5 母

 ふと見ると、滑り台の上に男の子が一人立っていて、こちらに向かって手を振っている。五歳ぐらいかなと静江は思った。

 隣のベンチに座っていた女性が、その男の子に手を振って応えたのを見て、静江は少し心が痛んだ。


「ママ、これ見てえ」


 砂場で遊んでいた夏穂が、大きな声で静江を呼んだ。彼女ははっとして夏穂を見ると、砂場に大きな山を盛り上げて、その横に誇らしげに立っている姿が目に入った。プラスチックのスコップを使って砂場に大きな山を盛り、穴を開けたりあちこち削ったりしてお姫様が住むお城を作る。これが、最近の夏穂が夢中になっていることなのだ。彼女はそれが完全にできあがるまで、何度も静江に見せて、出来映えを自慢するのである。


「いいね。なっちゃん。今日のも、すごくいいよ」


 夏穂は、静江にほめられて、えへへと笑う。少し作っては静江に見せ、それを何度も彼女にほめられるのが大好きなのだ。


 静江は夏穂の笑顔を見ると、いつも幸せな気持ちになった。今年で四歳になる夏穂は、目元が父親にそっくりで、整った顔立ちをしている。大きくなったらさぞかし美人になるだろうと静江は思っていた。母親の顔は知らないが、夏穂を生んだ人なのだから、おそらく大層な美人だったのだろうと思う。


 静江が夏穂の父親に出会ったのは、彼女が池袋のキャバクラに勤めているときだった。きらびやかな店内で、最初に客として現れた彼を見たときの静江の第一印象は「なんて冴えない男なんだろう」である。会計事務所の同僚に誘われて店にやって来た彼は、どうやらキャバクラに入ったのも初めてらしく、席についた静江と満足に話すことすら難しい様子だった。


 静江にとっては、こういうタイプの客は得意な方で、かなりの確率で指名を獲得して常連客にすることができた。実年齢はすでに三十近いが、元々は東京で雑誌のモデルをやっていたこともあるので、容姿には自信があったし、会話だって得意だと自分では思っている。特に女に免疫の無いサラリーマンタイプに受けるらしく、自分にとっても一番落としやすいタイプだと確信していた。


 案の定、彼はすぐに静江にはまった。二回目からは一人で来店し、その翌週には同伴での来店を果たしている。その後、静江のもとに週三回通うようになるまで、たいして時間はかからなかった。


 彼は三十二歳の会計士で、四年前に妻を亡くしていた。ある日、店に行く前の同伴出勤をお願いして、新宿の寿司屋で一緒に食事をしていたとき、彼は思い切ったように自分の身の上話を始めた。四年前に亡くなった妻との間に一人娘がいる。夏穂という名で、母親を知らずに育っているのが不憫でならないと、彼は静江に告げた。


 正直、まさかこの男と恋人になるなど、静江は考えてもいなかった。顔が特別いいわけでもないし、ファッションや仕草が洗練されているというわけでもない。会計士としては優秀らしく、金はそこそこ持っていたが、別に驚くほどの高額所得者というわけでもない。普通、平凡、おまけに子持ち。少し前の静江であれば、中の下あたりと心のなかで勝手にランキングをつけて、適当に付き合ったり、必要なときだけだけ呼び出したりしていたかもしれない。しかし以前の生活を捨て去って、新しい人生を生き始めた静江にとっては、母親を失った不憫な娘のことを真摯に語る彼は、何故かとても魅力的に感じられた。その日、店が終わるまでいてくれた彼を誘って、静江は彼と関係を持った。

 彼は、驚くべきことに、静江を自分のものにしてもまったく変わらなかった。むしろ、恋人になる前よりも一層静江に優しく接してくれた。


 モデル時代に付き合った何人もの男たちは、彼女を手に入れると、まるでレースのトロフィーのように扱い、人としてというよりもののように彼女を扱った。なかには静江が結婚まで考えた男もいたが、子供ができたとわかった瞬間に自分を捨てたし、そのあとに夢中になった宇木田高雄も、外見だけで口ばっかりの屑のような男だった。静江は、次こそは容姿も自分好みで高額所得者、さらには温厚で気さくで、いつまでも自分に優しい男がいいと思っていたが、彼との出会いで、容姿や収入ではなく、人柄からにじみ出るような素朴さもいいものだと、いつの間にか考えるようになっていた。そういう思いを持つようになってからは、静江の方がより強く彼との関係にはまっていった気がする。彼女が彼との結婚を意識するようになったのも、それからすぐのことである。


 幸いなことに、彼の娘の夏穂は、初めから静江に懐いてくれた。夏穂は生まれてすぐに母を亡くしているので、やはり母親の温もりに餓えていたのだろうと静江は思う。いまはもう、毎日をこうして夏穂と過ごすのが、静江にとっても自然のことになっている。


 彼と夏穂との、三人での生活が始まってからまだ三ヶ月だった。この秋には入籍する予定で、現在は彼のマンションでともに生活している。静江は、ようやく自分の居場所が見つかったという思いだった。もちろん池袋の店は辞めているし、もう二度と水商売になど戻らないつもりだった。一年前に人目を忍ぶように生活を始めたアパートも引き払って、いまではすっかり、誰が見ても幸せな毎日を過ごす奥さんに見えるだろう。


 ただ一つだけ、静江の心のなかには、決して忘れることのない存在がある。毎日、彼女はその存在を思い出して、心のなかで泣く。捨てたという思いは消えない。そして捨てた自分の罪も、静江が覚えている限り決して消えないのだ。


「ねーえ、また作ったよお?」


 夏穂の声が、静江の白昼夢をかき消した。またあの存在を心に思い描き、ぼうっとしていたのかもしれない。いつの日か、忘れることができるのかしらと静江は思った。もちろん、それが無理なことなど、彼女には痛いほどわかっていたのだが。


「またずいぶん大きく作ったねえ」


 静江は近くに寄ってきた夏穂の躰を素早く捕まえて、抱きしめた。夏穂はころころと鈴のような笑い声を上げて、嬉しそうに静江に抱きついた。


「なっちゃん、そろそろお家に戻らないとだよ。おやつの時間だもんね」

「まーだ。もうちょっとお」

「あら、じゃあもう少しだけね」


 夏穂は静江から離れると、鼻息も荒く砂場に戻っていった。手には、しっかりと赤いスコップが握りしめられている。


「可愛い、お子さんですね」


 男の声が、後ろから聞こえた。振り向くと、静江と同い年ぐらいの男が立っていた。長身の痩せた男。髪は肩にかかるぐらいで、癖毛らしくあちこちに跳ねている。よく見ると、もう一人後ろにいるようだ。そちらは黒のTシャツに迷彩のカーゴパンツを履いた若者で、どことなくその筋の人間のようにも思える。水商売の経験がある静江は、この手の人間に少しだけ鼻がきく。客として来ることも、たまにあったからだ。


「あの、何か、ご用でしょうか」


 男は、静江に笑顔を見せて云った。


「いえ、別に用というほどでは。この公園は過ごしやすいところですね。子供たちも、ここでなら安心して遊べるな」


 静江は、後ろの若者に比べれば、この男には邪気が無さそうだと思った。


「ええ、うちの子もここで遊ぶのが大好きなんです。ここに来ればお友達も多いですし」

「そのようだ。三歳か四歳ですか。それにしても可愛い娘さんだ」

「ええ、四歳になります」


 男は少しの間、黙ってしまった。彼は表情を変えずに、公園で遊んでいる子供たちを眺めている。


「子供は、こうやって親に見守られて元気に遊ぶのが一番いいもんですね。それができずに、育ってしまう子だっているんだから」


 静江は、男を見た。男は彼女の方を見ていなかった。いや、意識して見ないようにしているのかもしれない。


「知り合いで、子供がいるんですよ。小学校五年生の男の子でね。こういうところで、多分遊べなかったんじゃないかな。もう五年生だから、遊ぶ機会もないと思うけど」

「その子は」喉から続きが出そうになった瞬間、静江は言葉を呑み込んだ。云えば、後戻りできない。

「あ……いや、元気な、子なんですか?」辛うじて出した言葉。男は、どう思っただろうか。

「それは、どうだろうな。ずいぶんとひどい目に遭ったから」


 静江は、頭がくらくらしてきた。心配で心配でたまらなくなる。彼女は宇木田高雄のことを思い出した。ひどい目に遭わせるとしたら、宇木田以外には考えられない。中学を出るまでは面倒を見る約束で、それまでは毎月仕送りだってしているのだ。もっとも、宇木田がその金を当初の目的通りに使うかどうかはいささか疑わしいが。


「ひどい目って……」

「死ぬほどじゃありません。そして多分、もう苦しいことはすべて終わった。あとは母親の元に戻るだけだが」


 男は、静江を正面から見た。静江は、まっすぐ射貫くような視線を感じた。


「問題は、戻るところがあるかどうか」


 静江は目を逸らしてしまった。住所を書き置きしてきたのは覚えている。短い手紙を添えて、わずかな現金と一緒に勉強机の奥に押し込んだのだって、まるで昨日のことのように鮮明だった。あのときは、確かにちょっと離れるだけだと思っていたのだ。そう自分に云い訊かせた。しかし静江は、とにかくあの宇木田との生活から逃げ出すことが第一で、自分のなかでありとあらゆる言い訳を作っていたことに、あとで気がついた。またすぐに逢えると思ったことすら勝手な理由付けで、結局彼女は自分一人で人生をやり直したかっただけなのだ。あの現金と手紙は、自分のために置いていったものかもしれないと、静江は毎日自分を責めている。


 しかし静江は、ここに引っ越してくるときに決断していた。いま目の前にある幸せを掴むために、それまでの過去を捨ててしまおうと。すべてを忘れてしまおうと。そんな決断を下してしまった自分に、もう彼の母でいる資格なんてあるわけがない。かけがえのない存在を犠牲にすることでいまの幸福を掴んだ女が、どうして彼の前に現れることができるだろう。


 ――しかし、もし一目でも逢えるなら……。


「あの」静江は、男に答えようとした。そこに夏穂が駆け寄ってきて、静江の足にしっかりとしがみついてきた。


「ねえ、ママ。そろそろおやつがいいよう」


 静江は、夏穂を見た。まだあどけない少女の顔の向こうには、静江の思い描いてきた幸福のすべてが広がっているように思えた。幸せとは、なんてはかないのだろうと彼女は実感する。たった一つボタンを掛け違えるだけで、幸せは一瞬で崩れ去るのだ。いまこの場で叫ぶ一言だけで、自分を含めた何人もの人間が不幸になる。


「ママ、泣いてるの?」


 夏穂のその言葉で、静江は自分の涙に気がついた。彼女はその場に膝をつき、夏穂の躰をしっかりと抱きしめて、声を上げて泣いた。


 涙をいくら流しても、自分の罪は決して消えはしない。あの子を捨てて、自分だけの幸せを掴み、そしてまた彼を捨てるのだ。涙などでは、決してその罪をあがなうことなどできはしないだろう。

 静江は、絞り出すような声で、一年ぶりに彼の名前を口にした。


「守……ごめんなさい」

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