6 後を継ぐ者

 どこかそれほど遠くないところから、スズムシの鳴き声が聴こえてきた。りん、りーんと不規則に繰り返される音が、暗闇に支配された倉庫のなかに、かすかに響く。


 時間はもう零時に近い頃だろう。相馬はしばしスズムシの声に聴き入ってから、自分の躰を押し込んでいたわずかな空間から抜け出すと、目の前にある引き戸をずらして外の様子を窺った。


 新宿のホテルから脱出して、すでに四時間が経過している。いま頃警察は、主要な街道から交通機関に至るまで、多数の警察官を配置して彼を探しているはずだ。


 運が良かったと相馬は思う。ホテルの控え室の前で、徳島とかいう刑事に呼び止められたときには、すでに自分が逮捕されることはわかっていたのだ。記者会見が始まる少し前、報道記者の一人が会場の近くにいた捜査員に気づいたらしく、それを天使の盾のスタッフに事前に漏らしていた。報告を受けた相馬は、すぐに捜査の手が自分に向けられたことを察知して、記者会見の間、ずっと計画を練っていたのだ。


 彼は、スタッフに適当な理由をつけてバイクを借り、ホテルの裏にある公園の駐輪場に置かせていた。その際、天使の盾のオフィスに置いてあった相馬の荷物も取りに行かせて、バイクの後ろに積んでおいてもらっている。


 報道陣を利用して刑事たちから逃げたあと、人混みに紛れてホテル内を移動し、レストランの厨房から従業員用の通路に入って、そこから建物の外に出た。おそらく、記者会見場からバイクが置いてある公園まで、五分もかからなかったはずである。


 借りたバイクは二五○ccのモトクロスバイクで、都心から郊外に向かって逃げるには最適の選択だと相馬は思った。これならすり抜けもしやすいし、もし警察を振り切らなければならないようなことになっても、逃げ切れる可能性は高くなるだろう。警察が捜査線を敷く前に都心から脱出するには、まず機動力が肝心だと相馬は考えていたのだ。実際、相馬が新宿から町田市まで移動するのに、一時間ほどしかかからなかった。それも警察の目を引かないように、あまり速度を出さないよう注意してである。


 もともと警察に捕まることなど、相馬にとってはあまり重要ではなかった。宇木田高雄と田辺克之を殺すという当初の目的はすでに果たしたわけだし、最愛の妹である優美も、もうこれ以上虐待されることはないのだ。あとは、自分と同じ考えの者がこの計画を引き継いでくれることを望むだけである。虐待を生み出す大人たちに、死の可能性を与えるという仕事。辛くて汚い仕事なのは間違いないが、誰かがこれをやらなければならない。そのためには、どうしてもあと一つ、相馬にはやることが残っている。


 駐車場の街灯は、まだいくつか点いていた。どうやら、深夜でも防犯上の理由からか、すべてを消すということはないようだ。相馬は、なるべく音を立てないように倉庫の引き戸を開けて、ゆっくりと外に出た。素早い動きは人目を引く。ここはあせらず、柔らかい動きが肝心だと彼は考えた。


 相馬は、駐車場から正面の建物に向かって歩き始めた。駐車場から建物に向かう道の途中に小さな丸い池があるので、そこで一度立ち止まり、目立たないようにしゃがみ込む。池の中央には高さ六十センチほどの白い女神像が据えられているので、建物から見て、女神像の陰に自分の姿が入るよう調節した。


 建物を外から見ると、灯りが点いているのは一階の一部だけのようだった。彼は何度もここに来ているので、それが夜勤の職員が詰めている宿直室であることを知っている。


 相馬は立ち上がって再び歩き始めると、宿直室からはなるべく離れた道筋でエントランスに近づいた。建物正面の大きなガラスドアの前に到着すると、今度はすぐ横の茂みにかき分けて入り、壁に沿って裏へとまわる。暗闇のなか、少し先に職員用の勝手口の灯りが見えた。


 夜勤の職員は、この勝手口から出入りすることが多く、鉄製のドアには四桁の暗証番号で解除するセキュリティロックが設置されている。相馬は、あらかじめ訊いておいた暗証番号を入力して、解錠ボタンを押した。扉のなかで、錠が電動でスライドする音が聞こえたのを確認してから、ドアノブを回して扉を開け、建物のなかへと侵入した。


 通路はわずかな照明で照らされているだけだったが、しばらく外にいた相馬には割と明るく見える。少なくとも、彼の行動に支障は来さないだろう。相馬はそのまま通路を歩いて階段まで行き、あたりを見渡してから二階に向かって昇り始めた。確かここからなら、二階の奥にある一時保護棟へはそんなに遠くないはずだ。何度も来た建物ではあったが、こんなに暗い状態で歩くのは相馬も初めてなので、慎重に行動しなければならない。


 彼は、最後にこの建物に来たとき、木崎が一緒だったことを思い出した。ここの所長の剣崎氏は、木崎が大学時代から交流のある人物で、たまに会っては児童福祉や虐待に関しての情報交換をしていたのである。そのお供で、相馬も月に一度はこの建物に来ていた。


 思えば、木崎義人という男は決して悪人ではなかったと相馬は思う。今回の計画のなかで、一番の被害者は彼と云ってもいいだろう。確かに、保坂香織に入れあげて不倫関係になった挙げ句、多額の現金を脅し取られてしまったのは、法人の代表としては軽率だったと云わねばならない。どうやら保坂香織の夫である保坂武彦も恐喝に加わっていたらしく、困り果てた木崎は、あろうことか天使の盾の資金にまで手を付けようとしていたのだ。


 あの夜、動転した木崎から香織を殺してしまったという連絡を受けたとき、相馬は、正直まったく驚かなかった。それぐらい木崎は、普段から追い詰められていた様を彼に見せていたので、遅かれ早かれ、何かが起きてもおかしくはないと相馬は考えていた。


 彼は最初、木崎を自首させようかとも考えたが、それでは自分にとってデメリットしかないことに気がつき、すぐに諦めた。天使の盾の代表が、痴情のもつれで殺人を犯して捕まるなど、絶対にあってはならないのだ。逆に、何とかこの状況を利用できないかと、木崎の家に向かっている車のなかで、相馬は必死に知恵を絞ったのを覚えている。


 そして木崎のマンションに入り、ベッドの上の香織の遺体を見た瞬間、彼の脳裏に今回の計画が閃いた。いま振り返っても、それはまさに天啓だったと相馬には思えた。そのとき、すでに相馬には殺害を考えている人物が二人いたのだ。宇木田高雄と田辺克之。この二人を殺すにはどうすればいいか、ちょうど頭を悩ませているときに、木崎が香織を殺してしまった。これをうまく利用して、計画通りにやり遂げれば、すべてが丸く収まるのである。相馬は、素早く実行を決断した計画に則って、行動を開始した。


 相馬は、木崎とともに香織の遺体を稲城のアパートに運び、スタンガンで保坂武彦の自由を奪った。そのあと、子供を虐待していた罪を償わせるための儀式を行い、最後はナイフで殺害した。


 次に、天使の盾のデータベースを使って、保坂夫妻を虐待で通報した者のなかから、宇木田か田辺を通報したことのある人物を探した。木崎には、この通報者に罪をかぶせると説明してあったので、彼も進んで通報者捜しを手伝った。


 田辺だけ、町田や稲城からは距離のある練馬に住んでいたこともあって、さすがに三組ともを通報した人物はいなかったが、やがて、保坂夫妻を通報し、さらにその一ヶ月ほど前に宇木田を通報していた長内圭一という男が見つかった。この長内圭一を道標として活用できるかどうかが、計画の肝だった。長内に田辺を通報させる仕掛けだけは何とかしなければならなかったが、それさえうまくいけば、長内の通報に沿って木崎が犯行を行ったように見せかけるという計画は、必ず成立するように思えた。


 あとは、木崎の犯行だということを示す証拠を捏造すれば良い。例えば、宇木田の殺害現場に残されていた金槌だ。あれは、天使の盾のオフィスの引っ越しで木崎が使用したものを、血だけ付着させて殺害現場に残してきたものである。実際に凶器として使用したのは、相馬がホームセンターで購入したまったく同じ金槌で、宇木田の殺害後に自宅近くの川に投げ込んでしまったため、そう簡単には見つからないだろう。


 田辺の殺害では、木崎の所有しているアルファロメオを、これ見よがしに殺害現場の近くに停めたりしている。目立つ車なので、目撃証言も出るだろうし、もしかしたら近くの防犯カメラで撮影された映像が残されたかもしれない。


 こうして木崎に捜査の目を向け、逮捕直前に失踪させる。殺すより、海外にでも逃がす方がリスクが少ないと相馬は考えていた。殺すのは簡単だが、もし万が一遺体が出てしまうと厄介である。相馬は、何とかすべての罪を木崎にかぶせて事件を終息させたいと思っていたので、田辺の殺害直前に木崎を都内のホテルに潜伏させ、海外逃亡に備えさせていた。しかし、ここで相馬にとっては予想も付かない事態が起きた。木崎が、このホテルの一室で、首を吊って自殺してしまったのだ。


 相馬は慌てた。確かに木崎は見た目ほど神経が太くなく、香織を殺して以来、精神安定剤の服用が目に見えて増えていたが、まさか自殺してしまうとはこれっぽっちも考えていなかったのである。


 思えば木崎は、日ごとに捜査の目が、長内圭一から自分に向いていたのを実感していたようだった。彼の憔悴に気づいてやれなかった自分にも、責任はあるなと相馬は反省している。


 ホテルで木崎の遺体を発見した直後に、相馬は木崎の旅行鞄から遺書を見つけている。そこには、今回の事件で木崎が知っていることのすべてが書かれていた。衝動的とはいえ、自宅で保坂香織を殺してしまったこと。長内圭一の通報を利用し、連続殺人事件を起こすことで自らの罪を隠蔽しようとしたこと。自分の行為をいかに反省し、後悔しているか。離れて暮らしている娘、真琴に対する謝罪。そして、事件には共犯者がいるということ。共犯者は、相馬に気を使ってか「A」とされていたが、冗談ではないと相馬は思った。遺書が警察に渡れば、木崎の部下である相馬が、真っ先に疑われるに決まっている。


 相馬はその遺書を懐にしまうと、代わりに犯行に使ったスタンガンを鞄のなかに入れ、急いでホテルの一室から出た。彼が部屋を出たすぐ直後に警察が踏み込んだようなので、まさに間一髪だった。相馬は、ホテルのロビーでこれからエレベーターに乗ろうとしている捜査員らしき男たち四名を、実際に目撃しているのだ。


 計画は綿密だったが、終わってみれば、相馬にも予想できなかったことがいくつか起きた。木崎の自殺もそうだが、宇木田高雄を殺害するときに出会った少年、高遠守の登場もまったく予期することはできなかった。


 宇木田高雄が守という少年と同居していて、日々虐待を加えているということは、相馬もあらかじめ知っていた。相馬は、児童相談所の職員になりすまして宇木田の家を訪れ、立ち入り調査だと嘘をついて家のなかに入った。


 室内に入ったところで、すぐに宇木田をスタンガンで沈黙させてから、彼は目出し帽をかぶって守を探した。守は奥の部屋にいた。物音で異状に気づいたのか、灯りを消した部屋に入った相馬に、果敢にも自前のナイフで斬りかかってきたのだ。相馬は守の勇気に大層関心したが、しかし所詮は子供の力である。彼はナイフを避け、すぐに守を捕まえてから、事前に用意しておいた鎮静薬を守の首の下に注射した。これはチオペンタールという薬で、手術の麻酔以外にも、パニックに陥った子供や過剰な暴力行為を行う子供に使用されることもあると、相馬は聞いている。子供ならば、体内に入ってからものの十秒前後で昏倒させてしまう。


 守が完全に意識を失ったのを見届けてから、居間に戻って宇木田を椅子に縛りつけ、用意してあった金槌を取り出して儀式を開始した。相馬が汗だくになり、そして宇木田が瀕死の状態になった頃、守がちょうどいいタイミングで目を覚ました。相馬は守が持っていた折り畳みナイフを取り出して、彼の手に握らせた。宇木田の命を終わらせるのは、守の役目だと相馬は考えたのだ。長い間虐待されていたにも関わらず、勇敢な魂を持ち続けていたこの小さな戦士ならば、自分を虐待していた宇木田の死を感じることで、相馬のように覚醒するかもしれないと考えたのだ。


 ナイフを握らせた守の手を導き、宇木田の心臓の感触を捉えた瞬間、電気にも似た興奮が相馬を襲った。子供を虐める屑どもの命は、残らずあの快感に変換してやりたいと、あらためて思ったぐらいだ。


 しかし守は、どうやら相馬とは違う思いを抱いたらしい。薬のせいか、最初はぼんやりとしていた守だったが、宇木田の胸にナイフを刺し込んだあたりから激しく抵抗し始めたのだ。宇木田が絶命してすぐ、守は暴れて相馬の手を振りほどき、自分の部屋に向かって駆け出した。仕方ないなと少し呆れながら彼を追うと、少年の部屋の入り口で、突然胸に鋭い痛みを覚えた。


 部屋の中央に、守が青いスポーツバッグを抱えて相馬にナイフを向けていた。相馬が自分の胸に手を当ててみると、べっとりとした血が右手の指に付いていた。かっとなった相馬は、守につかみかかった。少年が持っていたスポーツバッグのベルトを掴むと、守の躰を引き寄せ、羽交い締めにしてから強引にナイフを奪った。その瞬間、守は相馬の顔に自分の頭を当て、彼がひるんだ隙に逃げ出した。少年の頭突きは相馬の鼻に当たったようで、わずかに鼻血が出ていたのを覚えている。彼はすかさず少年を追おうと考えたが、すぐに諦め、そこから逃走する準備を急いだ。宇木田の儀式を行った相馬は全身血だらけなのだ。守を追って外に出るのは、不可能である。


 あのときに少年が持っていた折り畳みナイフは、いまは相馬が持っている。宇木田を殺したこのナイフを見て、少年は一体どんな言葉を口にするのだろうか。相馬は、その言葉を聞くのがいまから楽しみで仕方がなかった。


 相馬は、階段を昇りきってから、二階のフロアを一時保護棟へと向かった。やがて床に敷いたカーペットの色が、ベージュから薄いグリーンへと変わる。相馬は、消毒液の匂いが、うっすらと空気に混じっているのを感じた。


 そのまま、できるだけ気配を殺して通路を進んでいくと、通路の左右に個室が並んでいるところにやってきた。相馬はそのなかの一室の前で立ち止まると、ドアに手をかけ、ゆっくりと横にスライドさせた。


 部屋のなかに入ると、真夏なのにひんやりとした空気が相馬を包んだ。左右に一つずつ木製の二段ベッドが置いてあるのが見える。


 室内の照明は消えていたが、正面の窓から、月明かりが煌々と射し込んできている。どうやら、ブラインドが全部開けられているらしい。その月明かりで、左側のベッドの下段に、小さな人間のシルエットが浮かび上がった。


 高遠守は、ゆっくりと相馬の方を振り返った。表情は、月明かりの逆光になっていてよく見えない。相馬は、守と目が合った気がした。上着の胸ポケットからゆっくりと折り畳みナイフを取り出す。


「僕を、覚えているかい?」


 守の頭の部分が、頷くように動いた。


「ええ。僕に宇木田を殺させた人だ」

「あのときは顔を隠していたんだが、状況が変わってね」相馬は手に持っていたナイフを、守に見えるように差し出した。「これを返しに来たんだ。もしかしたら、この先必要になると思って」


 守は、まったく動かなかった。もしかしたら、まだ迷っているのかもしれない。相馬は、守にもう二歩だけ近づいてみた。やはり彼は動かない。


「何故、あんなことをしたんです」

「あんなこととは?」

「宇木田だけじゃない。他の人も殺したんでしょ?」

「あいつらは、死んで当然だったよ。子供を殺す親なんだから。君だって、殺してやりたいって思ったはずだ」


 守は黙っていた。表情が見えないので、何を考えているのか相馬にはわからなかった。


「僕には、守らなければならない大事な人がいるんだ。彼女は天使のように可愛くて、小さい躰のなかに、たくさんの可能性を持っている。でも、あと少しで汚されるところだったんだよ」


 相馬は、守の顔が少しでも見えるように、部屋の右側に歩いた。月明かりが守の顔の半分を照らしているのが見える。


「君はどう思うんだい? 大事な人が汚されたり、殺されたりしてもいいのかい?」

「でも、だからって」守は困惑したような表情を浮かべていた。

「殺すことはない? 本当に? あいつらは自分の快楽やストレス発散のために、子供を虐め殺すんだぜ。それは君が一番良く知っているはずだ。その足を見ろよ」


 右手に持ったナイフで、守の右足を指し示す。


「あいつは、気に入らないってだけで君から正常な右足を奪った。もう君は、一生足を引きずって生きていくんだろう?」


 守は口を一文字に結び、自分の右足を見つめていた。相馬は、話を続けた。


「誰かが、やらなければならないんだよ。誰かが、子供を虐める親を突然殺すんだ。それが何者なのかは決してわからない。一人である必要もないんだ。子供を愛していない親どもは、皆恐れおののくはずだ。何せ、虐待を通報されれば、いつ誰に殺されてもおかしくなくなるんだから。やがて大勢の同志が現れて、日本中で同じような事件がいくつも起きるはずだ。そこまでいって初めて、子供が虐められる社会が少しだけ変わる。少しでいいんだよ。その少しのために、僕は捨て石になったんだ」

「殺されるのが怖いから、子供を愛するの?」


 相馬は黙った。守は立ち上がって、相馬の顔をまっすぐ見た。


「僕は母さんに会いたい。でも、会えないかもしれない。それでも、いいんだ。母さんは、どこかできっと僕を愛してくれている」


 守の目には、窓から射し込んでいる月明かりが、美しく反射していた。


「怖いから、子供を愛する親なんて、きっといないと思うよ」


 相馬は、守から一瞬目を逸らしてしまいそうになった。それが何故かは、相馬自身にもわからない。ただ、守の言葉が胸のなかでぐるぐると渦巻くように残っていた。

 そのとき、相馬は部屋の外に人の気配を感じた。しかも一人でなく、数人の気配だ。


「相馬!」


 知っている声だと、相馬は思った。今日、記者会見場で自分を追い詰めた刑事の声だ。彼は部屋の奥の窓際に移動した。ここからなら、刑事たちが扉を開けても、もう少しだけ時間が稼げるはずだ。守もいま立っている場所を動かない。


 扉がゆっくりとスライドして開くと、徳島が立っているのが見えた。通路の左右に二人警官がいて、懐中電灯を使って相馬と守を照らしている。


「守君、そこにいるな。大丈夫か」


 守が喋りそうになった瞬間、相馬は仕草でそれを制した。


「全員、動かないでもらおう」

「相馬、落ち着け。おまえの目的は何だ?」

「目的か」彼は、右手に持った守の折り畳みナイフを見つめた。

「守、これを見てくれないか」


 相馬は、着ていたシャツのボタンをはずすと、両手で開き、胸の部分をはだけて守に見せた。

 そこには、幅十五センチほどの火傷の痕が残っていた。その痕は本来の皮膚の色より白く、翼を広げた鳥のようにも見える。


「よく見てくれ。この痕を。そして、君が付けた傷も」


 守は微動だにもせず、白い火傷の痕を食い入るように見つめていた。火傷の痕には、真新しい直線の切り傷が上からついている。


「僕が目覚めたときの傷の上に、今度は君が印を刻み込んだ。これこそ、君が僕の仕事を引き継ぐことを示す、後継者の証なんだ」


 相馬は右手に持っていた折り畳みナイフの刃を出した。


「相馬! それをしまえ!」


 視界の隅に、徳島が銃を構えているのが見えた。この距離からの発砲であれば、まず外すことはないだろう。相馬は、ナイフの刃を自分で持つと、柄の方を守に差し出した。


「さあ、これを返そう。受け取るんだ」


 守はナイフをじっと見つめていた。一瞬手を伸ばそうとしたのか、右手が動いたように相馬には思えた。しかしその直後、守は首を振って云った。


「もう、それは必要ないんだ」


 守は相馬の目をしっかりと見ていた。相馬は、少年のその目の奥にある光で、守が何を云いたいかを悟った。無粋な懐中電灯の光で邪魔をされてはいるが、もし月明かりだけであれば、この目はもっと美しく輝くだろうにと彼は思った。


 相馬は、守に拒絶されたときのことをまったく考えていなかった。心のどこかで、この少年は必ず自分の仕事を受け継いでくれると信じていたのだ。しかしもう結論は出た。自分が始めた仕事は、どうやらこれでお終いのようだった。


 彼は、ナイフを持ち替えて柄の部分をしっかりと握りしめると、徳島の方を向いて云った。


「刑事さん。僕が、保坂武彦、宇木田高雄、田辺克之の三人を殺害しました」


 彼は、ポケットから封筒を一通取り出して、徳島に見せた。


「ここに、すべて書いてあります」

「おまえ、何を」


 相馬は徳島に笑みを見せた。不思議と悔いは無かった。彼はナイフを自分の首の左側にあてた。

 徳島は、銃を構えることを忘れて部屋のなかに駆け込んだ。


「やめろ!」


 首に鋼の冷たさを感じた瞬間、相馬は右手のナイフを強く喉にあてて引き切った。頸動脈が切れた瞬間だけ躰が猛烈に熱くなった。その直後に、震えるほどの冷気が彼を襲った。躰から、熱がどんどんと逃げていく感触。相馬由多加が覚えているのは、そこまでだった。

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