀は決然と言い放った。

「それから、犬だ! 犬はヒトを間違えっこない! 今度会ったら、シュニーはまっすぐ僕に跳びついて来るよ! 賭けてもいい。だから、今日、跳びつかれた弓部さんは、以前一緒に遊んだ、マダムの言うところの〝親子連れの父〟なんだ! 犬は憶えていたんだよ!」

 ここまで一気に言った後で志儀は口を閉ざした。睨むように夕焼けに染まった水平線を見つめる。

「誘拐される前に、珪子ちゃんは弓部警部補と知り合いだった。しかも、親子と間違えられるくらい親密に連れ立って歩いていた……」

 ゆっくりと探偵を振り返る。

「ねぇ、どうして弓部さんはこのことを言わなかったんだろう。繰り返すけど、弓部さん、珪子ちゃんとは面識はないと言い切っていたよね?」

 何故、そのことについて黙っていたか? 待てよ・・・……

 興梠はハッと体を強張らせた。

 今日、鶴岡八幡宮で口籠った弓部を思い出したせいだ。


 ―― 白い犬ですが……

 ―― はい?


 あの時、警部補は2代目執権北条義時ほうじょうよしときが見た白犬について、その解釈に関して何か言いたいのかと思ったのだが。弓部は酷くしゃべりにくそうだった。あの場で口にした〝白い犬〟とはひょっとして、〝ドイツ婦人の犬〟のことだったのだろうか? 俺に何か伝えたかった……?

「それにしてもさ、興梠さん」

 しかつめらしい顔で志儀が言う。

「今回のマダムの証言……これって、迷路から抜け出る、新しい道、決定的なルートなんじゃない?」

「いや、逆に、もっとこんがらがった道かも知れない」

 更に深く迷い込む道、あるいは暗い行き止まり。先に行くほど細くなる危険な隘路ボトルネック。謎を解く前に道から足を踏み外す危険すらあり得る――

 刹那、今日訪れた曼荼羅まんだら堂を思い出す興梠だった。

 死者たちの声が風に乗って響いていた墓の谷……

 あのまだ色褪せていない花束は誰に手向けられたものなのだろう? 古い死体ではなく新しい死体? 現在生きている人間? まさか俺ではないよな?


  ( ハハハ、悪い冗談だ。 )


 笑い飛ばして即座に興梠は打ち消した。だが、警戒を怠らないように気を引き締る。


 いずれにせよ、この迷路の果てに待っているのは天使ではなくて悪魔なのかも知れない……






 その夜、弓部警部補は片岡邸には戻って来なかった。代わりにやって来た部下の巡査部長の言によれば、警部補は曽根の遺族の現在の所在追跡に全力を注いでいるとのこと。

 夕食の席で興梠は片岡家の面々に伝えた。

「今日、弓部警部補と一緒に廻ったいくつかの場所で、それなりに考察すべきものや気になる事柄を発見しました。ですが、まだ今の段階でお話しすることはできません。どうぞご理解ください。更に精査した上で報告したいと思います」

「……そうですか」

「興梠様、なにとぞ、よろしくお願いいたします」

「奥様! 大丈夫ですわ。珪子ちゃんはとても賢くて芯の強いお子様です。どうか、希望をお捨てにならないで……」

「チェ、なーんだ、進展無しか!」

 表現は違うものの落胆を隠せない片岡家の人々。このため、ほとんど会話のない夕食となった。

 自室に戻るとコーヒーテーブルに資料を並べて、改めて今日までの経過を確認する。

 犯人から届いた謎の手紙の中で、未解読のものは二つだ。




人面(目を開けている)/獣面/アイマスク/人面(目を閉じている)



鳥居(形) ハカ(カタカナ)


   





 こうやって見ると最初に届いた手紙群――1通めから4通めまで――と、最後の、風で揺れる蝋燭の火文字から写し取ったものでは明らかにパターンが違う気がした。

「なんだろう、この差――違和感は?」

 呻く興梠に後ろから覗き込んだ志儀が言う。

「謎の作り方が違うんだよ。つまり、謎を考えた人が違うのかも」

 少年は指摘した。

「僕、犯人は複数いると思う。その中に少なくとも女の人が1人いる。電話で珪子ちゃんが呼びかけた『お姉ちゃん』と、貴方が覚園寺かくおんじ境内で目撃した〈スカーフの女〉さ。これは同一人物と見ていいんじゃないかな」

 親指を噛みながら、

「この謎のメッセージのどちらか・・・・はその女の人の発想なのかも知れないね?」

「うーむ……」


 二人とも、今考えつくことはこのくらいだった。

 やはり、明日、弓部本人に、白い犬と、その飼い主のマダムが話した内容について、詳しく訊いてみる必要がある。



 だが、翌日。

 弓部警部補は片岡邸に姿を見せなかった。



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