15.

 三日後のバイト終わり、お店の前で私は稲垣先生に捕まった。

「若い子がしそうな駆け引きだな」

 強引に連れて行かれたファミレスで、お酒の入った稲垣先生は先日の私の起こした行動の経緯を知ると、そう口にした。

 のっけからビールをがぶ飲みし始めた先生は早々にオヤジ化している。

 働く女性のオス化はどうやら事実のようだ。しかも現実は話に聞くよりも酷い様である。

「駆け引きだなんて、そんな高度な戦術ではなく、単に居心地が悪くなっただけです」


 良太の浅はかな判断で、帰り着いた家は静まり返っていた。いや、元々静かな環境なのだが、それとは違う空気感が家中に浸透している印象だ。

「まぁ、結果はどうであれ、何もしないよりは進歩ありかもね。これで明さんが、娘は手を離れたって思って自分の人生に生きるかもしれないし、いや、一生守るべき存在だって気付くかもしれないし。で、どんな感じなの?」

 ビールを三杯飲んだあたりで、稲垣先生はワインを頼み始める。ファミレスなんだけど…。

「あの~飲みすぎじゃないんですか?」

「私のことはいいの。大人はね、こうやって忘れるしか方法はないわけよ。なぜなら、明日も明後日も働きゃなくちゃいけないから。で、どうなの? 変化は?」

 いつも目にするシャキッとした稲垣先生はそこにはいなかった。

 どうやら何かしらプライベートであったことは容易に察しがついたが、触れないことが良心のように思えた。

「良太が言ったように何もなかった、そんな感じです。変化というより、前に戻ったというか。会話がなくなったというか。家を出るって言ってから、明クンのほうが積極的に話すようになっていたんですけど、それが減ったくらいかな。だからなんか、前に先生に言われたことが凄いことだったんだなって、ちょっと思ったりしてます」

 少し氷が解けたおかげで飲みやすくなったジンジャーエールを、私はストローでかき混ぜてから口につける。

「そんなこと私、言ったことあった?」

「簡素な会話で疎通が出来てるって、言ってたじゃないですか」

 私はどこかで傲慢でいたのかもしれない。

 ただ一緒にいるだけで、それは可能なやり取りだったんだと勘違いをしていた。 

「そういうことかぁ~。じゃ、今は何を話しても伝わらないって?」

「いえ、逆です。何か話すたびに、私が伝えることに躊躇うんです」


 自分のどこからどこまでを話せば、明クンとの距離感を保てるのかが曖昧になり、結局私は多くのことを伝えることに戸惑ってしまう。

 良太と知り合ったことも、以前の私なら出会った日に絶対に話題にしたのに、なかなか言い出せず、バイトを始めてやっと報告した。

 今となっては、その理由が彼氏だったからという判断を、明クンは勝手にしているだろう。

「だから訂正します。一緒にいれば分かるっていうのは私のエゴです。私と明クンの会話が簡素でよかったのは、私は話しの中で、明クンは無言の中で、お互いに伝えるべきことをちゃんと伝えていたんだってことです」


 運ばれてきたパスタの香りに私はスーと息を吸い込む。

 大人の忘却する方法がお酒ならば、まだ大人になりきれていない私には食事だ。

 酔っ払って食べる気ゼロの稲垣先生を前に、私はフォークを掴む。

「絢ちゃんは誰に似たんだろうね。その若さで、冷静に精神分析までしちゃって。私にもその能力があれば、お酒なんか必要ないのにな~。明日は二日酔いだわ」

 そう嘆きながらも彼女の手は止まることなく、グラスを掴んでいる。

「苦しむこと分かってて、何で飲むんですか?」

 パスタをクルクル巻きながら尋ねた私に、先生はグラスをガチャンと勢いよく置く。

「分かってても、それ以上に苦しいから飲むのよ! 絢ちゃんだって、その若さで、なんであんなオヤジなのよ! そりゃ、まぁカッコいいことは認めるけど、認めるけどさ…」

 絡み始めた稲垣先生は徐々に声が小さくなると、そのまま固まる。

「先生? 大丈夫ですか?」

「ねぇ~急に思ったんだけど。もし、もしも、その良太君? その子を明さんが連れて来いって言ったり、会いに行ったりした場合の戦略って練ってんの?」

 フォークに巻いたパスタを口に入れたまま、私はそう尋ねた先生に視線を上げる。

「ほら、そのなんていうの、彼みたいにちょっと考え方が飛んじゃってる、いや独創的っていうか、異性の壁なんて関係ないっていうか、そういうタイプの人って意外と物事をオブラートに扱わない人とか多いじゃないかなぁ~って思ったり、なんかりして…」


 私は稲垣先生が言わんとしていることが、即座に理解が出来た。そして彼女の予想通り、良太は正しくそういうタイプの人種だ。

「ほら、三日ってさ、気になっていたことを忘れちゃうか、より気になっちゃうか、そういう時期だと思うんだよね。だから、ほら私も来ちゃったわけだし。大丈夫だとは思うんだけど」

 私は詰め込んだパスタを慌てて噛み砕きながら、自分の鞄からスマホを取り出す。

「ほら、男ってさ、直接聞きづらいことって遠回りっていうか、さ」

「もう、それ以上ほらって言わないで下さい。先生の勘、見事に当たっていますから」

 私はゴクリと飲み込んだ喉に手を添えて、ラインで報告された良太の文面を、酔いから醒めた顔つきの相手に見せる。

【バイト帰りに明君に会ったよ~】

 その暢気な文章が、私の良太への感情を逆なでしていると、彼は思ってもいないだろう。

 私は数分おきに届いていたメッセージをスクロールさせ、最後にまでたどり着くと即行電話をかけた。

「良太、今どこ?」

 相手はすぐに電話に出ると、お店の名前を告げた。

「私が行くまで、もう何も喋らないで。分かった?」

 そう指示を出して、私は席から立ち上がる。

 するとさっきまでヘロヘロだったはずの稲垣先生は、自分と私の分のお水を一気に飲み干し、鞄を持って伝票を手に取っている。

「ほら、こういう時って」

「分かってますよ、単なる好奇心ですよね」

 私はたどり着いた先が最悪の状況下でないことを願いながら、足取りの危うい稲垣先生に手を貸し、お店を出た。


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