第六章
1 盗品
ウェイターが銀の盆にコーヒーを一つ乗せて運んできた。ちょうどテーブルの上にカップが置かれた瞬間、軽やかな鈴の音が店内に響く。入り口の扉に付けられた鈴が、新たな客の到来を告げていた。
志賀哲哉は、最後に会ったときと同じ、黒のスーツにネクタイ姿だった。きょろきょろと店内を見回している志賀に、上條は手を挙げて居場所を伝えた。
「どうしたんだい、上條さん。急な連絡で驚いたぜ」
志賀は上條の向かいに座ると、煙草を取り出した。
「おっと。煙草は、できれば遠慮してもらいたいですね」
「上條さん、吸わなかったっけ」
「そんな躰に悪いもの、吸うわけないでしょう」
「健康派だね。全然似合わないと思うんだけど。ああ、確かボクシングの心得があるんだよね」
上條は、志賀に自分の過去を話したことはない。とすれば、先日の一件か。志賀は、上條の怪訝な表情に答えるように話し出した。
「タイチがね、云ってたからさ。少しはかじってるって。そうそう。あいついい腕してるでしょ。まだ若くて口数も少ないんだけど、いい仕事するんだわ。お兄さん、俺もブレンドね」
志賀は、少し離れたところにいるウェイターに大声で告げると、煙草をしまった。
「それにしても上條さんの顔、すっかり元通りだね。あれからずいぶん腫れたと思うんだけど、若いから治りも早いんだな」
「おかげさまで」
「それで、今日はどうしたの?」
「ちょっとお願いしたいことができましてね」
「お願い? ヤクザにお願いするとあとが怖いけど、いいのかな」
「無くした物がありまして。鞄なんですが」
「なんかやばいブツ?」
「いや、そういうんじゃないんですよ。子供が無くしたスポーツバッグで、なかには紙切れや着替えや、あと現金が二万円ほど」
「大事なものなんだ」
「ええ。その子にとっては」
「なるほど。盗まれたのかい? この町田で」
「おそらく。場所は町田街道沿いのコンビニだと思います」
ウェイターが志賀にコーヒーを運んできた。志賀は少し考えてから、テーブルに置かれたカップを持ち上げて一口啜った。
「うん、この店のコーヒーの味は相変わらずだな。不味い」
「そうですね。確かに旨くはない」
「でも、この店は無くならない。食い物も飲み物もそこそこ、サービスも良い方じゃない。たまに入ってみても、客の入りはいま一歩だ。しかし俺が餓鬼の頃から続いてる。いや下手すれば、もっと昔からやってるだろうな。何故だかわかるかい?」
「いや、何故です?」
「コーヒーやサービス以外の存在価値があるからさ。堅気のお客様にとってじゃないぜ」
「組にとってですか」
「まあそんなところだ。こんな店が街のなかに何カ所もある」
志賀が何を云いたいのか、上條にはまだわからなかった。こういうときは下手に相づちを打たない方がいい。
「店ってのはさ。結構便利なんだ。仕入れや在庫がいつも動いているからやばいブツを流すのに利用しやすいし、小さいが一応法人なんで、そんなに多額じゃなければ現金も洗いやすい。まあ一店舗じゃたかがしれてるが」
実際、そういう店は志賀の云う通りいくつもあるのだろう。上條は志賀の云いたいことが何となくわかってきた。
「組のケツ持ちってことじゃないですよね」
「いま風に云えば直営店ってところかな。特に最近じゃあ、ブツを沈めるのに重宝だと聞いている」
沈めるというのは、彼らの隠語で盗品を現金化することである。
上條は、志賀が不味いと評したコーヒーを一口呑んだ。煮詰まったコーヒー特有の酸味が舌に障った。確かに不味い。
「以前は、倉庫丸々一つ分のブツを沈めるなんてこともあったが、いまはちょっと事情が違う。街のなかで盗まれたものを組が仲介して手数料をハネるなんて、そんな細かいシノギも盛んらしい。ただそうなると、素人同然の顧客から盗品を預かることになる」
志賀は、スーツのボタンを外して、背もたれに深く寄りかかった。
「つまり、どうしても目立たない受け渡し場所が必要になるってことさ。ここなら、小さな金のやり取りもできるし、バックヤードも一応完備だ。上條さん、磯川組って知ってるかい?」
「名前だけは」
「あそこは、うちの組長の兄弟筋にあたる組でね。このあたり一体をシマにして、まあいろいろ稼いでる」
志賀は懐からボールペンを取り出すと、テーブルの上の紙ナプキンを一枚取って何かを書き込んだ。
「そこに電話して、島岡ってやつにさっきの鞄の話をすればいい。俺の名前を云えば会ってくれる」
上條は、志賀の差し出した紙ナプキンを受け取った。携帯電話の番号だけが書いてある。
「いまこの街では、どんなに小さな盗品でも島岡の目の前を通り過ぎると云われている。安全にすぐ現金化できるということで、窃盗犯が急増してるらしいぜ」
志賀もそのシノギに一枚噛んでいると、上條には思えた。ITヤクザとして知られている大谷組ならば、盗品をさばくネットワークを構築するぐらい朝飯前だろう。おそらく、インターネットを使わない閉鎖的なネットワークにしているはずだと、上條は検討をつけた。意外とでかい話なのかもしれない。
上條の表情から何かを読み取ったのか、志賀は片頬を少し上げて笑った。悪党の笑顔だと上條は思った。
「こないだ訊いたよね。うちの専属になるって話。俺はまだあきらめてないんだぜ。何せ、人が足りないんだ。それも優秀な人材がね」
だいたい読めたと上條は思った。志賀は磯川組とのシノギで、上條の技術が欲しいのだ。
「これの礼なら別でしますよ」
上條は番号が書かれた紙ナプキンを、指で挟んで志賀によく見えるように少し振った。
「そもそも、俺はお宅の若頭から睨まれてるし」
「今日のことは先日の詫びみたいなもんさ。俺の好意だと思ってくれていい」
志賀は、おもむろに立ち上がってから、上條に云った。
「若頭のことも気にしなくていい。もう終わったことだから。さて、それじゃあ上條さん、また連絡するよ」
「ありがとうございました」
「いいって。あ、そうだ。タイチが表にいるから、少しの間、あんたに付けるよ」
磯川組の島岡と会うまでの、いわばお目付役のようなものだろうと、上條は思った。志賀の言葉に、小さく頷く。
志賀は、「じゃあ」と云ってから軽く上條に手を振り、レジを素通りして店を出て行った。入り口の扉が、彼が入ってきたときと同じく、涼やかな鈴の音を店内に響かせた。
紙ナプキンに書かれた電話番号にかけてみると、しわがれた声の女が出た。何か用かと訊かれたので、志賀の紹介で島岡に会いたいと告げると、町田駅のバスが乗り入れているロータリーに夕方六時に来いと云われた。
上條は、ここから先は守を連れて行くことにした。もし出先で鞄の現物が見つかったら、上條だけでは目的の物かどうか区別が付かない。犯罪の臭いがする場所に子供を連れて行くという罪悪感もあったが、やむなく同行させた方がいいと判断した。
上條は珠子のマンションに電話して守を呼び出し、町田駅まで来るように云うと、携帯電話を切った。
タイチは、上條が喫茶店を出てからずっとついてきている。志賀に命じられたからか、上條の一歩後ろをまるで舎弟のように付き従っていた。黒のTシャツに迷彩色のカーゴパンツを履いたタイチは、背が低いこともあって、一見どこにでもいる若者のようにも見えた。しかし、その引き締まった体躯と鋭い目付きは、よく見れば明らかに危険な雰囲気を周囲に放出している。
上條とタイチが町田駅のロータリーまで来ると、ほんの少し遅れて守がやってきた。時刻は夕方五時半を少し過ぎた頃である。
右足を多少引きずるように歩く守を見て、タイチはおやと思ったようだ。上條は、守が養父から受けた傷がもとで足を引きずるようになったことを知っているが、知らない者が最初に守の歩き方を見れば、やはり痛々しく感じるだろう。
上條とタイチ、守の三人で三十分ほどその場で待つと、やがて、黒のワゴン車が一台、彼らの目の前に停車した。ほとんどの窓に黒いフィルムが貼ってあるので、車内の様子はまったくわからない。
車体左側のスライドドアが開いて、なかから男の声が聞こえてきた。
「志賀さんの紹介で来た、上條さんかい?」
上條が頷くと、暗い車内から男の手だけが伸び、手の平を上に向けて指を何度か折り曲げた。車に乗れというサインだ。
車内には、運転手以外に一人だけが乗っていた。三十代半ばの無精髭を生やした男だ。彼は、三人が車に乗り込むとスライドドアを閉めてから、上條たちに無言でアイマスクを手渡してきた。これから行く場所を、知られたくないということだろう。
上條たちがアイマスクを付けるのを確認してから、ワゴン車は出発した。そこから三十分ほど、上條は何度か車が止まったり、交差点を曲がるような気配を感じたが、実際どのぐらい町田駅から離れたのかはわからなかった。
やがてワゴン車が停車した。無精髭の男の指示でアイマスクを取ると、すでに日が落ちていたらしく、目のなかにあまり光が入ってこない。時計を見ると、もう夜の七時近くだ。
「車を降りて、そこの扉から奥に行け。厨房のなかで、島岡さんがお待ちだ」男がスライドドアを開けながら云った。
三人が車を降りると、そこはどうやら雑居ビルの裏にある駐車場らしかった。一階の中央にある鉄の扉が、男の云う厨房への扉なのだろう。上條は、守とタイチを連れて、その扉の前に行った。
扉の横には、ゴミ用のポリバケツが三つ置いてある。上條には、どこかのレストランの勝手口に思えた。
扉を開けてなかに入ってみると、狭い通路が奥に向かって伸びていた。床には、食用油の缶や、食材らしき物が詰まった段ボール箱が山積みされている。
上條たちが通路を歩いて行くと、一番奥が厨房に繋がっていた。業務用の調理器具が並んだ八畳ほどの部屋で、ほとんどの物がスチールでできている。
その厨房の真ん中に、白いエプロンを着けた一人の男が立っていた。背が低く、黒縁の眼鏡をかけていて、とんでもなく太っている。年は四十歳ぐらいで、頭は見事に禿げ上がっていた。彼は、厨房に入ってきた上條らを一瞬だけ見たが、すぐに視線を彼の目の前にある調理卓の上に戻した。
「島岡さんですか」
男は視線を動かさずに答えた。
「し、志賀ちゃんから話、き、訊いてるよ。か、鞄だって?」
男は甲高い声で答えた。上條たちに手を振って、近くに来るよう促している。
「ええ。青いスポーツバッグです。七月二十八日の夜に、町田街道沿いで無くなりました」
島岡らしき男は、ずっと調理卓の上にある一皿の料理を見ていた。骨付きの肉料理で、できたばかりらしく湯気がうっすらと立ち昇っている。盛りつけの美しさから、プロが仕上げた料理のように思えた。
「そ、その子、男が殺された、マ、マンションから逃げた子供だろ?」島岡が守の方を見て云った。
守の表情が硬くなった。上條は、一瞬守を見てから島岡に訊いてみた。
「どうして、そう思うんです?」
島岡は鳥の鳴くような甲高い笑い声を上げてから、上條の質問に答えた。
「に、二十八日の事件は有名だ。報道も、た、たくさんされた。殺された男の、こ、子供がいなくなったのも有名だ。三十一日の夜、け、警察が青い鞄を探していた。ふふ、二つは関係あるんだろ」
「まあ、その通りですね」
「おい、お、おまえ」島岡は、守を指さして云った。「ふ、服を脱いで、み、見せてみろ」
タイチが、守の前にすっと躰を移動させた。上條は、タイチに視線を送ってから手の平で制した。いまはまだ大丈夫のサインだ。
守が上條を見ていたので、彼は小さく頷いて見せた。守も上條に頷いた。彼はタイチの前に出ると、着ていたTシャツを脱いで見せた。
「これで、いいですか」
守は上半身を島岡に見せた。青黒い痣が胸から腹にかけて広がっている。痣は背中側にもあって、まともな肌の部分の方が少ないぐらいであった。
「ふむ」島岡は、調理卓の上に置いてあった料理を手に取って、それを持ったまま守に近づいてきた。彼は守の上半身をしげしげと見てから云った。
「い、痛かったか。で、でももうやられないんだろ?」
「ええ。あいつは死にましたから」
「な、なら良かった。おまえ、が、がんばったな」
島岡は、守に料理の皿を差し出した。どうやら、食えということらしい。守が、再び上條の方に視線を送ってきたので、頷いて見せた。
守は、骨付きの肉を皿から取り上げると、一口かじった。
「これ、美味しいですね」
守の声には、驚いたような響きがあった。すぐさまもう一口かじりつく。
島岡は守の言葉に満足したらしく、歯を見せて笑った。
「鞄、こ、こちらには来てない。けど、た、多分出てくる。少し時間くれ。れ、連絡する」
彼は上條に向かってそう云うと、背中を見せて三人から離れた。そのまま、厨房の奥にある扉まで行く。
「あの、よろしくお願いします」守が島岡の背中に声をかけて、深々と頭を下げた。
島岡は上條たちの方を一度振り向き、笑みを見せてから、扉を開けて出て行った。扉が閉まる音が、厨房のなかに響き渡った。
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