11.
看護学校の見学に行った帰りだった。バスを待っていると隣に人の気配を感じ、私は顔を向けた。
「こんなところで何してるの?」
「びっくりした~。稲垣先生。何って、これです。先生こそ、どうして?」
私は読んでいた学校の資料をそのままの状態で彼女の方に体ごと半回転する。
「私はこの付属の大学病院で学会があって。何、あそこの学校に行くの? でも確か…」
とても医者とは思えないラフなファッションで、トレンドをちゃんと取り入れているのであろうスタイルの稲垣先生は記憶を辿っている。
「私の家からだと寮に入ることが条件です」
「だよね、ってことは?」
私は読みかけの資料を閉じ、鞄の中に押し込む。
どうやら私の周囲の大人たちは、私と父親との別離を誰もが何よりも気にするらしい。私の進路よりもはるかに。
「俗にいう親離れですよ。そんなに珍しいです?」
スマホを取り出し、私は時間を確認してバスの時刻と照らし合わせる。素っ気無い私の対応が気に入らなかったのか、稲垣先生は私の手を掴むと引っ張り上げた。
「車で来ているから送ってあげる」
私の有無も聞かずに彼女は強引に私を連れて歩き出すと、すぐ近くに停めていた自分の車に乗せた。どうせ明クンについてのことを根掘り葉掘り聞かれるのが目に見えている。
そんな気分で助手席に座っていると、彼女は医者としての顔を私に向けた。
「何、おばちゃんと明さんのために看護師を目指そうと思ったわけ?」
シートベルトを締めようとしていた手を私は止める。祖母まで出てくるとは思っていなかっただけに私はまたしても一瞬固まってしまった。
「ちょっと聞いてる?」
稲垣先生は私を覗き込んで、代わりにシートベルトの最後のガチャンを鳴らす。
「ちゃんと聞いてます。きっかけは先生の言うとおりですけど、決意した理由は自分のためです」
サイドミラーを確認すると稲垣先生は車を発進させる。その運転技術は女性らしからぬ上手さだ。
その姿は幼い頃、いつも私を幼稚園まで送ってくれたママを思い出させる。
「自分のためか。その年で将来を想像して道を選んだってことね。それって凄く立派だけど、何かそんな結論に至る環境ってのも切なくなるわ」
稲垣先生のコメントは何だか同情的な響きを纏っていたけれど、私としてはそんなに渋い選択でもなかった。明クンにも言ったように、ただ自然とそう思えただけなのだ。
「明クンは自分の病気のせいだって思っているけど。私としては今のところ、それは大した意味なんかないんだけど」
最後は独り言のように呟いた私に稲垣先生はチラッとこっちを見て頷いた。
「なんだ、そういうことか」
何か発見した声を出す相手に、私は口を窄めたまま顔を向ける。
その視線を受け止めて彼女はサラリと口にした。
「明さんは気付いているの? 絢ちゃんの中の心境の変化」
ちょうどかかってきた携帯の音と同時に私はビクッと体を震わせ、その反動で持っていたスマホを足元に落とす。
「彼はあのルックスだし、異性を引き寄せるものを持っているし。それに私が知るかぎり、泉に出会うまでは酷い男だったらしいから、普通の男よりは勘が鋭いと思うんだけど」
拾い上げたときに画面に触れたせいで液晶画面には家族写真が登場している。
そこにはママも写っていて、私は思わず携帯の電源を落とした。
「あの、それって」
「別に私に隠す感情じゃないでしょ。むしろ私をライバル視するなら堂々と宣言しなきゃ」
反応に困っている私に稲垣先生は平然とした様子で話を進め、アドバイスまで始める。
「ま、確かに明さんは素敵よ。でも私だってまだ捨てたものじゃないって思っているのに、バツイチだからってシングルだと思われるのは心外だわ」
稲垣先生はそう言って彼氏の話を始める。そんな空気を作ってくれる相手に、戸惑っていた私の表情も和らぎ、話を聞き終えると、祖母の前とは違う素直な気持ちを口にした。
「まだ私自身がこの感情をよく分かってないから。ただの親離れだと思ってる感じだと。実際、私もどこかで家族の延長線上のような気もしてて。ただ…」
「ただ?」
言葉を失った私の後を、彼女は復唱して尋ねる。
「ただ今は家族でいることが切ないし、明クンが私を通してママを見ているのが辛い」
真っ暗な携帯の液晶画面に俯いた私の顔が綺麗に映し出されている。
その顔つきは自分でも戸惑うほど、時々ママが姿を現す。そのたびに明クンが私に向ける切なさと愛しさの意味を知るのだ。
「二年前に絢ちゃんを久しぶりに見た時、こうならなければいいなって、ちょっと思ったんだけど。仕方ないかぁ~明さんだもんね」
病院の廊下で彼女が発した言葉を思い出して、私は少しだけ笑った。
祖母といい彼女といい、大人は凄い。私の感情のずっと先を予測し、心配までするものらしい。
「それじゃ明クンにバレちゃうのも時間の問題ですかね」
そう呟きながら涙が浮かんでくるのを感じて、私はパッと勢いよく顔を上げる。
「う~ん、さすがに解決策は私にも見当つかないな。バレてもバレなくても今までのように家族でいるのは難しいだろうし、新しい関係を築くには色んな障害だってあるわね~。ったく泉は余計な問題を残してくれたもんだわ」
稲垣先生は大きなため息と一緒に、ママへの愚痴を私の代わりに吐いてくれた。
おかげでこぼれるはずだった涙は一歩手間で止まる。
「ま、そう考えると距離を置くって賢明な判断かもだけど、もう一度じっくり考えてから答えを出したほうがいいかな。医者の私が言うと重みが増すから言いたくはないんだけど」
家の前で車をゆっくりと止めた彼女は、ちょうど家から出てきた明クンに合図するように手を上げてから私を見た。
「彼は生きてることが奇跡なの。泉と出会った時からそうだった。だから絢ちゃんの想いが本物なら選択は早い方がいい。明さんの傍にいるのか、離れるのか。絢ちゃんが生きる道を選んだことと同じくらい、その選択はあなたのためよ」
稲垣先生は最後にニコッと笑うと、私のシートベルトのボタンを押し、近づいてくる明クンに車の中で呟く。
「外見だけでも罪な男なのに。こんな少女を内面からも苦しめて暢気なもんだ」
明クンに向けている先生の表情は笑顔なのに、発している言葉があまりにかけ離れていて私は思わず声を出して笑ってしまう。
そんな風に私の代弁をしてくれる存在がいることが、嬉しくて可笑しかった。
ただ何も知らずに悪者になっている明クンが少しだけ不憫で私はフォローを試みる。
「今は苦しめられているけど、今までは明クンがいてくれたおかげで私は救われたから。それに初めて知るこの感情は、不思議だけど大事なものになるって思えるんです」
私が同乗していることに気付いて明クンはいつもの笑顔を見せる。
「ただ、あの笑顔が一番卑怯なんですけどね」
明クンを指差して冷たい視線で訴える。それに彼女は袖を捲り上げると笑った。
「じゃ、私がお仕置きとして医者として喝を入れてやるかな!」
稲垣先生は両手を二度払って勢いよく車を降りていく。
私はオフにした携帯の電源を入れ、笑いかけるママの写真に話しかけた。
「ママが残してくれたものは厄介なものだけじゃなかったよ。おばあちゃんと明クンと、それにママみたいでママじゃない稲垣先生。おかげで私は救われてる」
宣言どおりに明クンに厳しい指導をしている稲垣先生の背中に、私は静かに頭を下げた。
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