2 児童相談所

 町田市の児童相談所は、一昨年にできたばかりとのことで、まだ建物も真新しかった。


 白を基調としたシンプルな建築だが、窓枠や柱などに凝った装飾が施されており、云われなければ行政の施設だとはわからないほどだ。駐車場と建物の間には小さな池まであり、その中央にはギリシャ神話の女神のような彫刻が置いてある。


 徳島と栗橋は駐車場から建物に入ると、まず受付で警察手帳を見せ、昨日保護された保坂真一の聴取に来た旨を伝えた。しばらくして男の職員が現れ、二人は所長のオフィスへと案内された。


 華美ではないが、それなりに広いスペースの所長室に入ると、五十代半ばと思われる男が徳島たちを迎えた。頭が綺麗に禿げ上がっていて、身体もかなり大きい。


「どうも、わざわざご苦労様です。所長の剣崎です」

「警視庁捜査一課の徳島と、栗橋です」

「これは、お若い刑事さんですな。昨日保護した真一君ですが、遺体はやはりご両親でしたか」


 剣崎は、徳島と栗橋にソファを勧め、自らもどっかりと革張りのカウチに身を沈めた。


「歯形から確認されました。間違いありません。真一君の具合はどうですか?」

「いやあ、あまり良くないみたいですね。あとでうちの担当を紹介しますが、その者からの報告を訊く限りでは、外部からの接触に非常に消極的ということです。児童心理司が云うには、過度の心的ストレスがかかっているとのことですが」

「つまり、ひどいものを見たと?」

「刑事さんが考えてらっしゃるような光景を見た可能性は、多分にあると思っていいでしょう。誰でも、自分の両親が殺される現場にいたら、なかなか正気ではいられないでしょうから」


 ノックの音がして、入り口のドアが開く。女性が一人、失礼しますと小声で云いながら入ってきた。


「ああ、紹介しましょう。彼女が真一君の担当です。こちらは捜査を担当している刑事さん」

「初めまして。児童福祉司の川田美恵といいます」


 徳島と栗橋は、立ち上がりながら挨拶をした。栗橋の右頬が気持ち上に上がったのに徳島は気がつく。美人を見ると、栗橋はいつもこうである。だが、確かに川田美恵は美しかった。ほっそりとした体付きであるが、激務のなかで生活している者特有の、線の鋭さのようなものが感じられる。年の頃は三十代後半といったところか。


「彼女、以前から保坂真一君の担当でね。実はご両親とも面識があったんですよ」

「それは真一君への虐待に関して、今回の事件の前からこちらで担当されていたということですね?」

「ええ、アパートの近隣の方や、あと病院からも通報がありましたから。こちらでも状況を調査して、二度ほど訪問面談を行いました」


 川田が、剣崎の隣の空いている椅子に腰掛けながら云った。


「それは、保坂武彦氏だけ? それとも奥さんも一緒に?」

「ご両親ともにお会いしましたが、真一君には会わせてもらえませんでした」

「それは何故でしょう?」栗橋が、手帳を取り出しながら川田に尋ねた。

「たいていは、子供の傷を見られたくないからです。虐待していることが明らかになってしまうので、隠そうとするんです」


 川田は、ため息を一度ついてから再び話し出した。


「親からしてみると、家庭内のことに他人が口出しをしているという認識なんです。特に父親はその傾向が強い。母親の方は、子育てに悩んでいたりして精神的に不安定なことが多いので、相談という名目にすると、まだこちらの話を訊いてくれることもあるんですが。保坂さんの場合は、ご夫婦ともに子供にはあまり興味がないという感じを受けましたので、こちらとしても緊急的措置を検討していたところです」

「緊急的措置、ですか」

「はい。奥さんの方がどうやら真一君を病院に連れて行ったらしく、その病院から通報があったのです。全身に、ひどい火傷の痕のある子がいると」


 ひどい話だが、よくある話でもある、と徳島は思った。こんなことがよくあること自体、何かが間違っているとしか思えないが。


「病院からの通報で、保坂さんの息子さんが日常的にひどい虐待を受けている可能性が強くなりました。その上、親の方も子供への愛情や関心が希薄だということになれば、これはもう子供の命が危ないということになります。それで、児相としては立ち入り調査の実施を検討していました」

「それは、保坂さん宅に立ち入って虐待の証拠をつかむってことですか?」徳島の質問に、剣崎所長が答えた。

「そうなりますね。児童虐待防止法によって、児童相談所は、警察や病院、保健所、教育機関と連携して、必要とあらば家庭内に立ち入って調査をすることが認められているんです。それで虐待の事実が確認できれば、所長の権限で親の親権を一時停止することができます」

「親権停止ですか」

「そう、そこが重要なんですよ」剣崎所長が身を乗り出して云った。

「親権を一時的に停止できれば、強制的に児童を親から切り離すことができます。以前は、法は家庭に入らずということで、虐待があっても親がしつけという言葉を振りかざせば、行政は立ち入ることができませんでしたが、十年前に児童虐待防止法が改正されたことで、虐待の事実さえ認められれば、立ち入り調査という名目で強制的に介入することができるようになった。これで救える児童は格段に増えたわけです」

「なるほど。それで、保坂夫妻のケースでも親権を一時停止して、真一君を保護しようと考えていたんですね?」


 徳島はメモを取りながら、川田を見た。川田は、先ほどからずっと目を伏せていて、徳島たちを見ていなかった。


「はい。来週頭に予定していました」

「あと、少しだったんですね」

「実に残念です。彼を一時保護できていれば、少なくとも辛いものを見せることはありませんでしたから」


 両親が殺される現場を、という意味であろう。真一のいまの状態に、川田は少なからずショックを受けているのだろうと、徳島は思った。


「いま、真一君の状態はいかがです?」

「良くないですね。我々が話しかけても、まったく反応がないんです。いま医師が診察中ですが、正直、聴取は難しいと思います」

「それは、困ったな」


 徳島は、栗橋と目を合わせた。栗橋が小さく頷く。真一の聴取は、最悪後日になっても仕方ないというサインだ。


「では川田さんに、もう一つ質問なんですが」

「はい」

「保坂夫妻を恨んでるような人物に心当たりがあるなら、教えていただきたいんです」

「恨んでる人物ですか。殺したいほど、ということですね」

「ええ、そうとってもらってかまいません」

「ちょっと、思いつきませんね。会ったことはありますが、個人的に知っていたわけではないので」

「たとえば、保坂夫妻を通報してきた人たちのなかで、気になる人物がいるとか」

「保坂夫妻を通報してきた人は、どうやら近隣の人が多かったみたいですね。子供の悲鳴で通報をした人がほとんどだったようですから、個人的な繋がりはちょっとわかりません。匿名ではなくて、氏名を伝えてくれた人は記録してありますので、後でコピーをお渡しします」

「ありがとうございます。最後に、真一君の様子だけでも拝見できませんか」

「担当の医師に相談してみます。見るだけなら、多分大丈夫だと思いますので」


 川田は、徳島たちに一礼してから、医師の許可を取りに部屋を出て行った。実際、医師の許可はすぐに出たようで、剣崎所長が日常的な業務の流れと児童保護の理念を長々と話し始めたあたりで、徳島と栗橋を呼びに戻ってきた。

 所長室を出たあと、川田は、徳島たちの前を歩きながら振り返らずに話し始めた。


「さっき所長が、虐待の事実が認められれば、行政の力で児童が救えるようになってきていると云ってましたが」

「ええ、仰ってましたね」

「実際には、ほとんどのケースで、後手後手にまわることが多いんです。虐待の通報があってから訪問面談をしても、いろんな理由を付けて子供を見せてくれない親御さんが多いですし、なかには児童相談所の介入を嫌って、担当区域外に引っ越してしまう方も結構いらっしゃる。そうこうしてるうちに、虐待が命に関わるところまで進行してしまうケースが本当に多いんです。もっと頻繁に立ち入り調査が行えればいいんですが」


 徳島は川田の後ろ姿を見つめた。顔は見えないが、言葉の重さで川田の無念が伝わってくるような気がした。


「この町田児童相談所だけでも、月にだいたい四十件から五十件の虐待と思われる通報があるんです。それらをすべて調査して、面談をして、虐待が疑われるものに立ち入り調査だなんて、予算も人員もとても追いつかないのが実情です」


 川田の言葉に、徳島は激しく違和感を覚えた。予算や人員が足りないから助けられないと、虐待を受けている子供たちに果たして云うことができるのだろうか?


「しかし、それが児童相談所の役目でしょう?」


 徳島は、思わず云ってしまっていた。云ってから、自分の口調の強さに気がつく。川田美恵は、その言葉で歩みを止め、徳島たちの方へと振り向いた。栗橋が、固い笑みを浮かべて素早く間に入る。


「いや、すいませんね。こいつは結構はっきり云っちゃう方なんで」


 川田は一瞬だけ徳島を睨んだが、すぐにこわばった表情を崩して、少しだけ微笑んだ。


「いえ、刑事さんの仰ってることが正しいです。それが私たちの仕事なんですから。一人でも多くの児童を守らなくてはならないのが、私たちの本分です。以前よりはできることが増えているんだから、もっともっと大勢の子供たちを救えるはずです。文句なんて云ってる暇はありませんよね。云っても仕方がないことを云いました。忘れてください」


 徳島は、思わず出てしまった言葉を川田がすんなりと受け止めたことで、いきなりわき上がってしまった激情が一瞬で冷めてしまったことに気がついた。すぐに真摯な姿勢で謝られたことで、逆に申し訳ない気持ちになる。

 川田はそれ以上何も語らず、黙って前を向き、静かに歩き始めた。


 保坂真一が保護されていたのは、児童相談所の二階の一角を占めている、一時保護棟と呼ばれているエリアだった。他のエリアは床の色が淡いベージュだったが、ここだけは薄いグリーンのカーペットが敷かれている。


 病院の小児科病棟に似ているなと、徳島は思った。清潔で、ほんの少しだけ消毒液の匂いを感じる。


 一時保護棟の通路の両側には、大きさの違う部屋がいくつか並んでいた。虐待の度合いや保護の期間、あと年齢や性別などで、入室する児童を分けているのだろう。

 通路の一番奥の部屋まで行くと、川田美恵がノックをしてから扉を開けた。


「先生、刑事さんたちがお見えです」


 徳島たちが入ると、女性の医師が一人、奥から徳島たちに会釈するのが見えた。

 保坂真一は、部屋の中央にあるベッドに腰掛けていた。顔色がやけに白く、発見者の制服警官から訊いていた通り、とても四歳児とは思えないほど痩せている。徳島たちが目の前に来ても、真一はそちらを見ようともせず、ただ宙空を見つめるだけだった。


 壊れている。徳島はただ何となくそんな言葉で保坂真一の状態を心のなかで表現していたが、彼の姿をしばし見ている内に、またもや、あのざわざわとした感触が、心のなかを支配していくのを感じた。


 部屋を出て、一時保護棟の通路を戻り始めるときまで、徳島は、身体のなかの嫌な感触を振り払えないでいた。

 栗橋が、川田の横で保坂真一の今後に関して質問していた。


「では、養護施設の可能性が高いと?」

「ええ。保坂さんのところは、旦那さんのご両親がもう他界されていて、奥さんの実家も絶縁状態だったらしいんです。どうやら駆け落ち同然で結婚されたらしいので。一応確認を取ることになりますが、こういった場合は、いままでの経験からいっても引き取り手が現れることはまず期待できません。残念ですが」

「そうですか。とりあえず、いまのあの状態から脱するといいんですけどねぇ」

「ええ、先生によれば、きちんと治療を続けて、あとは時間が経てばもとに戻る可能性もあるということですが」


 徳島は思い出す。彼が育った環境でも、魂が抜けてしまったような子供は大勢いた。徳島自身がそうであったように、親に虐待され、見捨てられた子供たちは、心に何かしらの障害を抱えてしまう。彼らのなかには、ちょっとしたきっかけで感情が戻って、普通の生活を営むことができるようになった者もいたが、なかにはずっと虚脱状態のまま、心が帰ってこない者も少なからずいた。俺はまだ運が良かったほうだ、と徳島は思う。少なくとも、心を元に戻すきっかけと、それを与えてくれた友がいたのだから。


 徳島と栗橋は、川田に礼を云ってから児童相談所を出た。

 今日の仕事はまだまだ残っている。これから車で稲城署に戻り、宮部に報告をしてから、先ほど、帰り際に川田美恵から受け取った通報者リストのコピーを、現地で一行ずつ潰していかなければならないだろう。


 徳島は、また一日、猛暑を約束するかのような夏の日射しに目を細めながら、駐車場に向かって歩き始めた。

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