10.

 祖母に許可を得た学校の資料を明クンに見せたのは、手元に届いて一週間以上が過ぎた夜のことだった。

「ずいぶん思い切った進路だな」

 机の上に置いたパンフレットを手にとって明クンはそう答えた。

「そうでもないよ。二年の頃、山下と揉めた時には少し考えて始めてた」

 それは嘘じゃなかった。状況や環境の変化でリアルに意識し始めたのは最近だが、元々そういう学校に興味があったのは確かだ。

 ただその時は、明クンと暮らす家を出るという考えはなかった。

「そっか」

 明クンは何か言いたげな表情だったが、それだけしか発しなかった。多分、私がその進路を選んだ理由を聞くのが怖かったのだろう。

 肯定も否定も、してほしくなかったのかもしれない。だから私から決意を述べた。

「明クンの想像通り。私が看護の道を選んだのは明クンの病気があるからだよ」

 ゆっくりとページを捲っていた手を明クンは止め、そのままじっと動かなかった。

「けど明クンが思うほどの深い意味も、使命感もない。ただ自然にそう思っただけなんだ」


 明クンの病気は厄介なもので、何度説明を聞いても今の私には理解ができない。

 ただ頭の中に大きな傷を負っているから、いつそれが悪化するのか分からないというのが、私が理解できている明クンの抱えているものだ。

 いつどうなるか分からない明クンとの結婚を望んだママは相当な覚悟をしただろう。

 祖母が言っていたように私のパパを失った経験をしているのだから、それは本当に勇気のいることだったと思う。

 そして今でも後悔してはいるけれど、最終的に許した祖母もある意味凄いと思った。

 私は幼いながらも、あの怖さを一度経験しかけたから分かっている。

 

 あの日はママを亡くして約一年が過ぎた朝だった。

 明クンの息遣いを確認することが習慣になり、ママが帰って来ないことをちゃんと理解出来た頃、彼は私の目の前で倒れた。

 いつのようにベッドの背もたれに体を預けたまま、彼は頭を抱えて動かなくなった。

 偶然にもその日は祖母が家に泊まっていたこともあって対処は迅速に行われ、大事には至らなかった。運ばれた病院で明クンはすぐに目を覚まし、いつもの笑顔を見せて彼は両手を広げた。

 私はその腕にすがって泣き続け、しばらく離れることすら拒んだ。目を離したらまた明クンが動かなくなるんじゃないかという恐怖に支配されていたからだ。

 初めて怖かった。誰かを失うという意味が分かるようになっていた私にとって、ママがいなくなった時より怖かった。

 いなくなるということは、もう会えないことだから。

「目指すだけで、なれるかは分からないけど、頑張ってみることにしたの。明クンにもし何かあった時、私は泣くことじゃなくて、救うことをしたいから」

 私の意見に明クンは目を落としていたパンフレットを閉じると祖母が嫌う仕草をした。

 それは決して納得している様子ではなかったが、明クンは相変わらず静かな物腰で私の

前にいた。

「ここを出たいだけなら、別にこの進路を選ばなくてもいいじゃない?」

 見透かされた理由の半分を口にした明クンは、いつものように優しい眼差しを私に向けている。その優しい微笑みが今の私には胸を締め付けられる要因だ。

「私の話、聞いてた? 出て行くための理由に聞こえたの?」

「いや、だけどわざわざ寮に入る学校を選んだ理由はそこだろう?」

 テーブルの上に明クンはポンと閉じたパンフレットを投げた。私はこっちを見ている明クンの視線から顔を逸らすようにして茶化す。

「わざわざじゃないよ。そんなに私と一緒に暮らしたい? それは困ったなぁ、私は親離れしたくなったのに。初めての意見の相違だね」


 ママがいなくなってから明クンは幼い私にも必ず意見を求めた。どんな些細なことでも親だから、大人だから、という理由で、私の意志を明クンが無視することはなかった。

 だけど不思議なことに私と明クンの答えはいつも一緒だった。

 おかげで確認作業は減り、互いに意見を求めなくても自分の意思が相手の意思であることを疑わなくなった。多少強引に私が押し切ることも、もちろんあったけれど。

「初めてじゃ…ないだろう。大きな決断をするときはいつも俺が折れてた気がするけど」

 明クンは私の前では滅多に吸わないタバコを手に取り、ゆっくりと火をつける。

「じゃ今回も折れてよ。おばあちゃんはすんなり承諾してくれたから、明クンもそうしてくれるといい気分で頑張れる」

 避けていた視線を明クンに戻して、私は頬杖したまま後押しをせがんだ。

 だけど彼は珍しく険しい顔をして一服息を吐くと、すぐにタバコを灰皿に押し付けた。

「そうか。じゃ俺の許可はなくても手続き出来るな」

 明クンはパンフレットを私の前に押し出すと、同時に席を立った。

「絢がそう望むなら俺は止めないよ。ただ俺の看病のためとか個人的な感情ではなく、もっと大きな視野で考えるべきだ。人が人を救ったり助けたりすることは難しいことじゃないけど、そこに仕事という肩書きがつけば意味合いは複雑になるし、責任や苦痛も伴う。感情だけでやれる仕事じゃないことは、世話になっている俺からのアドバイスだ」


 誰に対しても言葉数の少ない明クンが長く何かを話すことは限られている。

 ママのこと、病気のこと、そして数少ない自分の好きな趣味のこと。だから私は冷たく突き返されたパンフレットを手に取りながらも悲しくはなかった。

「久しぶりに明クンの三行以上の話を聞けた。たまには意見の相違も必要だね」

 部屋に戻ろうとしていた明クンは振り返って腕を組む。

「言っておくけど、俺は賛成じゃないんだからな」

「もちろん分かってるよ、だから返されたんでしょ?」

 私はパンフレットを手にとって見せ、席を立つと笑顔で確認をとる。

「だったら…いいけど」

 予想外の私の反応に、明クンは戸惑った表情で自分の部屋に向かう。私はその背中を見送り、台所の食器洗いを始めながら好きな歌を口ずさむ。

 最初から賛成は望んではいなかった。出来れば明クンだけには反対されたかった。

 そうしてもらえることで私の必要価値を図れる。

 けれど思わぬ嬉しい誤算もあった。

 どうやら私は彼にとって、長く話す対象物であることに間違いない。

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