5 ためらい傷

「第一発見者は被害者の妻。二十三時三十分頃に娘とともに帰宅して、その直後に発見したようです」


 栗橋は、所轄の捜査員らしい男の言葉を、丁寧に手帳に書き付けていた。頭の後ろの髪の毛が乱れていて、何本かの毛が少し跳ねている。稲城署の仮眠室で、徳島に起こされてからまだあまり時間が経っていないので、これは仕方がないだろう。


「奥さんと娘さんはどうしてる?」

「警察の車のなかで待ってもらっています」

「いや、そうじゃなくて、落ち着いてるかってこと」

「ああ、終始落ち着いてましたよ。取り乱したりはしてません。娘もです」


 洗面台の下を確認していた徳島は、顔を上げてから捜査員に訊いた。


「娘さんはいくつぐらいですか?」

「ええと」


 捜査員は、自分の手帳を何枚かめくってから徳島に答えた。


「田辺優美、八歳ですね。奥さんの方は田辺理栄子、四十三歳。被害者の田辺克之とは互いに再婚同士で、娘は奥さんの連れ子だそうです」

「あとで、二人と直接話させてもらっていいかな」

「わかりました。では、車のなかでもうちょっと待ってもらいます」

「よろしくお願いします」


 捜査員は、手帳をしまってから、徳島と栗橋に一礼して出て行った。

 徳島たちがいるのは、浴室の手前にある脱衣所だった。ベージュの洗面台が大きく場所を取っていて、そのすぐ横に洗濯機が置いてある。浴室とはガラス戸で仕切られているが、そのガラス戸はいま全開で開かれていた。浴室のなかには、初老の男が座り込んでバスタブのなかに手を入れ、何やら作業をしている。


「徳島、どう思う?」


 栗橋が唐突に訊いてきた。妻と娘の反応が落ち着いていることに関してだろう。


「気になりますね。普通なら取り乱しているところですが」

「家に帰ってみたら旦那がこうなってた。まあ、普通は取り乱すよな」


 徳島は浴室に足を一歩踏み入れて、バスタブのなかを覗いた。

 そこには、男が一人、両手を上にして仰向けに寝転がっていた。男の両手は手首を結束バンドで縛られて、お湯を出す蛇口の根元に固定されている。口にはタオルのようなものが詰め込まれていて、服は着たままだった。ただしシャワーから湯をかけられたらしく、全身がびしょ濡れである。


 徳島は、遺体の服のあちこちが赤く染まっていることに気がついた。シャワーの水は、発見後に捜査員の手で止められたらしく、いまはもちろん出ていない。


「水に血が混じってますよね。どこから出血してるんだろう」


 初老の男が徳島を見た。保坂夫妻の現場も担当した監察医だ。


「全身から、と云った方がいいかもしれんな」

「というと?」


 監察医は、田辺克之と思われる男のシャツをまくり上げた。すでにボタンが外されていたようで、胸から腹にかけてが露わになった。


「これ見ろ。わかるか?」


 遺体の躰には、赤黒い点のようなものがびっしりと残されていたその数は三十カ所以上はありそうで、まるで注射針を刺した痕のようである。徳島は、所轄時代に検挙した麻薬中毒患者の腕を思い出した。

 栗橋も近くに寄ってきて、徳島の肩越しに遺体を見ている。


「ぽつぽつと無数に傷。刺創ってことは、注射針ですか? いや、大きいのもあるな」

「右の第三と第四肋骨の間、それと左腹部の刺し傷は、おそらく直径二、三ミリ以上の凶器で刺されている。アイスピックかきりのようなものかな。探せば、まだまだ見つかりそうだが。他は相当小さい針で刺されてる。検死台に載せてからじゃないと詳細はわからんが、腕や足にも同じような傷が見られる」

「では、死因は、これらの針ですか」

「そうだと思うが」

「何か気になることでも?」

「ここだけの印象で話すが、犯人は、まずこの男の全身を針で刺した。それも非常に細い針を使っている」

「苦痛を与えるために、でしょうか」

「そんな印象だな。その後、凶器を変えて何度か刺している。胸部や腹部に見られるものがそれだな。ただし、これらが直接の致命傷とは思えない」

「心臓や動脈からはずれているからですか」

「確かに心臓はそれているが、血液の色が鮮紅色に近いから動脈を傷つけた可能性はあると思う。動脈からの出血がある状態で、湯をかけられたまま放置されれば」

「失血死ですか」

「その可能性がもっとも高い。ただ、私が気になるのはこの太い方の傷がね。検死台で確認したいが、どうにも傷が浅いように思えるんだ」


 初老の監察医は、足下に置いてあった銀色のハードケースから、先端がわずかに丸くなっている長さ二十センチほどの針を取り出した。彼はその針を遺体の胸にある傷に刺し入れ、奥まで届くのを確認してから引き抜いた。


「四センチもない。こういった傷は、成人男性が思いきり力を入れて突くと、五センチから十センチは刺さるもんだが」

「犯人がためらった傷だと?」

「まあ、まだ可能性の段階だ。君ら捜査員は、現場で詳しく訊きすぎる。監察医の正式な所見は、検死台での時間をきちんともらってから出させてもらうよ」

「先生、最後に一つだけいいですか」栗橋が監察医に食い下がった。「これ、例の事件と比べてどうです?」

「それこそ、訊きすぎだと思うぞ。下手に先入観を入れてもどうだと思うが」

「まあ、ここだけの話ってことで」


 監察医はため息を一つついてから答えた。


「仕方ないな。私は、似ていると感じたよ。同一犯かどうかは明言できんが、苦痛を与えるプロセスが似通っているように思える。犯人の目的はただ殺すだけでなく、殺す前に苦痛を与えることが大事だと思っているようだな。まるで、決められた手順があるようだ」


 そのとき、浴室の入り口に、先ほど栗橋と話をしていた所轄の捜査員が現れた。


「まだ、こちらかかりますか。奥さんと娘さんが待っていますが」

「ああ、そうだった」栗橋は捜査員の方を見て返事をしてから、徳島を見た。

「徳島、そっち頼んでいいか」

「はい」

「わかってるな」

「ええ。娘の方、確認してきますよ」

「頼む」


 栗橋は監察医に向き直って、再び会話を始めた。どうしてもこの場で訊けることはすべて訊き出してしまいたいらしい。


 徳島は、所轄の捜査員とともに浴室を離れて廊下に出た。鑑識課の撮影係が二人、トイレと居間に通じるドアの取っ手の前でしゃがんで写真を撮っている。そのまま、彼らの邪魔にならないように廊下を歩き、玄関から外に出る。深夜の住宅街とは思えないほどの人垣ができていて、辺りは騒然としていた。どこから訊きつけたのか、すでに報道関係者も集まっているらしく、テレビカメラを持った人間も数人見える。練馬署から動員された制服警官が数名、人垣の前に立っていて、彼らが捜査の邪魔にならないように見張りの役を務めていた。


 徳島は、この一日のめまぐるしい早さに、目眩にも似たものを覚えた。捜査会議で、天使の盾代表の木崎義人が、保坂香織と不倫関係にあったことが判明したのが午後八時頃である。それから木崎の身辺調査に関する手配と、新たな担当の割り振りをして引き継ぎに入ったところで、練馬署からの第一報が入ったのだ。


 自宅で殺害されたと思われる男性の死体を発見。明らかに事件性有り。発見者は被害者宅の妻と娘。


 捜査本部では、急遽、現場捜査班と木崎義人の所在確認、及び張り込み担当班を編制している。徳島は現場捜査班に名乗り出た。彼は、会議終了後すぐに仮眠室へと直行していた栗橋を起こし、機捜車で現場に向かった。その後、深夜一時に現場到着して初動捜査を開始している。


 所轄の捜査員は、徳島を一台のワゴン車まで案内した。紺色のワゴン車で、天井に回転式の赤い緊急ランプを付けている。


 横のスライドドアを開けて車両のなかに入ると、後ろのシートに女性と女の子が座っていた。これが田辺理栄子と優美の親子だろう。


「どうも、捜査一課の徳島と云います」


 母親の理栄子の方が、徳島を見て頭を下げた。


「こんなことになってお気を落とされていることと思いますが、もう少しだけ確認させてください」

「はい。でも、私たち、もう疲れて、何が何やらで」


 田辺理栄子は、疲れた顔を徳島に向けた。確かに取り乱してはいないが、目は落ちくぼんで顔色が悪く、どこか憔悴している印象があった。四十三歳と訊いたが、顔の印象だけなら五十歳を越えているように見える。一方、女の子の方は、静かな印象だった。顔にこれといった表情がなく、感情は一切表に出ていない。徳島は、優美が長袖の服を着ていることに気がついた。


「できれば、早くここを離れたいんです。もう怖くて」

「もう少しですから、ご協力いただきたい。お子さん、優美さんですよね。躰に異状はありませんか?」

「え?」

「優美さんの躰に、異状はありませんか? 例えば鋭利なもので傷つけられているような」

「何故、そんなことを訊くんです」

「申し訳ありません。捜査に必要なことでして。あとで婦人警官をこちらに来させますから、優美さんの躰を確認させてほしいんです」

「お断りします」田辺理栄子は、優美の躰を抱き寄せて云った。

「田辺さん」

「娘を、これ以上苦しませたくないんです。ようやく、終わりが来たのに、苦しい思いから抜け出せたのに」


 徳島は、田辺理栄子の顔を見据えた。理栄子は、優美の躰をしっかりと抱きしめながら涙を流している。苦しい思いという言葉に、徳島はやはりと思った。優美は、被害者に虐待されていた可能性が高い。


「お母さん」


 母親の腕のなかにいる優美が、いつの間にか理栄子を仰ぎ見ていた。目には、先ほどには見えなかった意思の光が見て取れる。


「お母さん、あたしいいよ。あいつが何をしていたか、知ってもらいたいから」

「優美」

「あのね、あいつこんなことしたの」


 優美は、袖をまくって肌を出してから、徳島に両腕を差し出した。車内灯のわずかな明かりに、彼女の白い肌が浮かび上がる。

 そこに浮かび上がったものを見て、徳島の心は一気にざわついた。頭の芯に怒りの炎が燃え上がる。優美の腕には、手首から二の腕まで、びっしりと針の痕で埋め尽くされていた。


「これは、ひどい」


 そのとき、車のドアが開いて捜査員が声をかけてきた。


「徳島さん、ちょっといいですか」


 徳島は捜査員に頷くと、理栄子と優美の方を向いて云った。


「後ほど、婦人警官が来ますので、それまでもうしばらくお待ちください。優美ちゃんも、いいかな。そのときにもう一度お話を訊かせてね」

「うん」


 優美の返事は、何故か徳島を安心させた。ひどい目に遭っていたにもかかわらず、しっかりとした言葉が出せる優美に、徳島は安堵したのかもしれない。


 田辺理栄子と優美をワゴン車に残して、徳島は車から降りた。先ほど声をかけてきた捜査員が徳島の前に立っている。


「すいません、奥さんと娘さんのご家族の方が見えてるようなんです」

「家族?」


 捜査員が人垣の一角を示した方を見ると、そこには白い半袖のシャツを着て、オートバイのヘルメットを持った青年が立っていた。心配そうにこちらを見ている。


「奥さんの、前の旦那さんとのお子さんだそうです。入れてあげていいですか?」

「ああ、もうちょっと待っててもらってくれ。まず婦人警官を」


 そこで、徳島は青年の顔に見覚えがあることに気がついた。あれはどこだったか。つい最近、彼を間近で見た気がする。

 徳島は言葉途中で、そのまま青年に近づいた。青年が徳島に気がつき、話しかけてくる。


「あの、僕は」

「君……確か、天使の盾で会ったよね。代表の木崎さんに紹介されて」


 彼はそう云われて徳島の顔をまじまじと見た。彼の目にも、徳島を覚えているという光が見て取れる。


「ええ、刑事さんとは天使の盾のオフィスでお会いしました。僕は相馬由多加そうまゆたかです。それより母と妹は無事ですか? 早く会わせてください」

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