第2話 チョコがこぼれる新メニュー
店長の自慢のスィーツは40種類にも及ぶ。中でも人気なのは三種類のベリーを乗せたベリータルトだ。
当然ながら日向も店長のスイーツの信奉者であるが、売れ残った試しはないので中々口に出来なかった。
客が引くのは午後9時を回ってから。ようやく10時に閉店となる。片づけを終えた日向は、バイトで残っているのは自分一人だと言う事に気が付いた。
それもそのはずで、昼間シャワーを浴びたり着替えたりしている時間の分、勤務時間が長引いてしまったからだった。ローサは30分ほど前に帰ってしまっている。
もう一度ホール内を確認して厨房へ戻ると、先ほど綺麗にしたばかりの作業台に三つのボールが置かれていた。材料と思われるチョコレートや砂糖の大きな袋も出しっぱなしで、泡だて器やら大振りのスプーンやらが作業台の上に直接乗せてある。ここにいるはずの店長の姿は見当たらず、日向はボールの中身を覗き込んだ。
溶かしたチョコレートの表面がつやつやと輝いている。どうやらチョコのスィーツを作る途中らしい。厨房には甘い香りが充満していた。
その香りに刺激されたのか、腹の虫が盛大に鳴る。そう言えば夕食も食べていないのだ。
「・・・ちょっとだけ」
人差し指をボールの中へ恐る恐る差し入れる。
「こらっ!!」
厨房に顔を出した店長の声が響いた。その途端、焦って両手で作業台に手をつく。ついた手がボールに強く当たり、落ちる。
「きゃーっ!!熱っ、熱うっ!」
覗き込んでいたボールが宙に浮いて、中身が飛散した。その、まだ熱いチョコレートの飛沫が日向の身体の上にかかって、悲鳴を上げる。
「大丈夫!?まだそれ冷えてないのに!やけどしなかった?」
思わず床に尻もちをついた彼女に駆け寄った彼は、慌てて日向の腕や足を見た。
「だ、大丈夫です…びっくりした、だけで。すみません、材料を駄目にしてしまって。」
「いいよ。それより怪我が無くて良かった。」
とても英国人とは思えないほど流暢な日本語。イントネーションや発音にも全く訛りが感じられない。
店長のルーファスは、日本滞在経験があるのだそうだ。だから日本語も堪能なのだと言う。もっともそうでなかったら、日向の事など雇ってくれなかっただろう。
彼がサロンエプロンに引っ掛けていたタオルで、ゆっくりと日向の上に降りかかったチョコレートを拭う。
一日に二度も制服を汚してしまった。カフェの制服は白いブラウスに黒いサロンエプロンだけ。下半身はスカートでもジーンズでも私服でOKだった。その私服もチョコレートの飛沫を浴びている。私服のジーンズは洗いざらしてすっかり色が落ちて白くなっているので、濃いチョコレート色の飛沫がまるで模様のように見えた。もう今日は接客が終わったから、このまま帰宅して自分の部屋で洗濯すればいいか。
「…すみません、私、今日も失敗ばかりで、迷惑を」
謝罪のつもりで軽く頭を下げる。すると、汚れが目に入って来た。
ローサにコーヒーを掛けられた時も、汚された自分が悔しくて泣きそうだった。
英語も話せない。嫌がらせされても何も言えない。失敗ばかりでいいところなど全くない。
「私なんか、もう辞めた方がいいですよね…。」
「日向」
「やっぱ、日本に帰った方がいいのかも。私に外国暮らしなんか、無理だったのかも。」
日本語が通じると思ってしまうと、ついぽろぽろと本音が出る。そうやって甘えているからローサにいびられてしまうのだとわかっているのに。
店長の金目が日向の腕を見た。
固まってしまったチョコレートが床に落ちていく。
「勿体無い。」
小さく呟いて、腕の上に残った小さなチョコの欠片を指先で摘まみ、赤い唇へ放り込んだ。
「て、店長…」
「ルーファス。僕の名前は『店長』じゃないよ。日本人なら勿体無いって思うんでしょう?食べちゃおうか。」
彼の顔が日向の左頬に近寄った。温かい舌が頬を撫でたのがわかる。一瞬何が起こったのかわからなかった。
「ここにも付いてるね。勿体無いから、君の上に落ちた分は食べちゃおうね。」
そう言って右手の甲に付着しているチョコレートの欠片にも口を寄せた。
その姿は、お姫様にキスをする騎士を連想させ、否が応にも顔が熱くなる。何も言えないで赤面している日向を見下ろした店長は口角を上げて笑う。そして、ちらっとだけ舌をだした。
覗き込むように日向を見つめる金色の眼は、なんだか猫を連想させた。
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