第六話 記憶と共に

 天本がリビングを出ると、左手前のドアが開け放たれていた。ドアに近寄り、中をのぞき込むと――

 部屋の中央に何かが描かれた、一枚のキャンバスがあった。そのキャンバスの前に、こちらに背を向けて竹本は椅子に座り、筆も持たず絵を眺めていた。


 キャンバスには、何らかの人物が描かれているようだった。


 おそるおそる、その部屋に入ろうと、歩を進めながら天本は声をかけた。

「竹本」

 声をかけると竹本は振り返り「お、天本」と言いながら、慌てて床に置いていた白い布で、目の前のキャンバスを覆い隠した。

 天本は少し不審に思ったが、そのことに触れずにいると――

「中に入ってくれよ」と、天本が部屋に入るのを、少しためらっているのを見かねて、そう声をかけた。

「ああ、邪魔するよ」

 天本は全身を部屋に入れ、後ろ手にドアを閉めた。その瞬間、油絵の独特なあの匂いが充満しているのが良く分かった。

 中学の時、美術部でよく知っているあの匂いだ。すごく、強い臭いだが天本はそのに匂いが割と好きだった。その匂いに惹かれて入部したのかもな、と今になって思うこともあるくらいだ。

 そんなことを思い出させてくれる匂いに夢中になっていた。

「懐かしいだろ」

「ああ、とても懐かしい」

 天本が匂いを懐かしんでいるのがわかったのか、心を読んだかのよううに言ってきた。

「換気はしてるんだけどさ、やっぱり染みついちゃうんだよなぁ」

「それだけ、たくさんの絵を描いてる証拠だろ。勲章みたいなもんじゃないか」

「そう言われると、悪い気はしないけどさ」

 そんな会話をしながら、天本はアトリエの中を見回した。

 壁にかけられている物もあれば、数枚ずつまとめて壁に立てかけられ、布で覆い隠しているものなど、本当にたくさんの数の絵画があるようだった。

「自由に見てくれて良いからな。天本みたいに目が肥えてる人に見てもらうのは、少し緊張するけど」

「目が肥えてるって言っても結局、自分の感性に合うかどうかで決めちゃってるからな。しっかりと、客観的に見なきゃいけないと思うんだが……」

 そう言いながら天本は、そばにあったキャンバスに掛けてある布をはぎ取り、キャンバスを両手でしっかりと持ち上げ、眺めた。

 そのキャンバスには、ほぼ黄色一色で埋め尽くされた、田舎の田園風景が描かれていた。

「あれ? 竹本って中学の頃は抽象画を描いてなかったか?」

「あの頃は多感な時期だろ? だから抽象画とか描いてると、カッコよく見えてモテるかと思ってな。実際には、具象画の方が描きたかったんだよ」

「なるほどなー、その気持ちわかるよ」

 二人は共感して笑い合い、少し場の緊張が解けたようにも思えたが、竹本は依然、緊張した面持おももちだった。

 コンコンとドアをノックする音が聞こえ「失礼します」と言って、さとみが丸い小さなトレーにティーカップやティースプーンなど、二つずつ載せて運んできた。

「さとみ、こっちだこっち」とアトリエに入って、正面にある窓際に設置してある木机に置くよう、竹本は指し示した。促されたさとみは竹本の指示通りに運び、木机にティーカップを二つ丁寧に置いた。

「アイスコーヒーです。ガムシロップとミルクも置いておきますので、よろしかったらどうぞ」

「すみません、ありがとうございます。もちろん、いただきます」

 天本は木机の所まで歩き、持っていた通勤カバンを木机の横に置いた。

 それから、喫茶店で出されたかのように、自然にガムシロップを開けてカップの中へ流し込み、ティースプーンでぐるぐるとかきまぜ、一口飲み「とても美味しいです」と言った。

「お口にあったようで良かったです。それでは」と邪魔にならないよう、あっという間にさとみはアトリエを後にした。

「本当に奥ゆかしい女性だな」

「俺はもう慣れちゃってわかんないな」

 照れ隠しのように竹本は取り繕った。

 コーヒーを飲んだ天本は一息ついて、竹本の作品を品定めしていった。


 中学校の頃の思い出を竹本と語り合いながら。

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