第2話
夫人の
10年前、晶子が7歳、青生が6歳の春、晶子は忽然と姿を消した。
末子の珪子はこの時はまだ生まれていなかった。
その日、10年前の4月10日。母・瑠璃子は女学校の同窓会で外出して邸にはいなかった。子供たちは乳母と女中頭、そして3人のメイドがみていた。昼寝の時間が来て、姉弟を寝かしつけて、使用人たちがお茶を楽しんでいる間に姉の晶子がいなくなってしまったのだ。勿論、時を置かず、邸にいた者――執事に男衆、運転手も加わって総出で邸内から周辺まで探し廻ったが、何処にもいない。
瑠璃子が帰宅して、事情を知り、半狂乱になって桜木町の会社にいた夫に連絡。飛んで帰った夫、片岡氏が警察に届け出た。
「昼寝は何処でさせたのですか? 姉弟一緒でしたか?」
「いえ、二人はそれぞれの自室のベッドに寝かせたそうです。片岡家ではそれが習慣だったとか」
紅茶をグイッと飲んで、喉を潤すと警部補は話を再開した。
「言うまでもなく、我々警察も徹底的に捜索に当たりました。だが、杳としてお嬢さんの消息はつかめない。晶子ちゃんは消えてしまった。さながら……雪のように」
少年助手、ズバッと斬り込む。
「いなくなったのが春なのに、〝雪〟とは、警部補さんもロマンチストなんだね! ウチの興梠さんと同類だな」
「君は黙っていたまえ、フシギ君」
警部補は少年助手の言葉に頬を染めたものの、先を続けた。
「とはいえ、我々警察も全く成果がなかったわけではないのです。犯人と疑われる人物は見つけました。諸事情で立件まで持ち込めませんでしたが……」
「と言うと?」
「
曽根武は片岡邸近所の電気屋の息子だった。前年、店主の父が急逝したため、3人兄弟の長男で大学の電気工学科を卒業したばかりの武が店を受け継いだ。この曽根電気店、武の父の代から片岡邸の電気製品の納入やメンテナンスを請け負っていた。
「なにしろ、豪邸です。シャンデリアから各部屋の電球、門燈にいたるまで、管理や修理が大変ですからね。邸内は、そりゃ凄いもんですよ。舶来の最新型冷蔵庫、製氷機、洗濯機、掃除機、オーブン、トースターにアイロン……なんでも揃っています。曽根電気店は、顧客は片岡家だけで充分やって行けたんじゃないかな。そういうわけで――」
実は晶子がいなくなった当日も曽根武は片岡邸にいて、乳母やメイドたちと一緒にお茶を飲んでいる。当然、その日の内に使用人ともども晶子がいなくなった前後の事情を警察に訊かれた。武はひどく狼狽していたようだが、懇意の家の娘がいなくなったせいでショックを受けたのだろうと、その日は自宅へ帰した。
「だが、その夜から曽根武は姿を消し、所在不明となって……一か月後、死体で発見された、というわけです」
「死体って、どんな死にざまだったの?」
「それがね、鎌倉に多い切通しの崖下で見つかったんです。検察の結果、死後約30日。つまり、死んだのは事件直後となる。死因は転落死――事故死と断定されました」
今度、核心を突いたのは探偵だ。ズバリ、問う。
「だが、
「ええ。僕自身は〝事故死〟は有り得ないと思っています。もし彼が犯人なら、罪を改悛しての〝自殺〟でしょう。あるいは」
弓部警部補は言い淀んだ。暫く時間をおいてから、低い声で、
「〝他殺〟かも知れない」
「どうして他殺だとお考えなのですか?」
「というのは――邸内の人間に晶子ちゃんの失踪に係るような怪しい人物はいなかった。皆、アリバイがある。そして、アリバイという意味ではこの曽根武も同様なんです」
晶子が昼寝中、彼も皆とお茶を飲んでいるのだから。
「このために、曽根は少女失踪事件とは無関係の転落事故と結論づけられたのです。でも、もし、仲間がいたら――つまり、片岡家に懇意で家の内情に明るい電気屋のこの男が誰かと通じていたら――」
あくまでも個人の想像の域を出ませんが、と断った上で弓部は言うのだ。
片岡家の娘の誘拐を手引きしたのがこの曽根武だったなら、どうだろう?
誘拐の片棒を担いだまでは良かったが、事件後、武は怖気づいて仲間割れになり始末されたのかも知れない。そういう可能性はある。それなら、つまり、真犯人は他にいるのではないか?
まんまと逃げおおせた犯人は片岡家の娘を連れ去ったまま消えてしまった。春の闇の奥深く……
「そういうわけで片岡家も我々警察も戦慄せづにはいられないのです」
今回、またしても起こった片岡家次女・珪子の失踪事件。姿が見えなくなった前後の状況も10年前のソレと酷似していた。
4月9日、当日。母・瑠璃子は在宅だったが、日頃傍にいる家庭教師は休日で不在。昼寝しているはずの娘を起こしに行ったメイドが空っぽのベッドに悲鳴を上げた……
それ以降の片岡家の衝撃、狂乱は察するに余りある。
10年目にして、またしても繰り返された悲劇! 少女誘拐事件!
真犯人が戻って来た!?
季節も同一、消え去った娘の年頃も同一、手口も同一……
「これはもう、何か繋がりがあるとしか思えません」
「唯一の違いは、これらの奇怪な手紙です。前回はこの種の行為――犯人側からの接触は一切なかった」
「身代金の要求も?」
「ありませんでした。今回も現在のところ、身代金等、金品の要求は皆無です」
「確認させてください。弓部さんは当時の――10年前のその事件に関わられていたのでしょうか?」
「はい、私は警察官1年目の新米でした。主に、片岡邸の警護を担当しました」
無念そうに膝の上で拳を握りしめる。
「だから、何の役にも立てなかった……」
「それが今じゃ警部補かぁ! しかも、その若さで! よっぽど有能なんだね、弓部さん!」
少年の言葉に慌てて首を振る弓部警部補。
「いや、それは違います。誤解です。僕は無能で――何の
ここで
「帝大で美学を修められて、芸術全般に深い教養がおありだとうかがっています。その素晴らしい知識と明晰な頭脳をぜひ、我々に提供していただきたい! どうか、お力をお貸しください」
コーヒーテーブルに両手をついて弓部は懇願した。
「今度こそ、なんとしても、片岡家のお嬢さんを無事、ご家族の元へ返してやりたいのです! 勿論、真犯人も逮捕したい。僕は、2度と迷宮入りは御免です」
息を止め、真っ直ぐに探偵を見つめて、
「僕と一緒に来ていただけますか?」
「了解しました」
探偵は立ちあがった。
「すぐ準備をします。フシギくん!」
「こちらも了解!」
既にレースの
「ノアローをチワワの元へ! だろ?」
※注:ここで言う〝チワワ〟とは犬にあらず。
ふいに肩越しに振り返って一言付け加えた。
「最近出番無しだな、ノワロー。これじゃ、益々興梠さんのこと嫌いになっちゃうだろうな!」
「ググ」
これは廊下にいた黒猫ではなく、探偵の喉から漏れた音である。
と言うわけで――
数時間後、三人は列車に揺られていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます