第21話
「どうかしましたか、
「あ、失敬。本筋とは関係ないんだが、美しい名だと思って……」
「?」
興梠が見つめていたのは近辺の地図を掲示している案内板だった。
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「この、現在地の番地名――」
「ああ! 〈雪ノ下〉ですね?」
警部補も即座に顔を
「僕も、そう思います。やけにロマンチックな名だ。まるで女学生が付けたみたいでしょう? だが、命名の歴史は古いんです」
「というと?」
「博識な貴方だ。僕が語る間にきっと思い当たると思いますが――せっかくなので説明させてください。この〈雪ノ下〉という地名の由来は……」
そう言って少々得意げに
「《吾妻鏡》によると、建久2年(1191年)2月17日に雪が5寸(10cm)積もった。雪見のために鶴岡八幡宮を訪れた
「5寸の雪か!
「その実朝暗殺の場面にもこの〈雪ノ下〉は出てきますよ。これが、かなり壮絶なんだな」
含み笑いの弓部に
「へえ、聞きたい聞きたい、どんなの?」
「源実朝を暗殺した甥の
※阿闍梨=高位の僧
それを追って
興梠の表情を窺う。
「どうです? 激しい戦いの様子が目に浮かぶ、生々しい書きっぷりでしょう?」
探偵が相槌を打つのを待たずに元文学青年の警部補は続けた。
「首二つ……最初に取った首と、それを取った者の首を並べて、坊内で
「へぇー、その櫃の中に雪は入ってたのかな?」
「なるほど! ロマンチックと言うよりは凄愴……ピカレスクなイメージですね」
興梠は大きく頷いた。
「いや、勉強になりました! 僕はその逸話は全く知りませんでした。それにしても――」
雪と血……カラヴァッジョ、あるいはドラクロアにでも描かせたい絵画的な光景ではないか!
「まぁ、実は、この地域に植物のユキノシタが多く生えていたからだという説もあるんですがね。僕としては、やはり雪……鎌倉にはどこまでも舞い散る雪のほうが似合うかと……」
「ねぇねぇ、ロマンチストのお二人さん、盛り上がるのはいいけど、僕たち、結局、まだ何一つ謎に迫れてないよね?」
「……そうだった」
胸の内の、純白の雪は消え失せて探偵は暗鬱たる現実へと回帰した。
「12時過ぎか。まだ時間はあるな」
腕時計を見ながら警部補が言う。
「どうです? 昼食を食べたら……午後は
「まんだらどう?」
「ええ、
弓部の顔からも今しがた史実を語った、あの楽し気な笑顔が消えている。
「地元人ではない貴方たちにはピンと来ないかもしれませんが、この曼陀羅堂という場所、あそこもある意味、ハカの
( ハカの範疇? )
警部補の気になる物言いに、昼食もそこそこに一同はタクシーに乗り込んだ。
曼陀羅堂は鎌倉七口のひとつ、
名越切通は中世の頃、鎌倉と
その古道を車で行ける処まで行った後、弓部警部補を道案内に、ひたすら歩く。
3人とも健康な青年男子で良かったとつくづく思った。道筋がいきなり鋭角に曲がっていたり、道の真ん中に巨大な石が置かれていたり――
「鎌倉の切通はどこもこんなものです」
帽子で顔を扇ぎながら弓部が言う。背広の上着はとっくに脱いで小脇に抱えていた。
「軍馬が走り抜けられないように、そして大軍が一挙に通過できないようにわざと悪路にしているんです」
道の両側の荒々しく削られた岩肌や苔むした巨石を眺めながら汗を拭う興梠。
「この古道は頼朝が幕府を開く以前からあったと書物で読みました。ヤマトタケルが東征の際、通った道だという説もある。実際にこうして自分の足で歩くと――信じる気になりますね」
「あ、あの階段は何? 秘密の回廊みたいにソソラレルな!」
道脇の斜面、夏の樹木が紗幕のように隠している石段を見つけて志儀が興奮した声を上げる。
「流石、探偵助手だね! まさに、
登り切ると、3人の前に異世界が出現した。
開けた大地をぐるりと取り囲む緑滴る絶壁。そこに黒い穴が巨人の目のように並んでいる。
数にして150余り……
「これは……凄い……」
「…こんな場所が鎌倉にあるんだ!」
未だかつて見たことのない奇景に呆然と立ちつくす探偵と助手だった。
「鎌倉は色々な顔を持っていますからね。閑静で質実剛健な武士の都。花や緑、海の風煌めく観光地。だが、同時に黄泉へ続くかと思わせる深淵が至るところ口を開けている……」
弓部は腕を広げて眼前の風景を指し示した。
「お二人とも寺社の
ここはその集大成……市内最大の巨大なやぐら群なんです」
やぐらとは既に記した通り鎌倉特有の、崖に横穴を掘って造る墓所である。
「中世の頃、武士や僧侶、豪商の墓でした。曼陀羅堂の名は、かつてこの地にあった供養堂からついた呼び名です。尤も、その堂がどんな形で、いつ頃まであったのか、今となっては知りようもありません」
「ここで死んでたの? その電気屋さん?」
ブルルッと志儀は体を震わせた。
「ひやあ、僕、こんなとこ真昼間でも、なんか、背中がゾクゾクする。とても一人じゃ来ようとは思わないよ。一体全体、何だってこんな場所にいたんだろう?」
「ここに潜伏していたのではないか、というのが当時の見解です」
警部補は説明した。
「逃げ出して隠れていた――このことからも曽根武犯人説が濃厚だと我々警察は思ったんです」
「但し、物証は何一つ出なかった?」
興梠が確認する。
「ええ。だから、容疑者未定のまま死亡、不起訴という扱いになりました」
弓部は一番高い横穴を指差した。
「あの辺りから、足を滑らせて落下――転落死と断定されました。真下の地面に並んでいた供養塔がいくつか粉々になっていました。死亡推定時間は夜の7時から0時前後」
「フシギ君の言う通りだな」
今一度、周囲を見回して興梠も身震いした。
「こんな処、いかに潜伏とはいえ、夜は出歩かないで丸まっていたいと思うだろうね」
「それを動き回ったというのは、誰か他に人がいた。もしくは、やって来た人に呼び出されて穴から出て、その際足を滑らせた、または、突き落とされた……?」
推理を巡らす少年助手。弓部は眉の間に皺を寄せて、
「どれも想像の域を出ないけどね。死体が発見されたのが姿をくらませてから7日後でした。その間、降雨もあり第三者の足跡等は確認できなかった」
淡々と事実を語る弓部警部補。
「死体の発見も偶然で、もっと遅くなった可能性もある。たまたまハイキングでやって来た学生たちが見つけたんです」
「ホピの峡谷のようだな」
唐突な興梠の言葉に志儀が反応する。
「なんなのそれ?」
「うん、アメリカンインディアンの聖地だよ。ホピ族は独特の美しい芸術品を創出した。彼らの住む谷を写真で見たことがあるが――こんな風だったな」
国や人種を超えて人間は魂の籠る場所を知っているのかも知れない。
今、吹き過ぎて行く風。その風の中に、曽根だけではない、たくさんの死者の声、魂魄の気配を感じる。
興梠は姿勢を正して合掌した。弓部も続いた。志儀も手を合わせようとして、
「ああっ! あれ見て、興梠さん!」
「?」
少年助手の指さした方角、3人が立っている場所よりやや離れた崖の下、生い茂った草の中に見えたもの。
「花だろう? 珍しくもない。この辺りはショウブやアジサイの自生地なんだよ」
警部補の言葉を口を尖らせて少年は訂正した。
「違うよ、〝花〟じゃない、〝花束〟だよ!」
駆け寄って拾い上げる。
「ほら! きちんとまとめられている! しかも、まだ新しい。数日前に置かれたってカンジ」
「ふむ、タカサゴユリ、シラン、カイユか。いずれも白で、園芸品種――花屋の花だね」
興梠も頷いた。
「確かに、ここに咲いていたというのではなさそうだ」
「流石、興梠さん! 花にも詳しいんだね。ふうん、この花、タカサゴユリっていうのか……」
( どこかで見たような…… )
少年はつくづく花に見入った。傍らで、帝大で美学を収めた探偵の解説は続く。
「タカサゴユリは台湾の花で大正時代から輸入されている。それから、その細い花、シランはシェイクスピアのハムレットで出てくるよ。人の指みたいだろう?」
第4幕第7場。
羊飼いたちはこの花をもっと下卑た名で呼んでいますが、
純潔な乙女たちは死者の指と呼んでいます。
つれない枝は折れ、花輪もオフィーリアももろともに。
花輪を飾る色とりどりの花はキンポウゲ、イラクサ、ヒナギク、シラン…
助手はハムレットなど聞いていない。もごもごと口の中で呟いた。
( 白い指……乙女の……指…… )
「こんなところに? 花束が?」
一方、警部補は笑って手を振った。
「よしてくださいよ! ここが墓場だったのは何百年も前だ。今更、誰が墓参りになど――」
言い終わる前に気づいた。
「待てよ、まさか、
一同、顔色が変わる。
「有り得ますね」
充分に時間をおいてから興梠は訊いた。
「弓部さん、曽根武の家族について、前に話していましたよね? 事件の後、店をたたんで引っ越したとか?」
「そう。夜逃げ同然でいなくなった。確か、母と下に兄弟が二人。現在は所在不明なんです。今回、珪子ちゃんの事件が起こって、改めて曽根家の行方について調べているのですが」
弓部警部補は探偵から少年の持つ花束へ視線を移した。一語一語嚙みしめるように言った。
「この献花が曽根へのソレなら、遺族の誰かが、案外近くに住んでいるのかも知れない。これは、もっと本腰を入れて探してみる必要があるな。今回の件で何か関わりがある可能性も否定できない――」
☆まんだら堂
http://www8.plala.or.jp/bosatsu/kodou-5mandarado.htm
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