ミカエルさまがやって来た!
外宮あくと
第1話 歩道橋の上で
私が生まれてまだ十二年ぽっちだけど、こんな不思議でへんてこな出来事は、これから先の人生でもきっと二度とないと思う。
だって、目の前にいきなり天使が現れちゃったりするなんて、そうそうあることじゃないもん。ううん、絶対ない。そうでしょう?
友だちの家で遊んだ帰り、あかりは歩道橋の上で立ち止まって、足下を流れてゆく車の列をながめていた。
大きなトラックや乗用車が次々に走り抜け、赤いテールランプがあっという間に遠く小さくなっていく。
空はまだまだ水色だが、太陽が沈んでゆく西の空はほんのりとかすかなピンク色に染まっていた。五時を少し過ぎたところだが、初夏の空はまだまだ明るい。冬ならとっくに真っ暗になってるなあなんて思いながら、あかりは何台もの車が走り去るのを見送っていた。
こんなにたくさんの車、どこからきてどこに行くんだろう。
「私もどっか遠くに行きたいなあ……」
六時までには家に帰らないと、お母さんがまたグチグチと言うに違いない。でもあまり帰りたくなかった。怒られないギリギリまで、時間を潰していようと思っていた。
家にいると何かと用事を言いつけられて、おまけに二言目にはお姉ちゃんなんだから、もう六年生なんだからと言われるのがイヤでたまらないのだ。
あかりには、幼稚園の年長の弟がいる。そしてもうすぐ、二人目の弟か妹も生まれるのだ。赤ちゃんが女の子だといいなと、あかりは思っている。弟は乱暴で言う事も聞かなくて生意気なくせに、すぐ泣くからウザったくてイヤなのだ。妹ならきっとおとなしくて可愛いだろうと思うのだ。
赤ちゃんが生まれるまで、あともう少し。でも、お腹が大きくなったお母さんは、この頃いつも機嫌が悪くて怒ってばかりで、あかりはそれもイヤでたまらない。
「お母さんのバカ……怒りんぼ」
あかりはきゅっと口をとがらせて、走ってゆく車たちをながめ続けていた。
ふと、車道脇の植え込みの中に、かさこそと動くものを見つけた。
猫だ。全身真っ黒だけど、頭のてっぺんだけ丸く白い。
「……あ、黒助」
その猫は、学校の近くの神社に住み着いている野良猫で、男の子たちは「ハゲ黒」なんて呼んでいる。白い模様がハゲているように見えるからだ。そんなヒドい呼び名は止めて欲しいものだ。
あかりたち女の子は、猫に時々エサをやったり一緒に遊んだりして、可愛がっている。だから猫はすっかり懐いていて、特にあかりは気に入られているようなのだ。あかりを見つけると、いつも足にすりよってきてニャウと甘えた声をだす。ほっぺをすりすりしながらまん丸い目で見上げられたら、可愛くってもう抱っこせずにはいられない。
あの猫は、あかりにとっては誰が何といおうと「黒助」だった。「ハゲ黒」なんかではない。
友だちのさくらから聞いた話だと、今高校三年生のお姉ちゃんが小学校に入学した頃には、もう神社に住み着いていたのだそうだ。ということは、黒助はもうおじいさんのはずなのだが、とても元気で毛もツヤツヤして若々しい。もちろんハゲなんかどこにも無い。
その黒助が、道路を渡ろうというのか、身体を低くして車をうかがっている。ひっきりなしに車が通るこの道を渡るなんて、危ないじゃないのと、あかりはひやひやと見ていた。
そろりそろりと、黒助が植え込みから出てきた。少し歩いては止まり、また一歩進んでは止まりと慎重な様子なのだが、いつ飛び出すかと心配だった。黒助が車にはねられるところなんて見たくない。
胸がドキドキしてきた。そして、つい手すりから身を乗り出してしまう。
――黒助お願い戻って。
しかし、車の流れが途切れた瞬間、黒助が走り出してしまった。あかりは、アッと声を上げる。反対車線を走ってくる車がいるのだ。危ない、と思わずもっと身を乗り出して、届くはずもないのに大きく右手を差し出していた。
すると、いきなり首の後ろをドンッと叩かれた。ひやりと冷たい誰かの手。
勢いあまって、手すりに乗せていた左手が外側にすべる。
あかりの心臓がバクンと鳴った。
――落ちるっ!? 私、死ぬの? 怖いよ、ヤだよぉ!
声も出せずに目を閉じた。
「何やってんだぁ? お前」
少し低い男の声が聞こえた。息が耳たぶに当たって、ゾクリとした。
――誰? 怖い!
何が起こったのか分からない。とりあえず、痛いところはない。まだ車にひかれてはいないようだ。ぐっと目を閉じたまま、固まっていた。
「おーいお嬢ちゃん、聞こえてるかーい? もしもーし!」
あきれたような男の声がまた聞こえた。しかもまるで緊張感がない。
あかりが息を止めたまま目を開けると、相変わらずそこは歩道橋の上で、まばたきすると、無事に道を渡り終えた黒助の姿が見えた。良かった、ひかれてなかった。
ふうっと大きく息を吐いた。耳の奥でシャワシャワと激しい鼓動が鳴っている。
あかりは、誰だか知らない男にえり首をつかまれて、手すりの内側に立っていたのだ。引っぱり上げられて、ちょっとつま先立ちになっている。
「危ないだろうが。あのなあ、命は大切しろよぉ? こんなとこに飛び降りてみろ、ぐっちゃぐちゃのべっちょべちょになるぞぉ」
男が手を離すと、あかりはふらふらとよろめいた。
心臓はさっきからずっと、爆発しそうなほどに鳴っている。
危ないのはそっちだろう、と思う。突き落とされたかと思ったのだ。ぐっちゃぐちゃのべっちょべちょになるかと思ったのだ。黒助と一緒に天国に行くのか、死ぬのかと、ものすごく怖かったのだ。
あかりの目に涙がにじんできた。
「……ね、猫、見てただけだもん!」
「ん? 猫? そうなの?」
「うわーーん!」
声を出して泣きだしてしまった。
飛び降りる気なんて全く無かったのに、勝手にかん違いしないで欲しい。バカヤローと心の中で叫んでいた。こいつが悪いんです、私を泣かせたのはこいつです、と思い切りわめきたいのだが、泣くのに忙しくて何も言えないのだった。
――なんなのよこいつ! 手すりの上でうんこ座りなんかしてぇ!
信じられないことにその男は、手すりの上にしゃがんで、あかりのえり首をつかんでいたのだ。注意した側の方が危ない態勢をしているのだ。
それなのにヘラヘラ笑っているこいつは、絶対に変な奴だ。関わり合いになっていはいけない種類の人間なのだ。
そんなのに捕まってしまった、よく見ると外人じゃないか、なんかヤバいよと別の恐怖がわいてきた。
あかりはえぐえぐと泣きながら、男から後ずさってゆく。
「いやぁ、ごめんごめん。飛び降りじゃなかったんだな、ハハハ。かん違いして悪かった。そんなに泣くなよ」
男はよいしょと手すりから降りて、ニカッと笑った。
間違えたとはいえ、飛び降りを止めるのに、なんでわざわざそんなところ乗ってたんだと、あかりは突っ込みたかったが、変な男が怖くて言えない。思い切り警戒心をあらわにして、更に後ずさってゆくのみだ。
なんで、こんな時に限って誰も歩道橋に登ってこないのかと、何かに無性に腹を立てていた。
「なんかさ、お前、思いつめたような顔してたからさ。放っておけなくて」
ポリポリと頭をかきながら、男は照れ臭そうに言った。
なんだか、マンガでこんなシチュエーションを見たような気がする。確かこの後、二人はなんだかんだあって、恋に落ちるのだ。
――無いわぁ……
あかりは無言でじっとりと男をにらんだ。
その男はとても背が高くて、年は二十代の中頃くらいに見える。鼻はすっと高くて、ほりが深いというのはこういうのを言うんだろうな、とあかりは思う。そんなに色白ではないが、白人っぽいような気がする。
多分これはイケメンというやつなのだろうが、なんだか雰囲気がチャラい。胸を少しはだけさせた開襟シャツの着方や、太めのストライプ柄を選ぶセンス、指みたいな太さの銀の鎖のネックレスなんかが、絶対に普通のサラリーマンではない感じがするのだ。
こちらの警戒を解こうとしているのか、ヘラヘラ笑っているとこが、さらにヤバい印象を倍増させている。油断させといて、誘拐して外国に売り飛ばす気なんじゃないかと疑っていた。
あかりは何も言わずに背を向けた。
すると階段を上ってくる人影が見えた。
あかりは、やっと人が来たとホッした。他の人がいれば、あの変な男もこれ以上、からんでこないだろう。まだ足は震えていたが、急いで歩き出す。
と、上ってきた人影も足早にこちらに向かってきた。
「ちょっーーと! 何やってんですか、もう! 探したんですよ!」
ビクリとあかりは固まる。なぜいきなり怒鳴られるのかとビクついた。
人影は、あかりより少し年上くらいの少年だった。だが、見覚えなんかない。外人の男の子に知り合いなんかいないのだ。
ロゴ入りTシャツに細身のデニムパンツ、右肩にはリュック。ごく普通のカジュアルな服装なのに、あかりが好きな人気アイドル歌手にちょっと似ていて、カッコよかった。でも、ときめくよりもイヤな予感がする。
そして案の定、少年はあかりではなく、その背後の男に叫んでいたのだった。
「ああ、悪い悪い」
男がワハハと笑って答えるのを聞いて、あかりは、もうダメだと息を飲んだ。
助かったと思ったのに、少年は変な男の連れだったのだ。しかも二人にはさまれてしまって、これでは逃げられない。
どうしようかと立ちすくんでいると、少年は、あかりなんかそこにいない、という様に通り過ぎ、男に近よっていった。
あかりはおそるおそる振り返る。少年は背の高い男の目の前に立って、腰に手を当てて怒っていた。
「本当にもう! 一人で勝手に飛んでいかな……」
「シッ!」
「どうしたんです?」
口に指をあてた男は、あごをしゃくってあかりを見ろと、少年に合図をする。
「いいじゃないですか。どうせ、見えてないでしょう?」
「いや……見えてるし、聞こえてる。しっかりはっきり。オレがそうしたから」
「え?」
男がニヘッとバツが悪そうに笑って頭をかくと、少年が慌ててあかりを振りかえった。
引きつるあかりの頬にまだ涙が残っているのを見つけると、少年は悲鳴でもあげるのかという程に、目も口も大きく開いてまた男に向き直る。
「ミ、ミカさん! あなたって人はぁ! なんて事を! ああぁぁ!」
「いやぁ、緊急事態だったからさ、ハハハ」
「何が緊急ですかぁ! 僕らのこと見られたなんて! なんか余計なことしゃべったんじゃないでしょうね?!」
「いや、お前の方が今ベラベラしゃべってる。マズいんじゃねぇの?」
「う……」
二人がそろって、あかりを見つめる。
――ヤだ! そんな目で見ないでよ! 怖いし! 意味分かんないし!
見えてないとか、見えてるとか。余計なことをしゃべったとか、なんとか。
全部あかりの知ったことじゃなかった。こっちは見たくもなければならない聞きたくもない。忘れろと言うなら、そうする。きれいさっぱり忘れてしまいたいぐらいだ。とにかく、今すぐ立ち去りたいのだ。さよならしたいのだ。
それなのにさっきから足が動かない。なぜだか足の裏が歩道橋にはり付いて、全く上がらないのだ。
震えてまた涙が出そうになってきた。
少年がふうと息をつき、あきらめたように肩を落とした。
「仕方ないか……。ごめんね、怖がらせちゃって。何のことか分からないよね。えっと説明した方がいいんだろうけど、先ずは自己紹介をするよ。僕はユーリ。で、こちらが……」
「オレは、秀麗かつ偉大なる聖魔法使いにしてその名も高き大天使ミカエル様だ!」
男はニコニコ笑いながら、長ったらしい名乗りをあげた。すると、その背後に何か白いものが現れた。それは真っ白な大きな翼で、バサバサと羽ばたいていた。
あかりは、くらりと目まいを感じた。
――私、やっぱり死んじゃったのかな? 天使がお迎えに来ちゃった……
あぁと情けない声が出てしまった。頭がひんやりしてきて、身体がふうっと後ろにかしいでゆく。もう考えるのが面倒になってしまった。
カクンと足の力がぬけると、あかりは意識を手放していた。
「わ、わ、わぁ! だ、大丈夫ですか?! しっかりして下さい!」
頭を打ち付ける直前で、走ってきた少年があかりを支えると、男ものぞき込んできた。
「うーん、気絶させてしまったか…」
「ミカさんが、いきなりそんな姿を見せるからですよ! もう!」
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