男子高校生を元気にする方法

タイラ

第1話 鈍感朴念仁眼鏡


「なあ、榛名。頼みがあるんだが」

「なに?」

「ちょっと胸を触らせてくれないか?」

「……え?」


 デフォルトのアルカイックスマイルを放棄して、榛名冬花は目を見開いた。

 手に持ったホチキスが、無駄に握られてガチャッと音をたてる。


「今、何て?」

「胸を触らせてくれ」


 よく聞こえなかったのかもしれないと気遣って極力はっきりと発音すると、榛名は数秒沈黙してから細く長くため息をついた。


「ね、それってセクハラというやつでは?」

「セクハラにならないよう、先にお願いしているんだが」

「あ、そっか……なるほど」


 榛名冬花は、一般的な女子高校生像よりは断然淡泊な性格だ。

 1年の時から同じクラスで、一緒に委員会の仕事をするのは2回目。俺にとって比較的仲の良い女生徒だといえる。


「って、やっぱりおかしいよ。ひょっとして南、勉強のしすぎでおかしくなっちゃった?」

「そうかもしれない」

「あのさ、いきなり下衆なお願いをされた女子高生の気持ちとか、考えてみたことがある?」

「意見はごもっとも。では、理由を話そう」


 努めて冷静に返すと、榛名は首を傾けてひとつ瞬きをした。

 肩に届く柔らかそうな髪が、ふわりと揺れる。


「話したからといって、触らせるとは限らないよ?」

「ああ」

「それでもよければどうぞ」


 やはり彼女に頼んだのは間違ってはなかった。


 これがほかの女子だったら、例えば隣の席の佐川だったら、確実に頬を引っ叩かれて罵られていただろう。対して榛名は、こういった理不尽な、あるいは自分の想像の範疇を越えた発言に対して、負の感情よりも好奇心を優先させる傾向がある。

 しかしこれから話そうとしている非常にくだらない話が、彼女の心にどう響くかは予測できない。若干の緊張感を保ちながら、俺は口を開いた。


「今朝、バスで国城と藤丸が一緒になったんだ。二人は、ずっとグラビアアイドルの話をしていた。同じ写真集を持ってるとかで」

「うん、それで?」

「そこで二人が言い争いをはじめたわけだ。国城は胸が重要だという。しかし藤丸は顔が大事だと主張した」

「……なるほど?」

「最終的に、二人は俺に意見を求めてきた」


 既に榛名の視線は絶対零度だ。

 しかしその冷気の三分の二は国城と藤丸に向けられてのもの、ならばまだ耐えられる。


「南の意見かぁ……なんて答えたの?」

「そのテーマについて考えたことがなかったので、答えは保留にした。ちなみに、榛名だったらどっちだ?」

「え?どっちだって、何が?」

「胸か顔か」

「うん、その質問自体色々やばいから。他の女子にしないほうが良いよ、本当に」

「わかっている。俺だって話す相手くらい選んでいる」

「で、南は結局どっちが大事なの?」

「わからない。ただ、国城が最後に言ったんだ。『おっぱいぱふぱふしたら悩みも疲れも吹っ飛んで、元気が出るだろ!』、とな」

「おっぱい……ぱふぱふ?」

「それが本当ならば、是非とも試してみたい。で、今日一日このテーマについて色々想像していたら、逆に疲れた」


 榛名は上目遣いで俺を睨んだ。うん、真剣な顔は、妙な迫力があるな。


「南、疲れてるの?」

「もうじき受験生だし、勉強はしている」

「あー、南は国立狙いだもんね」

「やりたい研究があるからな。それなりに学校は選ぶ」

「うん、その前に友達も選んだ方が良いと思うよ」

「国城も藤丸も、基本的には良い奴だぞ」

「あの二人に吹き込まれて、急におかしなことを言い出さないでってこと。もう……」


 真面目な顔でそこまで言うと、榛名はひとりでぷっと吹き出した。ここで笑ってくれるということは、やはり俺の人選は間違いない。

 ひとしきりクスクス笑うと、榛名はなにか諦めた表情で俺を見上げた。

 眼鏡越しに、視線があう。


「南の言い分は理解したけど、普通そういうの、好きな人にしかさせないと思う」

「しかし、今のところ俺を好きだという女子はいない」

「ああ、うん……そっかあ。今まで、彼女とかは?」

「いない」


 そっか、ともうひとつ頷いて、思い出したようにプリントの端をホチキスで止めると、榛名はなにを考えているかわからないいつもの表情に戻った。


「実は私、南のことけっこう好きなんだ」

「は?」

「面白いから、わりとね。だから、ギリオッケーかな、と思わなくもないんだけど、タダでというわけにもいかないって、葛藤中」

「報酬を要求するほうが不純な気がするぞ」

「そもそも南のお願い自体が不純だから」

「不純か?」

「……南ってオクテだよね」

「それは充分、自覚している」

「うん、そういうとこも、嫌いじゃないなあ……こら、胸ばっかり見ない!まずは仕事を終わらせよう」


 しごくもっともな意見に納得したので、俺は黙って作業に集中することにした。




 しかし、予想外の事態となった。


 どうやら俺は、榛名に避けられているらしい。

 理由は明白だ、一週間前、委員会の作業中に頼んだアレが原因だろう。榛名ならば怒らない、という推測は当たっていたが、避けられるようになるとは思ってもいなかった。


 現在榛名の席は俺の隣、佐川つばさの席のふたつ前だ。そして佐川は、榛名と仲が良い。休み時間に榛名が席を移動して佐川と喋りに来る確率は70パーセントほど、統計をとったわけではないが、かなりの高頻度だ。それなのにここ数日、榛名は休み時間になるとするりと教室からいなくなる。


 さらに決定的だったのは、今朝の出来事だ。

 昇降口でばったり榛名に出会ったので挨拶をしようと近づくと、あからさまに目を逸らされ、スルーされた。つまり、無視されたということだ。二人きりではなく佐川も一緒にいたので、ひどくきまり悪い思いをしたが、問題の本質はそこではない。


 鉛のような気持ちのまま、6時間目。

 ねえ南、と小声で俺を呼び、隣の席の佐川つばさが俺のほうへ顔を寄せてきた。


「なんだ? 消しゴムか?」

「違う違う」


 今は世界史、授業の単調さに定評のある西口先生。基本注意せず淡々とノルマだけこなすタイプなので、生徒のほうは比較的自由に時間を使っている。

 佐川は上体だけ8度ほどこちらに傾いて、横目で俺を見上げた。


「冬花となにかあったの? 最近、おかしくない?」

「……おかしいって、何が」

「おもに冬花の様子が。ケンカでもした?」


 いや、と首を振ると、今度は体ごと前かがみになってこちらに身を乗り出してくる。机の上に押し付けられた白いシャツの胸元が、むにゅっと柔らかく形をかえた。今まで気付かなかったが、佐川はけっこうな巨乳というやつではないだろうか。あとで国城に教えてやろう。


「とにかく、ちゃんと話したほうが良いよ」

「話すって?」

「またまたあ」


 なにがまたまた、なのかよくわからない。

 俺は佐川の胸元から前方へ視線を移した。おかしな話だが、佐川の巨乳にはさほど興味がわかない。柔らかそうだなという感想はあれど、『触らせてくれないか』と頼む気にはならなかった。いや、殴られるのが怖いというわけではなく。


「ま、今日あんたたち委員会で一緒でしょ」

「そう……、そうだな」

「南はさ、何考えてるかわかりにくいんだから、ちゃんと言葉にしないと」

「わかりにくいか?」

「無表情だし、反応薄いし、眼鏡だし」


 眼鏡は関係無いだろう、と思ったが、一言反論すれば10倍になって返ってくる予感がする。俺が無口だとしたら、積み重ねた経験が黙っていろと警告するからだ。


「だからさ、自分の気持ちくらいはちゃんと表明したほうがいいんじゃない?」

「悪い、意味がわからん」


 正直に簡潔にそれだけ答えると、佐川はすっと目を細めた。

 次の瞬間、光の速さで掌底打ちが繰り出され、俺の二の腕にヒットする。ちなみに、佐川は空手部だ。クリーンヒットしたので、骨に響いた。


「いてっ、」

「この鈍感男」

「は?」


 むっとして言い返そうとしたとき、教壇から先生の気のない声が飛んできた。


「最後尾の二人、喧嘩なら外でやるように」


 気が付くと、周囲の視線がこちらに集まっている。ふたつ前方の榛名もこちらを振り返っていて、一瞬だけ目が合った……ような気がした。


「……すみませんでした。授業を続けてください」


 代表して謝ると西口先生は無言で頷き、お経のような口調で授業を再開する。ちらりと横を見ると、佐川は教科書を眺めて知らん顔だ。

 まったく、割にあわない。


 ひとつため息をついて視線を前方へ戻すと、榛名はもう前を向いていて表情をうかがうことはできなかった。





 行事が近いので委員会は長引いたが、結局榛名とは口をきかなかった。


 しかし、帰るところは一緒だ。

 俺たちは無言で、だけど並んで教室まで歩く。何度か話しかけようとしたけれど、榛名が考え込んでいるようで、話題が浮かばない。なにをそんなに恐れているのだろう、と自己分析をしている間に教室についた。


 教室には既に他に生徒の姿は無く、榛名は自分の席へいったん戻ってから、くるりとこちらを振り向くと前の席の椅子に静かに腰を下ろした。


「南」

「うん」

「ごめん」

「なにが」

「ほら、今朝、ちゃんと挨拶できなくて」


 ぎこちない笑顔。

 しかしおかしなことに、俺の心は軽くなった。榛名もそれを気にかけていてくれたことが、自分でも驚くほどに嬉しかったのだ。

 しかも彼女にそうさせた原因は、きっと俺の言動にある。


「いや、そもそも馬鹿なお願いをした俺が悪かった」

「あれね。うん、あとから色々考えちゃって」


 言われた時は笑って流せたんだけど、と綺麗に笑う。窓から斜めに差し込む西日の加減か、榛名は普段より儚げに見えた。


「……色々って?」

「私、あんまり大きくないし」

「何が?」

「だから、胸」


 そっちか。

 この場合、相手の胸元に視線が行ってしまうのは不可抗力だと思う。そして俺はたいてい、見たままの感想を口にしてしまう傾向にある。


「普通だろ」

「……つばさのが大きいでしょ」

「どうしてそこで、佐川が出てくる?」

「だって、仲良さそうだから」


 榛名は微かにきまりわるそうに、しかしあきらかに拗ねたように唇を尖らせた。こういうとき、どう応えれば良いのだろう。俺には圧倒的に経験が足りない。


「あれは、榛名の話をしてたんだ。佐川は関係無い。胸の大きさも関係無い。俺が言いたいのは……、いや、胸の話はいったん忘れてくれ」


 最初におかしなことを言ったからこんがらがったのだな、と反省する。こういうときは、出発点に戻ってもう一度考え直してみるべきだ。つまり。


「で、改めて頼みがある」

「え?」

「俺を好きになってくれないか?」


 榛名が小さく息を呑むのがわかった。

 イエスノーを叩きつけられる前に、とにかく言いたいことは言ってしまおう。


「どうやら俺は榛名が好きらしい。榛名に避けられたのは、相当堪えた」

「そう、なの?」

「自分でもびっくりするくらい落ち込んだ」

「……そっか」


 ひとつ頷いて、榛名は椅子からそっと立ち上がった。

 何かまた気に障ることでも言ってしまっただろうかと考えている間に、すぐ横にやってきて俺を見おろす。南、と呼ばれたので見上げると、榛名は両手を広げて俺の頭をぎゅっと胸に抱きこんだ。


「落ち込ませて、ごめん」

「いや、」


 これはなんだ。

 どういう状況だ?

 しかし、何も考えられなくなるくらい柔らかい。

 なるほど、国城の言うことにも一理あるな……。そんなことを考えていたら、榛名はちょっと力を緩めて俺の顔を覗き込むと、悪戯っぽく笑った。


「あのね、私も南が好きだよ」


 声を出したらどうにかなりそうな気がする。

 自制心を総動員して頷くと、榛名の瞳が三日月の形になった。


「ね、元気出た?」


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