こころみだれる新メニュー
ちわみろく
第1話 ため息でちゃう新メニュー
長いため息が出てしまう。
それはくたびれたとか、嫌になったとかそういう嘆息ではなくて。吐いた息のはるか向こうで若い女性客に微笑みかけている姿が余りに端正で、素敵だからだ。
ロンドン郊外の学生街で営業するこのカフェは、客足が途絶えない。店長の手作りスィーツが売りのカフェなので、主な客層が若い女性となるのは自然なのだが、店長の尋常でないイケメンぶりがそれに拍車をかけている。
「日向、こちらのテーブル片付けて。」
金色に近い赤毛に金目のイケメンは、流暢な日本語で指示した。
「アイ・サー。」
午後の二時過ぎからホール係としてアルバイトに来ている日向は、即座に答えた。
今年28歳になると聞いているイケメンの店長の名はルーファス・ミラー。カフェ『ブランブル』の経営者であり、厨房担当者でもある。
名前を呼ばれるだけで舞い上がりそうになった。この店のホール係は日向以外に4人の女の子がアルバイトに来ているが、日本語で話しかけて貰えるのは自分だけである。
それは単に日向の日常英会話が余りにひどいという理由からなのだが、それでもなんだか自分だけが特別扱いされているかのような気がして嬉しいのだ。
「痛っ…!」
ゆるんだ頬を無理やり引き締めながら示されたテーブルを片付けていると、突然頭上から堅いものが落ちてきてぶつかった。ほぼ同時に何か液体までもが髪にかかる。
「あーら、ごめんなさい。余りに小さいから見えなかったの。」
同じアルバイトの女の子がクスクスと笑いながら落としたカップとトレイを拾った。金髪碧眼の美人であるローサは、日本人の日向を露骨に目の敵にしている。同じ21歳で、ほぼ同時期に採用されたのだが、一度としてまともに口をきいてくれたことが無かった。
砂糖とミルクの混じったコーヒーを頭に浴びた日向は、言い返すことも出来ない。言い返すほど喋れないからだ。仮に英語が得意だったとしても、きっと何も言えなかっただろう、引っ込み思案で内気な日向には到底無理な話だった。
「ろくに会話も出来ないくせに、よくこの店で働こうなんて思えたものよね。」
通り過ぎる瞬間に、ローサが聞こえるように呟く。
いっそ聞く方も話す方と同じくらい出来なければよかったのに、日向の耳は相手が言っていることはちゃんとわかるのだ。英語力において読み書きと聞くのは遜色ないと言っていいのに、会話だけが出来ないのはこの性格ゆえだろう。
せっかく綺麗に拭ったテーブルがまた汚れてしまった。自分の髪から滴り落ちるそれがテーブルの上にぽたぽたとシミを作る。手にしたダスターで何度も拭う。やっと綺麗になったと思った後また透明な液体が落ちて、もう一度手を動かす。最後に拭ったのは悔し涙だった。
その様子に気が付いた客がざわめく。
けれど、日向は頭を紙ナプキンで軽く拭うと何事も無かったかのように片付けを終えて厨房へ戻った。客の前で泣き言をいうわけにも行かないので足早にその場を去るしかない。
トレイと汚れた食器をシンクに置いて洗い始めると、ホールから戻った店長が髪と衣服を汚された日向の姿に金色の眼を丸くした。
「どうしたの?ああ、わけは後で聞くからいいや、とにかく洗って、着替えておいで。そんな恰好でお客さんの前出られないよね。」
お客さんの前でここまでされたのは初めてだが、同僚に嫌がらせを受けるのは初めてではない。
ローサは英国人だが、他のバイトは日向と同じ留学生だった。だが、ローサが嫌がらせをするのは日向に対してのみ。他の留学生たちは、英会話に不自由がないからだろう。
結局は自分が無能だから悪いのだ。会話すらままならない自分が悪いと思うと、ローサの行為を店長に言いつけるような真似は出来なかった。
「すみません、店長。ちょっとミスっちゃって。」
日本語で申し訳ないと思いながらも、日向は小さな声で謝った。
「着替えはある?ちょっと待ってて、タオル出して来るから。」
慌てたように彼は厨房の奥にある階段を登っていく。何秒もしないうちに駆け下りてくる足音が聞こえ、白くて大きなタオルを手に戻って来た。
「二階に上がってすぐ右側にシャワーブースがあるから、そこを使っていいよ。使い方はわかるよね?」
促すようにそう言って階段を指差した彼に、慌てて日向は両手と首を振る。
「店長のお部屋のを使わせてもらうなんて、申し訳ないです。私は、化粧室でちょっと拭いてきますから。」
金目を細めてあはは、と笑った店長は左手でぐい、と日向の背中を押す。
「遠慮しなくていいよ。それとも僕のうちのじゃ不満かな。」
「そんな、そんなわけないですけど。」
それ以上遠慮するわけにもいかず、階段を登らされてしまった。
背中に触れた大きな手が温かくて、こんな時だというのにどきりと胸が高鳴る。
「ごゆっくり。」
駄目押しのように軽くウィンクをされて茹でダコのように赤面した。
整った容貌から引き剥がすように視線を戻して階段の上方を見る。
いつもは明かりを切っているので、上に向かって真っ暗になっている階段。一階ではカフェを営業し、二階を店長の住居としているは従業員の誰もが承知している事だった。だからこそ、誰も立ち入った事のない彼のプライベートな場所に、初めて足を踏み入れる緊張と優越。
きっと、ローサだって上がったことは無いはずだ。
日向は心の中で舌を出す。嫌な思いをさせられたけれど、そのおかげで自分だけ彼のプライベート空間への侵入が許された。きっと、今頃彼女は後悔しているに違いない。
そしてまたため息が出た。
彼女の嫌がらせが更にエスカレートするんじゃないかと思えて。
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