第七話 起こる奇跡

 一時間くらいたった頃、竹本は不安に駆られていた。色々と自分の作品を見てくれた天本があまり良い表情を見せてくれず、やはり自分には才能が無い、そう言われている気分になったからだ。

「うーん」

「どうだろうか」

 竹本は不安げな顔を隠さずに聞いた。

「悪くはないんだが。自分の感性に合う作品がなー……」

 天本は心なしか、申し訳なさそうな表情で言ってしまった。それを見た竹本は――

「やっぱり、そうだよなぁ。そんなトントン拍子に事は進まないよな」

 天本はなんと言ってよいかわからず、黙ってしまった。

 アトリエに置いてある絵は全部見たかな、とドアの前に立ち戻った天本はアトリエをもう一度、見渡した。そして、先ほどの出来事を思い出した。

 アトリエに入った時に竹本が慌てて、白い布を被せたキャンバスのことだ。その時は、なぜ隠したのか聞かなかったが他の画を見ている間、ずっと天本は気になっていた。

「なぁ、竹本。今はどんなのを描いているんだ?」

 言いたくなければ追及する気はない、そう思わせたくて、あっけらかんと天本は聞いた。

「ああ、俺の目の前にあるこのキャンバスなんだが……」

 言い淀む竹本に天本は――

「そういえば、さとみさんが持ってきたコーヒー飲んでないんじゃないか?」

 竹本は天本がアトリエに入ってから、椅子から一度も立ち上がらず、さとみが持ってきてくれたコーヒーにすら、口をつけてなかったことに違和感を覚えていた。

 何か理由があるのかもしれない、そう考えた天本はそっちから切り崩そうと試みた。

 だが竹本は意を決したのか――

「そんなことより絵のことだろ? 今、描いてるのは……」

 言いながら、キャンバスを覆っていた白い布を静かにはぎ取った。

「……!」

 天本が言葉にならない、声のようなものを発したように聞こえた。

「これは……、さとみさんだよな……?」

「そうだ」

 キャンバスには、竹本の婚約者である『伊藤さとみ』が椅子に腰かけている状態の絵が描かれていた。絵に描かれている情報は、ただそれだけだ。しかし、その絵は何とも形容しがたい魅力を放っていた。

 美しい、鮮やかな筆致、そのような一般的な表現ではとても言い表せないほどの絵だった。

 天本はこれこそ、自分の中にある美的感性の理想と一致する、そう直感した。

「竹本……これだよ、これだ!」

「え、これがどうかしたか? これが何か良いのか?」

 思いもよらない天本の大きな声に驚き、拍子抜けした竹本は素っ頓狂な声を出した。

「そうだ! これだ! 俺の感性にがっちりとハマる……そんな感じだよ!」

 天本は興奮が冷めやらず、大きな声を張り続けた。

「どうして、こんな息抜きで描いた絵が……」

 一方、竹本は未だ、どうしてこの絵を天本が気に入ったのか、理解できずにいた。

 天本の大きな声はリビングまで届いていたのか――

「天本さん、大丈夫ですか? 大きな声を出されていたので……。克己さん、天本さんに何かなさったんじゃあ……」

 さとみが何事かと慌ててドアを開け、言い放った。慌てはしたが、それでも言葉遣いが乱れることはないさとみの様子を見て、天本も少し落ち着いたようだった。

「ごめんなさい、さとみさん。突然、大きな声をだしてしまって」

「いえ、克己かつきさんが粗相してしまったのかと思ったんですが……、そうではないんですね?」

「そんなことするわけないだろ」

 竹本はすぐに言った。

 それを聞いたさとみは、子どもを叱る母親のような表情で竹本を見た。いつものことなのか、その表情を向けられた竹本は委縮いしゅくしたように、少しうつむいた。

「いえ、大丈夫ですよ。竹本は何もしてないんです。ただ、僕が勝手に興奮してしまっただけなんです、これを見て……」

 バスガイドが案内する時のように、手のひらを上にして指をそろえて、さとみが描かれたキャンバスを示しながら天本は言った。

「あ……これは、息抜きに描かせて欲しいって、頼まれてモデルになったんです」

「はい、聞きました。これがあまりにも美しくて、大きな声を」

「そうですか……。でも、たしかに克己はこの絵を描いているとき、すごく嬉しそうに楽しそうに描いていたんです」

 思い出しながら言ったさとみは幸せそうな表情を見せていた。

「そうかなー、別にいつもと同じだよ。むしろ、適当に描いたくらいのつもりだったんだけどな」

 画家っていうのは、自覚を持たずに名作を生み出すものなのかな、そう天本は思った。

「さとみさんの言う通りだと思う。他人から見て、そういう風に見えてる時が一番、気持ちの入った絵を描けるのかもな……」

「そうか。画商やってる天本がそう言うんだから、間違いないんだろうな。信じるよ。で、この絵をどうしてくれるって?」

 早速、ギャラリーに展示してもらえると思った竹本は食い気味に、悪びれた様子もなく、屈託のない笑顔で聞いた。

「なんて聞き方だよ。まぁ、嫌いじゃないけどな、その竹本の図々しいところ」

「克己さん、来てもらっているお客さんにそんな態度はだめですよ」

 またしても、さとみに叱られた竹本は縮こまったが、今度は何だか嬉しそうだった。さとみも釣られて、思わず笑顔になっていた。

「たしかに、こっちとしても話が早いのは助かる。早速、契約の話をしようか」

 天本が事務的な事を詰めようと話を始めた。

「うーん、でもなー、俺そういう小難しい話苦手なんだよ。そうだ! さとみ、お前弁護士だからそういうの得意だろ? 頼んだ」

 言うや否や、竹本はそそくさとアトリエを出て、リビングに向かったようだった。

「ちょっと、克己さん! もう、天本さんすみません」

「いやー、弁護士さんだったんですね。それなら、たしかにそういう話は得意そうだ」

「てっきり、克己さんがそういう話はもうしてるかと……すみません」

「いえ、謝ることじゃあないですよ。じゃあ、契約の話をしましょうか」

 天本は木机の横に置いておいた通勤カバンから、書類一式と万年筆を取り出し、さとみと竹本の契約を交わした。


 弁護士ゆえか、契約関係の話は滞りなく進みあっという間に済んだ。

「はい、これで大丈夫です。ありがとうございます」

「はい。じゃあ、克己さんのことよろしくお願いします」

 二人はお互いにお辞儀をした。

「さて、竹本は何してんのかな」

「本当に、あの人はもう……」

 二人とも竹本の心配をしながら、アトリエを出てリビングに戻った。


リビングに戻ると、竹本はソファにどかっと座り、テレビを観ながらアイスコーヒーを飲んでいた。リビングに戻った二人に気付いた竹本は――

「お、二人ともお疲れ様ー」

 他人事のように軽く言った。また、さとみに叱られるのでは、と天本は思った。が、さすがのさとみも今日は疲れたのか、そんな元気はなかったようだ。

「竹本、さとみさんに任せ過ぎだ」

「役割分担だよ、役割分担。お互い得意なことをやるのが一番だよ」

 もっともらしい理由を述べる竹本に、今度こそさとみは何か言うかと思ったが、またしても何も言わなかった。

 竹本が一端いっぱしの画家になれそうなことに、水を差したくはない、そんな様子だった。どこまで理想の女性なんだろうか、天本は羨ましく思った。


 時刻は正午を過ぎていた。

 契約や絵画の運搬など諸々の段取りを決めた天本は、竹本とさとみに確認をし、そろそろ帰ろうと――

「さて、そろそろ帰るよ。契約も済んだし、後はまた来週の土曜日にな」

「ああ、そうか。土曜日に絵を運搬する業者が来てくれるんだよな?」

「そうだ」

「何月何日の何時頃だっけ?」

「六月三日の土曜日、十三時頃だ」

 まるで、他人事のような反応で少し心配になったが、さとみさんがいるから大丈夫だろう、と天本は安心した。 

「そうだ、天本さん。ちょうどお昼ですし、お昼ご飯を御一緒にいかがですか?」

 さとみはこれからもお世話になる天本に、惜しみのないおもてなしをしたいようだった。

「とてもありがたいんですが、午後から所用がありまして、すみません。また今度、機会があったら」

 至極残念ではあったが、天本は仕方が無く断った。

「そうですか……、用事があるならしょうがないですよね。今度いらしたときは是非食べていってくださいね」

「はい、もちろん。では……」

 そう言うと天本は忘れずに通勤カバンを左手に持ち、リビングを出て玄関へと歩き出した。


 天本は革靴を履き、立ち上がって振り返り――

「それじゃあ、今日はありがとうございました」

「こちらこそ、本当にありがとうございました」

 竹本が言うよりも早く、さとみが言った。本当に竹本の保護者だな、天本はそんなことを思った。

「天本、ありがとう。よろしく頼むよ」

「ああ、わかったよ。それじゃあ、また」

 二人に別れの挨拶を告げると、天本は竹本の自宅マンションを後にした。

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