アルテミスの刃
来瀬震
プロローグ
火傷
深夜四時過ぎだというのに、車内の温度計は三十二度を指していた。
つい五分ほど前にエンジンをかけたばかりだから、エアコンの送風口からはまだ冷気が吹き出してこない。深夜ということもあって、使用できるパトカーは五台以上あったが、そのうち知っているだけでも二台はエアコンの利きが異常に悪い。今夜は外れを引いちまったようだな、と、安田巡査長は思った。
「こう毎晩熱帯夜だと、夜勤でも全然嬉しくないっすよ。あ、エアコン効くまで窓開けてましょうか」
今夜の相棒として指名した中井巡査が、前方の信号が赤から青に変わったのを確認して、ゆっくりと車を発進させた。同時に、気を利かせて、運転席だけでなく助手席の窓も五センチほど開ける。途端に、窓から涼しげな風が入ってきて、安田の頬を心地よく冷やした。少し文句が多い奴だが、若手のなかでは有望株の警官だと、安田は普段から思っていた。
「これでまだ七月なんだぜ。今年は猛暑らしいから、文句を云うのは早いかもな」
「うへぇ。ところでヤスさん、これどうします?」
中井は、安田の方に一瞬視線を移し、左手の人差し指を上に向けてくるっと一回転させた。
「パトランプだけでサイレンはやめとこうや。どうやら児童は通報者に保護されてるようだし、ここから十分もかからんしな」
中井は軽くうなずくと、左手で赤色灯のスイッチを入れた。赤く回転する光が、周りの車に反射してわずかに窓の外から入り込んでくる。
東京と神奈川の県境である稲城市の住宅街で、小さな子供が一人で歩いていると一一○番通報が入ったのが、夜中の三時五十二分であった。最寄りの警察署に連絡が入り、夜勤で詰めていた地域課の巡査長である安田がすぐに向かうと応答を入れて、三時五十七分には中井巡査とともにパトカーで出動している。
通報によれば、児童を発見したのは近隣の主婦らしく、熱帯夜でうまく寝付けないところに、子供の泣き声が耳に入ったらしい。泣き声が家の横の道路から聞こえて来たため、不審に思って家の外に出てみたところ、まだ幼い男児が一人で歩いていたという。急いで家の外に出て子供を保護したあと、続いて起きてきた旦那が通報したというのだ。こんな深夜に三、四歳にもならなさそうな児童が一人で歩いていたわけだから、これはもう何か起きたと考えていいだろう。少なくとも、親の所在を急いで確認しなければならない。
「どうせ、子供連れて呑みに行った親が、どっかで酔いつぶれてるんじゃないっすかね」
「だといいんだがな」
「ここら辺ですよね。おっと、あの家かな」
中井が指し示した方にちょうど車のライトが当たると、白壁のモダンな住宅の前に、青いTシャツにグレーのスエットを着た四十代の女性らしき人影と、一人の子供の姿が浮かび上がった。
パトカーを家の前に停め、あまり大きな音がしないように車から降りる。それでも、車のドアを閉める音が周囲の家に反響して、やたらと耳に残った。
「通報された方ですか? その子が一人で歩いてた子?」
まず中井が女性に話しかける。
「夜分ご苦労様です。そう、この子なんですよ。かわいそうに、こんな夜中にねぇ」
安田は、男児をまずじっくりと確認した。見た目三、四歳ぐらいの男の子。服装は子供用のジーンズに白いシャツ。それに緑色のリュックを背負っている。年の割には顔の線が細く、見た目に痩せているのがわかる。妙に顔色が白く、無表情なのが気にかかった。さっきまで泣いていたというが、いまは感情がすべて引っ込んでしまっているようだ。大人に会って落ち着いたのだろうか。
「通報したのはうちの旦那なんですけどね。明日の朝早いからって、もう寝るっていうんですよ。まったく薄情なんだから」
「とりあえず事情を訊いて、それから署に連絡頼む」
安田がそう指示を出すと、中井は小さく頷いてから通報までのあらましを主婦に確認し始めた。
安田は、よっこらしょとつぶやきながら、子供の前で中腰になった。
「さて、おじちゃんたちは警察官なんだけど。お父さんかお母さんは、どうしたのかな?」
子供は安田の方をまったく見ていない。というより、何も見えていないような印象だった。
「どこに住んでるの? 住んでる場所、わかる?」
やはり反応がない。まるでスイッチが切れたかのように、ただ宙空を見つめているだけだ。
そのとき、安田は子供の着ている服の袖のところに、大きな染みが付いているのを見つけた。幅は十センチぐらいで、暗い色の染みである。ベルトから懐中電灯を取り出して袖を照らしてみると、光を反射してわずかに光った。
「中井巡査、これ見ろ」
安田の声に含まれている緊張感に反応したのか、中井は主婦の話を遮って、安田が指し示しているものを見た。
「染み……血ですかね」
「っぽいよな。しかもまだ新しい。乾いていない」
主婦の方を見ると、主婦は首を左右に激しく振っていた。
「あたしは知りませんよ、そんなもの」
安田はため息を付くと、制服の肩に付けている無線機のマイクを取った。
「とりあえず、子供はこちらで保護します。奥さんはこれでもういいですよ。また訊かなきゃならないことがあれば、後日、署から連絡が来ますから」
明らかに安堵の表情を浮かべている主婦に別れを告げてから、安田は署に連絡を入れた。子供を保護したことと、子供の衣服に血痕らしきものを発見したことを伝え、逆に捜索願いが出ていないかを確認したが、署からの応答ではどこからも入っていないとのことだった。
無線のスイッチを切ってパトカーの方に歩き出すと、先に子供を車に連れて行った中井が、安田に向かって手を振っているのが目に入った。
「ヤスさん、ありました。子供のリュックに住所が書いてありますね」
中井の声に手を振って答えた安田は、何故か子供の宙空を見つめている無表情の顔を思い出していた。どんな目に遭えば、あんな目をするんだろう。これから向かうであろう彼の家に、その答えがあるのだろうか。
リュックのなかに書かれていた住所によれば、子供が住んでいるのは、主婦の家から四百メートルほど離れた場所にある「パークハイム長峰」というアパートだった。すぐ目の前が児童公園になっていて、二年ほど前から数人のホームレスが居住を始めていたこともあり、安田も何度か行ったことがある。稲城市には明確に治安の悪い地域というのは存在しなかったが、この界隈だけは家賃が低い物件が集中していることもあって、事件性のある通報が時たま入る場所でもあった。
子供のリュックには、住所だけでなく名前も書かれていた。保坂真一と書かれたネームプレートは、明らかに母親が書いたらしく、どこか女性的な字で綴られていた。もちろん電話番号も記載されていたが、こちらは何度かけても誰も出なかった。やはり、直接行くしかなさそうだ。
「真一君でいいんだよね。このアパートが君の家かな」
洒落た名前の割には、築三十年は経ってそうな木造アパートの前に車を停めてから、中井が少年に声をかけた。
おそらく保坂真一であろう少年は、車の後部座席に座ると、膝を抱えたまま何も語ろうとせず、石のように固まってしまっている。中井は心配そうに少年を見つめていた。
保坂真一の服に付着していた染みが血痕だとすると、まず最初に真一自身が怪我をしているかもしれないと、車を発進させる前に、中井が少年を軽く調べていた。結果は、一応無傷。手も足も細く、安田が最初に抱いた印象の通り驚くほど痩せた少年だったが、出血が認められるような傷はどこにも発見できなかった。ただし、おびただしいほどの火傷の痕が腕と足に見つかった。煙草を押しつけたような痕や、もう少し広範囲の熱湯でもかけたような痕も見える。全身を調べたわけではないが、この様子だと背中や腹にもあるはずだ。
安田は、幾度か経験した事例から、これが児童虐待に関連したケースになると踏んでいた。保坂真一は明らかな栄養不良で痩せていたし、火傷の痕は事故によるものとは思いがたい。そして、自分の家の前に来ても表情が一切出てこない。日頃から虐待されている親に、今夜は無情にも追い出されてしまった、といったところか。
安田は高校生になったばかりの自分の娘を思い浮かべた。彼女が幼かった頃を思い出しても、いま目の前にいる保坂真一に比べれば遙かにふっくらとしていたし、火傷などとんでもないことだった。親が子供を普通に育てていれば、三、四歳児があんなに痩せるわけがない。ましてや傷つけるなど、普通の親であれば考えもつかないはずだ。しかし、その普通ではないケースを、安田自身、今年だけでもすでに四回は見ていた。
児童虐待のケースは、かねてより扱いが難しいと安田は感じていた。事件性が認められなければ、警察は家庭内には踏み込めない。加害者である親が「大丈夫」と言い張ってしまえば、確かな証拠が認められない限り、その場で収めなければならないことも少なくないのだ。まだ幼い子供が、他人に向かって親を悪く云うことなどほぼ無いに等しいのだから、子供の身体に残された傷跡を見つけたり、万が一子供が警察官に助けを求めても、親に親権がある限り、その場で子供を保護することは難しい。せいぜい、児童相談所などの行政機関に通告して、後日調査を実施してもらうぐらいが関の山である。安田が経験したいくつかの場合でも、実際に子供が保護されるまで非常に時間がかかってしまうケースが多かった。
「親御さん、いますかね」
中井が、アパートの外階段を二階に上がりながらつぶやいた。子供はとりあえず車に残して、中井と一緒にアパートの二階に向かっていた。書かれていた住所によれば、真一の部屋はどうやら二階の二○四号室らしい。このアパートは一、二階合わせて全部で八室あるようで、手前が一号室となっているから、二階の一番奥の部屋が保坂真一の家のようだ。
通路から一番奥の部屋を窺ってみると、玄関横の窓から明かりが漏れているのがわかった。もうそろそろ朝の五時だから、この家は結局一晩中電気が点いていたことになる。
二○四号室の前まで来ると、中井巡査がドア横にあった呼び鈴のブザーを鳴らした。二度鳴らしてから、三度目をちょっと長く鳴らす。それでも、家のなかからは何の気配も感じ取れなかった。誰もいないのか。
「保坂さん、いらっしゃいますか。保坂さん」
ドアをこつこつとノックしてみた。反応なし。
「いないんですかね。困ったな」
中井はそういうと、ドアノブに手をかけてひねってみた。すっと、何の抵抗もなくドアが手前に開く。
「あらら。鍵、かかってないっすよ」
「中井、ちょっと下がれ」
「え、ヤスさん、どうしたんですか?」
「いいから、下がって俺の後ろにつけ」
声の重さに気づいた中井が、わずかに開いたドアをそのままにして、安田に場所をゆずった。
ドアが手前に開いた瞬間、安田は首の後ろ辺りが妙にむず痒いような、嫌な感覚にとらわれていた。いわゆる第六感のようなものだが、稲城警察署に奉職してからこの二十年、少しでも危ない目に遭いそうなときには、必ずこの感覚が彼を襲った。両腕の手首から肘にかけての皮膚も、毛が逆立つようなちりちりした感じがある。
安田は、右手で腰のホルスターに触れ、そこにお馴染みの黒い鉄の塊があることを確認する。現場で銃など撃ったことはないが、今日がその最初の日にならないという保証はどこにもない。
「保坂さん、いらっしゃいますか。警察の者ですが」
ドアを大きめに開け、部屋の奥に呼びかけてみる。やはり、答えはない。そのとき、安田の鼻腔に、わずかに生臭い匂いが飛び込んできた。
「これって……」
中井は、明らかに怯えていた。そりゃそうだ、と安田は思う。自分も最初のときは怖くて涙が出たもんさ。
「警棒」
「は、はい」
制服警官の正式装備である警棒は、いつでも腰のベルトの右側に装着してある。安田は視線を部屋の奥に見据えたまま、警棒を引き抜いた。中井もそれに倣う。今日に限って、防刃チョッキを着てこなかったのが悔やまれた。まさか児童が保護されたという通報で、防刃チョッキが必要になるとは思っていなかったからだ。
玄関を入ると、まず三畳ほどのキッチン。手前に小さなダイニングテーブルがあって、その奥に和室が二つ見えた。片方の部屋だけ引き戸が半分ほど開いていたが、部屋のなかはよく見えない。
「警察です、誰かいませんか」
わざと大きめに呼びかけながら、安田はゆっくりと室内に入った。
ダイニングテーブルの横まで来たとき、奥の引き戸が半分開いている部屋が見えた。ちらっとだけ、引き戸の向こうに、裸の人間が椅子に座っているような光景が見える。
安田は、中井を後ろに従えてさらに数歩歩き、それが何かを見ようと、引き戸をサッと開けた。
「うっ」
六畳の和室の中央に、裸の男が椅子に縛り付けられていた。手を後ろ手で縛られ、下着以外は何も付けていない。男の胸からは大量の血が流れ出したようで、椅子の下にはどす黒い色の血だまりが広がっていた。
「ち、父親ですかね。死んでるんですか」
「そこら辺に触るなよ。現場確保だ」
中井の顔色がどんどん青くなっていく。おそらく、数分後には、胃の中のものを全部ぶちまけたくなるはずだ。
血は、男の胸の中央に開いた傷から噴出したらしい。見た感じ、鋭利な刃物か何かで心臓を一突きにされたのかもしれない。安田は、男の顔や身体が異常なほど赤いのに気がついた。あちこち水ぶくれが起きていて、皮膚がめくれている部分もあるようだ。顔にいたっては、どうやら熱湯を何度もかけられたようで、すでに素顔がわからないほど変形してしまっている。
これは火傷だ。そう思った瞬間、さっき見た保坂真一の身体に刻まれていた、痛々しい火傷の痕を思い出した。
安田は、肌がちりちりとするような嫌な感じが、治まるどころか、さらにゆっくりと強くなっていくのを感じていた。こいつは、少年に加えられた虐待と同じ方法で殺されたのかもしれない。
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