3 少年

 上條は、どうすればいいのか、決めかねていた。


 町田の裏通りで、ヤクザ者に手も足も出ないほど殴られた直後、上條は一人の少年と出会い、保護する羽目になった。


 当初は、少年の目が覚めてからでも珠子に警察に連れて行かせればよいと考えていたが、翌日のテレビを見て気が変わった。朝のニュース番組に間違いがなければ、この子は殺人現場から失踪した子供なのである。しかも、警察が躍起になって捜索しているらしく、珠子のマンションの前ですら三時間おきにパトカーが通過する有様であった。


 上條は、少年の右手に血が付いていたのを思い出した。ほとんどが雨で流れてしまい、残りの痕跡も珠子がきれいに拭き取ってしまったようだ。まさかこの少年が殺人の実行犯とは考えにくいが、捜査の手掛かりとなる証拠を消してしまった可能性もあるなと、上條は考えた。


 とはいえ、だからといって彼を連れてすぐに警察に行くというのも考えにくい。別に指名手配されているわけではないが、仕事柄できるだけ警察から離れていたいというのも本音である。


 少年は、保護した夜から発熱して、次の日もずっと伏せっていた。意識もあまりはっきりせず、たまにうなされたような声をあげて、結局話らしい話はまったくできなかった。その間、店を休んで看護をすると宣言した珠子が、ジャージ姿のまま少年に付きっきりで世話をしていた。


 少年を保護してから二日目の朝。今日少年の熱が下がらなければ、やはり病院に連れて行った方がいいだろうと珠子は心配を隠さずに話していたが、上條は別のことを考えていた。起きたばかりの殺人事件に関係している少年となれば、このままの状態でいるより、本当は何とか早く警察に引き渡してしまった方がいい。いくら少年が熱を出して人事不省の状態にあるといっても、あまり長く保護してしまうと、結局警察に連れて行ったときに、いらぬ腹を探られる可能性もある。そしてもう一つ、上條の脳裏には、少年と出会ったときに彼が呟いた言葉が染みついていた。テレビのニュース番組によれば、男が一人殺されていたらしいが、少年が呟いた言葉とその殺人がどのように結びついているか、上條は気になって仕方がなかったのだ。


 そうこうしてるうち、午後近くになって、ようやく少年が目を覚ました。熱も下がっているようで、珠子も見た目に安心した表情を見せている。


「ここ、どこですか」


 目が覚めてぼうっとしているのか、言葉にあまり感情が感じられなかった。少年は上半身を起こして、まず室内を見渡している。


「多分、お前の家からそんなに離れていないよ。覚えてるか? お前は俺の目の前で倒れたんだ」


 少年は上條の声に驚いたのか、一瞬身構えた。


「何もしやしないよ。ここは安全だ」


 上條の顔をしばらく見てから、少年は少しだけ申し訳なさそうな顔をして云った。


「すいません、ちょっと覚えていません」

「そうか。まあ、いい。俺は上條だ。お前は?」

「高遠守、といいます」

「守ちゃんっていうのね。あたしは森川珠子。よろしくね」


 珠子が、守の脇の下から抜いた体温計を再度確認した。


「うん、熱はちゃんと下がってるね。よかった。心配したんだよ」


 上條は高遠という守の名字を訊いて、事件を報道していたニュース番組を思い出した。そこでは失踪した子供の名前は出ていなかったが、殺された男の名は出ていたのだ。確か、宇木田とか云ってたっけ。ということは、守の父親ではないわけだ。


「どうやら、ちゃんと喋れるようだな。自分に何があったか覚えているか? 説明できるか?」

「ちょっと、健ちゃん! そんな乱暴な訊き方ないでしょ! 相手は子供なんだから」


 珠子は、目を吊り上げて上條に云った。


「うむ」

「あのね、守ちゃん。辛いことだったら、無理に思い出すことないんだよ。ゆっくり思い出して、現実に向き合えるようになってから説明してくれたっていいんだからね」

「おい、珠子」

「健ちゃんは黙ってて。子供に向かって辛いことをいきなり訊くなんて、何考えてるの? こういうのは急ぐのが一番良くないの!」


 実際、それは一理あるな、と思った。子供と話す機会など、これまでほとんどなかったのだ。三十代以上のヤクザ者と話す方が、まだ慣れている。訊きたいことがあれば、単刀直入に訊くのが当たり前ぐらいに思っていた。


「ああ……すまなかった。守、君だったっけ?」


 上條と珠子のやり取りを見て、守はほんの少しだけ笑みを浮かべたようだった。


「守でいいです」

「何があったか思い出せるか、それだけでいいから教えてくれ」


 珠子は、苦虫を噛み潰したような表情で上條を見ていた。

 守はしばらくの間黙り込んでから、やがて首を左右に振った。記憶が曖昧だということだろうと、上條は思った。


「あいつ、死んだんですよね」


 一瞬、その言葉にどう答えていいかわからなくなって、上條は珠子と顔を見合わせた。珠子は小さく首を横に振る。上條は、一度小さくため息をついてから、改めて守の目の奥をしっかりと見据えた。大丈夫、こいつは子供だが、しっかり芯はあるようだ。


「男が一人殺された、とテレビでは云っている」

「そうですか」

「大事な人だったか?」


 守は、首を強く左右に振って答えた。


「いえ、死んで当然の奴でした。でも」


 守の言葉に力がこもった。心なしか震えているように見える。上條は、守が両手の拳をしっかりと握りしめていることに気づいた。


「あれのどこまでが本当のことか……でも、すごくひどいことをされて」

「お前、現場を見たんだな」


 守は、目に涙を溜めていた。上條は、その涙が大事な人を亡くした涙ではないことに気づいていた。おそらく、目前でその宇木田とかいう奴が殺されたことにショックを受けているのだろう。


「健ちゃん」


 珠子が上條を見ていた。これぐらいにしておけ、というサインである。


「最後に一つだけだ。守、警察がお前を探している。現場から失踪して時間が経ってるからな」


 守は小さく頷いた。目を真っ赤にしている。


「これから警察に連絡して、お前を保護してもらうが」

「鞄は」


 守がいきなり上條をまっすぐ見つめて云った。


「鞄? 鞄がどうした?」

「僕、鞄をどうしたんだろう。青いスポーツバッグ」


 上條は、守と出会ったときからマンションに連れて来るまでを思い返した。


「俺と会ったときには持っていなかったと思う。何が入ってた?」

「お金と、それから母さんの住所が」


 上條は、守のことが少しわかったような気がした。この子は、養父を殺した犯人から逃げただけではなく、母親を求めて、養父に虐待され続ける毎日から脱出しようとしていたのかもしれない。


「確かに持って出たんだな?」


 守はしっかりと頷いた。


「わかった。警察にはそれも話して探してもらおう。珠子、まずは守になんか食べさせてやれ」

「そうね。すぐに準備する。守ちゃん、何が食べたい? やっと元気になったんだもの。何でも作ってあげるわよ」


 そんなにレパートリーはないくせにと思ったが、上條は口には出さなかった。ここからは、もう珠子に任せておいた方がいいだろう。


「ちょっと出てくる。すぐに戻ってくるから、俺の分も作っといてくれよ」


 上條は、珠子のマンションを出て、五分ほど歩いた先のコンビニまで行き、なかに入らずに駐車場で携帯電話を取り出した。ボタンを素早く押して、電話番号を検索する。もう随分連絡をしていない番号なのだが、いざ検索してみると、すぐに名前が表示された。まさかこんな用事で電話することになるとは思っていなかったがな、と複雑な思いを噛みしめる。


 名前と番号が表示された状態のまま、発信ボタンを押した。何度か呼び出し音が鳴ってから、相手と通話が繋がった気配がした。スピーカーから、懐かしい友の声が聞こえてきた。


「一体どういう風の吹き回しだ? 久しぶりじゃないか、健吾」

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