12.

 進路の話をしてから明クンの口数が毎日、笑えるほど増え始めた。

 それまでは私が学校の出来事を話しても二つ返事がお決まりで、たまに「それで?」「よかったな」とか味気ないが返ってくる程度。きっと恋人同士や夫婦だったら別れる理由のダントツの一位だ。

 だけど私と明クンの関係ならば、それは何気ない毎日の当たり前の光景だった。彼のテリトリーで育ってきた私には、どこにも違和感も不自然さもなかった。

 だから急に「今日仕事場で」とか「同僚がミスをして」とか明クンが今まで絶対にしなかった自分の話をしてくるほうが私には違和感があり、不自然な空間となっている。


 そんなあからさまな変化が、距離を置きたい私にとっては逆に迷惑なものと化しているのに明クンは気づく気配もなく、今日も食卓から立ち上がらずに話を振ってくる。

「絢は今日、学校はどうだった?」

 私は最後のご飯を口の中に入れ、目線だけを明クンに向ける。真向かいの彼は妙に楽しげな表情だったので、隣に置いていた鞄から書類を出した。

「この前見学に行って、ここに決めたからサインをお願いします」

 この進路を舞子に話したとき、彼女に爆笑された。失礼極まりない反応だったが否定できない覚えがある。

 舞子もそのことを覚えていたようで「自分の血を見ることすら嫌いな絢が看護師? マジで言ってんの?」と言われた。

 確かに嫌いだ。ママが運ばれてきたときに見た、真っ赤な血が今も脳裏に焼きついているせいもある。おかげで初めてアレが来た日はパニックで舞子に助けを求めたくらいだ。

 そんな私が選んだ道だ。決して楽な道ではないし、正直やり遂げることが出来るかも自信はなかった。

 けれど、この道だけはなぜか諦めたくなかった。

「俺の忠告を聞いて、ちゃんと考えたんだよな」

 さっきまでの柔らかな表情が消えた明クンのトーンの低い声が届いて、私は顔を上げる。

「うん、考えたよ。稲垣先生にも意見をもらった。でも変わらなかったんだ」


 稲垣先生の言葉に揺れなかったはずはない。言われたとおり彼女の言葉は時間が経つほど重みを増した。

 明クンの命に関わる話で、淡い想いなんて勝ち目の無いほどの問題だ。

 けれど今の気持ちのままで明クンの傍にいれば、いつか本当に傍にいられなくなるような気もしていた。

 だからこの先、ずっと明クンの傍にいるために今は離れてみて、想いに整理がつけば、そこからは明クンの傍にいられるんじゃないかと思えたのだ。

「そうか」

 明クンは私の意見に今度は何も言わず、ペンを取ってくるとサインをした。

「学費は奨学金の申請出来るって。寮には入学して三ヵ月以内に入ることになってる」

「お金の心配はしなくて大丈夫だ。だから安心して勉強しなさい」

 サインした願書を私に渡す明クンの顔は親の顔をしていた。

 ただし右の頬を掻くような照れた様子ではなく、しっかりとした親の顔だった。


 その顔つきが急に私と明クンの間に現れた父娘という壁のようで、なんだか胸がギュッと締め付けられる感覚がして、悲しくなった。

「何か望んでいたことのはずなのに辛いね」

 私は書類を鞄に入れながら、泣きそうになっていた顔を隠すように下を向いた。

「辛いならやめるか?」

 明クンのその問いに私は俯いたまま首を振り、頬を触ってから明クンを見て告げた。

「ううん。頑張ってみるよ」

 私はそう言って明クンから差し出された最後の手を払いのけた。

 そこまでして決意した明クンからの別離を、すぐに打ち消さなければならない出来事が起こるとも知らずに。



 ママの命日を終え、志望校の受験日だった。

 朝早くに携帯の音が鳴り、私は寝ぼけたままで電話に出ると、声の主は稲垣先生だった。

「明さんと一緒にタクシーで今すぐ病院に。おばちゃんが急変したの」

 私は的確に指示されているはずの言葉の意味が理解できず、体を起こすと頭の中を整理した。

 きっと夢を見ているんだ。最初に思ったことはそれだった。

 だから私は頬を摘む。寝ぼけたままの力だから痛くはなかったけど、掴んでいる感覚は確かにあった。

 その感覚のままベッドから慌てて下りたせいで足をぶつけた。今度は痛みがあった。激痛だ。

 そして私はその痛みを抱えたまま明クンの部屋まで走った。

「明クン!」

 幾度とない朝を迎えたけれど、そんな風に彼の名前を呼びながらドアを開けたことはなかった。

 たったの一度もなかったことが、その日起こった。それだけ私はパニックだった。

「明クン。お、おばあちゃんが…。おばあちゃんが…」

 私の声で目を覚ました明クンは駆け寄ってきたけれど、私は泣きじゃくってそれ以上何も話せず、掴んだままの携帯を差し出した。

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